32 遊煩悩林現神通 入生死園示応化

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↑ 練習した音源(約31分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
近くのご寺院では、下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


《 天親章 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より


前回まで の まとめ

「五念門(ごねんもん)の行(ぎょう)」
 阿弥陀様になられる前 法蔵菩薩であられた時、
 〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉が 五つ あり、
 〈 はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ) 〉されて、
 「阿弥陀如来と成(な)られ、お浄土が現れる」という「善い結果(功徳)」が生まれた。

 ↓

「五功徳門(ごくどくもん)」
 「阿弥陀如来と成(な)られ、お浄土が現れる」という「善い結果(功徳)」は、「南無阿弥陀仏という名号」を通して、五つの〈 衆生に与えられている功徳 〉となる。
 (「お念仏 を通して ご本願に目覚めたならば、五つの功徳の中に入って行く」ので「門(出入り口)」と表現されている。)

 ↓ 五つ全体の功徳

「正信偈」
功徳大宝海(だいほうかい)に帰入(きにゅう)すれば、(三月に見ました)
〈 意訳 〉
私達が阿弥陀様に帰依(きえ)(心から敬(うやま)い、まかせきって、最後の依り所とする)」し、「回入(えにゅう)(自力の計(はか)らい から 心を回(まわ)らせて、本願という他力に心身(しんしん)をゆだねる)」し、お念仏 を いただけば、阿弥陀様が法蔵菩薩であられた時に はかり知ることのできない長い時をかけた修行によって成就された「この上ない 偉大な宝物のような功徳」が、私達の身に満ちあふれることになる。

 ↓

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〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
一、「礼拝門(らいはいもん)」
 身業(しんごう)(体による行い)で礼拝(らいはい)(敬い、手を合わせる)をされた。

 ↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)

〈 衆生に与えられている功徳 〉
「近門(きんもん)」
 阿弥陀様を礼拝(らいはい)することで、「この私を照らし、育て、豊かな人生に導いてくださる『浄土(真実)』」が、近くなり、私に働きかけてくださる。


〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
二、「讃嘆門(さんだんもん)」
 口業(くごう)(口で言うこと)で讃嘆(さんだん)(心が深く動かされ ほめたたえる)をされた。

 ↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)

〈 衆生に与えられている功徳 〉
「大会衆門(だいえしゅもん)」
 阿弥陀様を讃嘆(さんだん)することによって、お浄土で阿弥陀様の説法を聞く会座(えざ)(集まり)に つらなる大衆(たいしゅう)(大会衆(だいえしゅ))の数(仲間)に入る。


 ↓ 二「大会衆門(だいえしゅもん)」が、一「近門(きんもん)」を含(ふく)んで


「正信偈」
必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。(三月に見ました)
〈 意訳 〉
阿弥陀様を讃嘆(さんだん)(心が深く動かされ ほめたたえる)することで、お浄土で阿弥陀様の説法を聞く会座(えざ)(集まり)につらなる大衆(たいしゅう)(大会衆(だいえしゅ))の数(仲間)に入り、「今、この身のまま」で、お浄土への往生 が 確定する。
そして、「いろいろな違い」「利害」を超えた、「本当の友(とも)」が与えられ、孤独から離れることができる。

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〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
三、「作願門(さがんもん)」
 意業(いごう)(心に思うこと)で常に願われた。

 ↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)

〈 衆生に与えられている功徳 〉
「宅門(たくもん)」
 一心に 念仏して「お浄土(蓮華蔵(れんげぞう)世界)に生まれたい」と願うことで、お浄土に生(うま)れて「思いを止め 心を静める行(ぎょう)」に入る。


〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
四、「観察門(かんざつもん)」
 智慧の眼(まなこ)によって観察なさった。

 ↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)

〈 衆生に与えられている功徳 〉
「屋門(おくもん)」
 「正しい思い で 浄土を観察し、ありのままに その姿を想い描く行(ぎょう)」を修めることによって、浄土に往生して さまざまな法(ほう)の味わい を楽しむ。


 ↓ 三「宅門(たくもん)」が、四「屋門(おくもん)」を含んで


「正信偈」
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に至(いた)ることを得(う)れば、すなわち真如法性(しんにょほっしょう)の身(しん)を証(しょう)せしむ と。(四月に見ました)
〈 意訳 〉                      
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)(「蓮華‐仏(ぶつ)の智慧、仏(ぶつ)の悟り」「蔵(ぞう)‐隠(かく)して表(おもて)に現(あらわ)さない」)とも呼ばれる お浄土 は、「形のない願い が 形になっている」ということを知らせ、私達が「形を離れた この上ない悟りの世界」を少しでも感じることができたならば、人間の煩悩の一番の根本になっている「我見(がけん)‐ありもしない自分 を作り出し 安心をしようとする心」から解放され、仏教最高の悟りの世界「真如(しんにょ)」「法性(ほっしょう)」を体得し、初めて、悩むことも、苦しむこともない、本当に 広く 豊かで、安らかで、静かな世界に至(いた)ることができる。

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 ↑ 一から四まで が「往相(おうそう)回向‐お浄土に往生して、阿弥陀様の仲間になる」


お浄土に往生し、阿弥陀様に助けられた者が、今度は、その恩徳(おんどく)に報(むく)いるために、助けてくださった阿弥陀様 の お仕事・事業 に参加していく(還相(げんそう)回向)。


 ↓


〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
五、「回向門(えこうもん)」
 回向を本(ほん)として 功徳を与えよう と 願われた。

 ↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)

〈 衆生に与えられている功徳 〉
「園林遊戯地門(おんりんゆうげじもん)」
 浄土に生(うま)れた者は、そのまま速(すみ)やかに 自利(じり)の智慧 と利他(りた)の慈悲 とを成就し、「煩悩に満ちた 迷いの世界」に還(かえ)ってきて、さまざまな姿を現(あらわ)し、神通力(じんずうりき)を具(そな)え、思いのままに衆生を仏道に導く。


 ↓


今日 の お言葉
〈 原文 〉
遊(ゆ)煩悩林(りん)現(げん)神通(じんづう) 入(にゅう)生死(しょうじ)園(おん)示(じ)応化(おうげ)

〈 書き下し文 〉
煩悩の林(はやし)に遊びて神通(じんづう)を現(げん)じ、生死(しょうじ)の園(その)に入(い)りて応化(おうげ)を示す、といえり。


〈 言葉の意味 〉

「煩悩の林(はやし)」‐私達がいる娑婆(しゃば)世界。

「煩悩」‐私達の身体(からだ)を煩(わずら)わせ、心を悩ませるもの。

「林(はやし)」
 インドの林(はやし)‐ジャングルのこと。恐ろしい獣(けもの)・得体(えたい)の知れない猛獣(もうじゅう)がたくさん潜(ひそ)んでいて、うっかり入っていけば 命を失う 非常に恐ろしい所。
 「煩悩」を「林(はやし)」に例え、その中に入り込んでしまうと、命を失うほどの危険性があることを表している。

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「遊び」
 「遊(ゆう)」には「体を張る(命懸(いのちが)けで事に当たる)」という意味もある。
 (「遊学(ゆうがく)」‐勉強や見聞(けんぶん)を広めるために、師匠を求め、故郷を離れて、よその土地 や 国 に 行くこと。)

「神通(じんづう)」
 仏(ぶつ)や菩薩が人々を救うために用(もち)いられる すぐれた力(ちから)。阿弥陀様の功徳。阿弥陀様の働きかけ。

 ↓

「煩悩の林(はやし)に遊びて神通(じんづう)を現(げん)じ」
 「命を失うほど危険な煩悩の林(はやし)」の中に、自分の命を懸(か)けて、身を投げ出して、「阿弥陀様の功徳」を表す。
そういう功徳 が お念仏をいただいた者 に 与えられてくる。


「生死(しょうじ)の園(その)」
 「命の危険もある 非常に恐ろしい 迷いの世界」を表している。

「生死(しょうじ)」‐道理から外(はず)れて限りなく迷い続けている状態。

「園(その)」
 インドの園(その)。雑草(ざっそう)や雑木(ぞうき)などが生(お)い茂(しげ)った野原(のはら)。毒蛇(どくへび)が生息(せいそく)し、インドにいる蛇は、ほとんどが毒を持っていて、非常に恐ろしい。
 (毒蛇の代表は、コブラ。かまれたら、もはや命取り。)

「応化(おうげ)」
 仏(ぶつ)や菩薩が 人々を救うために、それぞれの状況にふさわしい 働きかけ を されること。
 (お釈迦様が私達のために この世へ お出ましになったことを「応化(おうげ)」といい、「お釈迦様のこと」を「応化身(おうげしん)」とも いう。)

 ↓

「生死(しょうじ)の園(その)に入(い)りて応化(おうげ)を示す」
 「命の危険もある 非常に恐ろしい 迷いの世界」に、身を投げ入れて、仏(ぶつ)の功徳 を 人々に知らせるために、喜んで苦労をする。

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 ↓

〈 書き下し文 〉
煩悩の林(はやし)に遊びて神通(じんづう)を現(げん)じ、生死(しょうじ)の園(その)に入(い)りて応化(おうげ)を示す、といえり。
〈 意訳 〉
「お浄土に往生し、阿弥陀様に助けられた者 が、今度は、その ご恩徳(おんどく) に 報(むく)いるために、「命を失うほど危険な 煩悩の林(はやし)」「命の危険もある 非常に恐ろしい 迷いの世界」に、自分の命を懸(か)けて、身を投げ入れて、そこで 人々を救う「阿弥陀様の功徳」を 人々に知らせるために、喜んで苦労していく。」
このように天親菩薩は いわれました。

 ↓

ここに「浄土に往生した者の在(あ)り方(かた)」が示されている。
お浄土に往生した者は、ずっと そのまま お浄土に 留(とど)まっているわけではない。
煩悩が はびこり、迷いに満ちた娑婆(しゃば)世界に、あえて 入り込んで、そこで 苦悩する人々 に応(おう)じた 働きかけ をすることになる。

 ↓

『教行信証』行巻(ぎょうのまき) 親鸞聖人 著
「菩薩は四種(よんしゅ)の門に入って、自利(じり)(自(みずか)らを救済(きゅうさい)すること。往相(おうそう)回向。法(ほう)の深信(じんしん)。)の行(ぎょう)を成就されている、と よく知るべきである」。
「成就」とは、自利(じり)が満(み)ち足(た)りている、ということである。
「よく 知るべきである」とは、その自利(じり)に由(よ)るからよく成就される、自利(じり)することができずに利他(りた)(他を救済(きゅうさい)すること。還相(げんそう)回向。
機(き)の深信(じんしん)。)するのではない、と よく知るべきである、ということである。

 ↓

「自利(じり)(自(みずか)らが助かる)ことによって、よく 利他(りた)(他を助ける)ことができる。
自分が助かっていない のに、人を助ける というようなことは、絶対にできることではない。そのことを、はっきりと知るべきである。」
そのようなことが いわれている。
自利(じり)(自(みずか)らが助かる)ことがない と、利他(りた)(他を助ける)は 始まらない。

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 ↓

「五功徳門(ごくどくもん)」の中の「一、礼拝門(らいはいもん)」「二、讃嘆門(さんだんもん)」「三、宅門(たくもん)」「四、屋門(おくもん)」
この「四つの門」は、自利(じり)(自(みずか)らが助かる)が説かれている。
この四つの自利(じり)(自(みずか)らが助かる)が成就するところに、利他(りた)(他を助ける)の道 が 開けてくる。

 ↓

『教行信証』行巻(ぎょうのまき) 親鸞聖人 著
「菩薩は第五門から出て、回向の働き で 他(た)を救済(きゅうさい)する行(ぎょう) を成就されている、とよく知るべきである」。
「成就」とは、回向を因(いん)として教化地(きょうけじ)(自由自在に衆生を教化(きょうか)する菩薩の地位(ちい))の果(か)を実現する、ということである。因(いん)であれ 果(か)であれ、一つとして 利他(りた)(他を助ける)の働き でないものはない。
「よく知るべきである」とは、利他(りた)に由(よ)るから自利(じり)を なす、利他(りた)することができずに自利(じり)するのではない、と よく知るべきである、ということである。

 ↓

今度は、逆に「利他(りた)(他を助ける)ことによって、自利(じり)(自(みずか)らが助かる)を なす」
そのようなことがいわれている。
これが 大乗(だいじょう)仏教 の 非常に深い心。
人を助ける ことができなければ、自分が助かる ということも 決してない。
「世界が ぜんたい 幸福にならないうちは 個人の幸福 は あり得ない」(宮沢賢治 談)

 ↓

私達の「思い」は、個人的なもの なのですが、私達の「体(からだ)」「私という存在」は、遠い過去から続いている 生命の歴史 を背負い、また、これから限りなく続いていく 未来 を担(にな)っている、大変 重たく かけがえのない存在。

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「利他(りた)‐私のことを助けてくださった阿弥陀様 の お仕事・事業 に 参加していく」とは、
「かけがえのない この世界 全体が、本当に助かっていかないと、同じ かけがえのない命をいただいている この私 も本当の意味で 助かった とは言えない」という 壮大な お仕事。

 ↓ しかし、自利(じり) も 利他(りた) も 「他力‐阿弥陀様の働きかけ」であって、自力(じりき)では できない

お念仏をいただくことができれば、「私の心」は 救われるが、「見た目」は「いったい どこが お念仏をいただいている姿になるのだろうか?」というくらい なんの変哲(へんてつ)もない。
信心をいただいても、特に 見た目 は 変わらないのだけれども、しかし、
「どこか が 違う・・」
「言葉」や「行動」に 普通の人には無い 何かが 働いている・・」
ということを感じる所がある。
そこに「神通(じんづう)(阿弥陀様の働きかけ)を現(げん)じ」「応化(おうげ)を示す(仏(ぶつ)の功徳 を 人々に知らせる)」ということがあり、思いがけず、周りの人を「教え」に近づけて、救われる ご縁 を作って行く。
「利他(りた)(他を救済(きゅうさい)する)をしよう! あの人を何とか救(すく)ってあげよう!」
というわけではないのだけれども、自然に、誰かを導いて行く。
自利(じり)(自分が助かった)によって、今度は、利他(りた)(他を助ける)のような働き が、そこに生まれてくる。

 ↓ 具体的には、

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法然上人が流罪(るざい)に なられ、四国の塩飽諸島(しわくしょとう)に立ち寄られた時に、突然、
『法華経(ほけきょう)』の「常不軽(じょうふぎょう)菩薩のこと」を取りあげて、人々に説教をしておられる。
「常不軽(じょうふぎょう)菩薩」とは、『法華経(ほけきょう)』の中では、有名な菩薩ではなかったが、いつ、どこで、誰に会っても、「一切衆生悉(しつ)有(う)仏性(ぶっしょう)」ということを信じて、
「あなたは、やがて仏様になられる尊(とうと)い方(かた)なのです」と言って、常(つね)に礼拝(らいはい)し、合掌して、決して軽蔑(けいべつ)をしなかった。
晩年の法然上人は、「念仏者というのは「常不軽(じょうふぎょう)菩薩」のような生活のできる者」と受け止めておられた。

 ↓

『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』親鸞聖人 著
仏性は、すなわち阿弥陀如来である。
この 阿弥陀如来の光明 は、数限りない世界の隅々(すみずみ)にまで満ちわたっておられ、すべての命あるもの の「心」にまで なっておられるのです。
「草や木、山や河や大地が ことごとく成仏する」と『涅槃経(ねはんぎょう)』に説かれてあるのは、生きとし生けるもの、すべての心に「阿弥陀如来の四十八の願い」を信じることができるからなのです。

 ↓

「念仏者」は、お念仏 との 出会い の中で、「一切衆生悉(しつ)有(う)仏性(ぶっしょう)」ということが自覚され、本当に 人を尊敬することができるようになる。
それが、自利(じり)(自(みずか)らを救済(きゅうさい)すること。往相(おうそう)回向。法(ほう)の深信(じんしん)。)の極(きわ)まる所であり、
「人間関係に行き詰まり、いろいろな問題を抱えて、もう どう生きていけばいいのかわからない・・」
と 絶望する人 を、明るい世界へ と 導くことに つながっていく。
そこに、利他(りた)(他を救済(きゅうさい)すること。還相(げんそう)回向。機(き)の深信(じんしん)。)ということがあり、そこに、「地獄化している娑婆(しゃば)世界に帰って、仏法の教え を 具体化していこう!」という 念仏者の 決意 と 生活 がある。

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 ↓ 月忌(がっき)参(まい)り とは、

『浄土論』天親(てんじん)菩薩 著
浄土の聖者(せいじゃ)達は、さまざまな姿となって現れて、一念(ひとおもい) 一時(ひととき)に、あまねく十方の世界に往(い)って、諸仏(しょぶつ)を供養(くよう)し、また あらゆる衆生を利益(りやく)する。

 ↓ この姿 を かたどって、

浄土の聖者(せいじゃ)達は、さまざまな姿となって現れて → 月忌参りに来る僧侶
一念(ひとおもい) 一時(ひととき)に、あまねく十方の世界に往(い)って、諸仏(しょぶつ)を供養し → 門信徒の家
また あらゆる衆生を利益(りやく)する → 「教え」が伝わっていく

 ↓

「月忌参り」とは、「阿弥陀様に救われた僧侶」が、差別の思い を持たずに、「一切衆生悉(しつ)有(う)仏性(ぶっしょう)」と自覚して、「門信徒の方々」すべてを「諸仏(しょぶつ)」として礼拝(らいはい)(敬(うやま)い、手を合わせる)し、讃嘆(さんだん)(心が深く動かされ ほめたたえる)し、供養していく、という「浄土の聖者(せいじゃ)達」の お姿 を かたどっている。
また、その 僧侶の姿 が、「神通(じんづう)(阿弥陀様の働きかけ)を現(げん)じ」「応化(おうげ)を示す(仏(ぶつ)の功徳 を 人々に知らせる)」こととなり、門信徒の方々を「教え」に近づけて、救われる ご縁 を作って行く。
そのような内容 があるからこそ、門信徒の方々の 愚痴のような お話 も聞きながら、喜び も 悲しみ も 共にしていくことができる。
月忌参りは「お経の配達」をしているわけではない。
「浄土の聖者(せいじゃ)」の お姿 を かたどって、阿弥陀様 の お仕事・事業 に 参加していく、ということ。

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