34 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦

↑ 練習した音源(約27分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
近くのご寺院では、下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2019/04/08/oboro/』


《 曇鸞大師(どんらんだいし)(七高僧 第三祖(そ)) 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

今日 の お言葉

〈 原文 〉
三蔵(さんぞう)流支(るし)授(じゅ)浄教(じょうきょう) 焚焼(ぼんしょう)仙経(せんぎょう)帰(き)楽邦(らくほう)

〈 書き下し文 〉
三蔵(さんぞう)流支(るし)、浄教(じょうきょう)を授(さず)けしかば、仙経(せんぎょう)を焚焼(ぼんしょう)して楽邦(らくほう)に帰(き)したまいき。

〈 曇鸞大師(どんらんだいし) 物語(ものがたり) 〉
曇鸞大師(どんらんだいし) 当時の中国は、約一七〇年にわたって南北(なんぼく)に分断(ぶんだん)され、北から侵入してきた異民族(いみんぞく)が北方(ほっぽう)を支配し、南に逃(のが)れた漢民族(かんみんぞく)が南方(なんぽう)に王朝(おうちょう)を建(た)てていた。(曇鸞大師は 北方(ほっぽう)の北魏(ほくぎ)という国 に おられた。)
曇鸞大師(どんらんだいし)が仏教を学び始める百年近く前に、中国では、龍樹(りゅうじゅ)菩薩が書き残された『中論(ちゅうろん)』『十二門論(じゅうにもんろん)』『大智度論(だいちどろん)』と、龍樹菩薩の直弟子の聖提婆(しょうだいば)が書かれた『百論(ひゃくろん)』が、中国語に翻訳(ほんやく)され、盛(さか)んに研究されていた。
この四つの『論』は、いずれも「大乗(だいじょう)」の精神を高らかに掲(かか)げ、その精神の根幹(こんかん)となる「空(くう)」の思想が説かれている。
(「大乗」‐偉大(いだい)な教え。周りの人々が救われることが、自(みずか)らの救いとなる教え。
 「空(くう)」‐あらゆる物事への こだわり から離れること。)
この四つの『論』を 依(よ)りどころ として 仏教を学ぶ人々の集まり が「四論宗(しろんしゅう)」と いわれ、曇鸞大師も、そこに属(ぞく)して、大変すぐれた学僧として尊敬され、その名声は、中国の北方は もとより、南方にも広く響きわたっていた。
(ここでの「宗(しゅう)」とは、「宗派」という意味ではなくて、「学派(がくは)」という意味の言葉。)

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 曇鸞大師(どんらんだいし)は、さらに、
「中国の人々に、仏教 という 大切な教え を 正しく伝えなければならない!」
という使命を強く感じ、志(こころざし)を立てられ、『大集経(だいじっきょう)』という 難解(なんかい)で 六十巻もある お経の註釈(ちゅうしゃく)の作成に取りかかられた。
 ところが、あまりにも厳(きび)しく 精(せい)を出して研究に打ち込まれた ためか、病(やまい)にかかられ、註釈(ちゅうしゃく)の仕事 を中断せざるを得なくなってしまった。
この時、曇鸞大師(どんらんだいし)は すでに五十歳を越えておられた。
そこで、
「広大な仏法を極(きわ)め、また『大集経(だいじっきょう)』の註釈(ちゅうしゃく)を完成させるには、健康な心身(しんしん)と長寿(ちょうじゅ)を得なければならない・・中途で死んでしまえば、結局なんにもならない・・」
と、迷われ、
「まずは、長生き できる工夫 を しなければならない!
 中国に古くからある神仙(しんせん)の術(じゅつ)、いわゆる 長生(ながい)きの術(じゅつ) を 身(み)に着(つ)けて、それから また『大集経(だいじっきょう)』の註釈(ちゅうしゃく)に取り組もう!」
と、心に決められたのでした。
 当時、南方(なんぽう)に、陶弘景(とうこうけい)という道教(どうきょう)という宗教の指導者がおられた。この方(かた)は、医学(いがく)や薬学(やくがく)の大家(たいか) でもあり、長寿(ちょうじゅ)の秘訣(ひけつ)を教える仙人(せんにん) として有名だった。
中国の北方(ほっぽう)に おられた曇鸞大師(どんらんだいし) は、はるばる南の陶弘景(とうこうけい)の所に趣(おもむ)いて、長生(ちょうせい)不老(ふろう)の術(じゅつ)を一生懸命 学ばれたのでした。
曇鸞大師(どんらんだいし)は、頭が良く、感覚も鋭く、陶弘景(とうこうけい)も力を入れて教えられ、やがて、十巻からなる仙経(せんぎょう)、すなわち長生(ちょうせい)不老(ふろう)の術(じゅつ)が説いてある道教(どうきょう)の経典(きょうてん)を陶弘景(とうこうけい)から授(さず)けられ、曇鸞大師(どんらんだいし)は 喜び勇(いさ)んで北へ帰られたのでした。
 その途中(とちゅう)、都(みやこ)の洛陽(らくよう)に立ち寄られると、ちょうど インドから三蔵法師(さんぞうほうし)の菩提流支(ぼだいるし)という僧(そう)が来(き)ていて、お経の翻訳(ほんやく)をしながら、中国の僧侶を教導(きょうどう)していたのです。

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〈 正信偈の言葉の意味 〉
「三蔵(さんぞう)」‐三蔵法師(さんぞうほうし)のこと。固有名詞(こゆうめいし)ではなく、インド の お経 を 中国の言葉に
直す 経典(きょうてん)翻訳者(ほんやくしゃ) のこと。

「流支(るし)」‐菩提流支(ぼだいるし)という名 の インドの高僧。この方は、七高僧 第二祖(そ) 天親菩薩と 深い関係があり、天親菩薩が記(しる)された『十地経論(じゅうじきょうろん)』『浄土論』を大変 苦労されて翻訳(ほんやく)している。(インド人の菩提流支(ぼだいるし)にとって、中国語が外国語。自国の言葉 を 外国語に訳す のは、大変な作業。)

〈 曇鸞大師(どんらんだいし) 物語(ものがたり) 〉
曇鸞大師は、有名な三蔵法師(さんぞうほうし)の菩提流支(ぼだいるし)が近くにおられることを知り、会いに行かれた。しかし、その時、陶弘景(とうこうけい)から秘伝(ひでん)の道教(どうきょう)の経典(きょうてん)を授(さず)けられたばかりで、鼻息(はないき)が荒(あら)く、菩提流支(ぼだいるし)に、誇(ほこ)らしげに、
「自分は長生(ちょうせい)不老(ふろう)の術(じゅつ)を学んできたばかりである。
 インドには このような術(じゅつ)はあるのか?」
と、尋ねてしまわれた。(えらいことを言ったものです。)
途端(とたん)に、菩提流支(ぼだいるし)は、唾(つば)を吐(は)き捨てて、目から火が出るほど、叱(しか)りつけたのです。
「何という愚(おろ)かなことだ・・仏法以外に長生不死(ちょうせいふし)があるものか!
 君は『大集経(だいじっきょう)』の勉強をしていると聞いていたが、なんという根性だ。
 仏法とは、智慧の道だ。悟りの道だ。いつ死んでもいい と言えるのが、仏法だ。
 長生きしなければいけない と、君は言うが、本当に 永遠の命 と呼べるものは、仏道にしかないんだ。仏法の勉強をしながら、それがわからなかったのか!
 せいぜい長生きすればいい。そんな根性の君に、仏法は もったいない!」
と、本当に、ものすごく叱(しか)られたのです。

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(私達でしたら、叱(しか)られると、つい腹を立てたり、ひがんだり、すねたりしてしまうのですが、さすがは、曇鸞大師です。非常に純粋な心を持ち、名声が中国全土に広く知られるほど 仏教の勉強 をしていた方でした。)
曇鸞大師は、まっ正直に、菩提流支(ぼだいるし)の言葉を受け取られて、
「ああ、そうであった・・私は、間違っていた・・
 長生(ちょうせい)不老(ふろう)などというものは、愚(おろ)かな欲(よく)望(ぼう)に過(す)ぎなかったのだ・・」
と、気が付かれたのです。
そして、菩提流支(ぼだいるし)は、ただ叱(しか)るだけ ではなくて、曇鸞大師に「これを読むように」と浄教(じょうきょう)を授(さず)けられたのでした。

〈 正信偈の言葉の意味 〉
「浄教(じょうきょう)」‐いろいろな説(せつ)があり、存覚(ぞんかく)上人の『六要鈔(ろくようしょう)』には「『観無量寿経』であった」と書いてあるが、菩提流支(ぼだいるし)ご自身が翻訳(ほんやく)された 因縁(いんねん)の深(ふか)い お聖教(しょうぎょう)『浄土論』を授(さず)けられたのでないか、と推測(すいそく)される。

〈 曇鸞大師(どんらんだいし) 物語(ものがたり) 〉
そして、曇鸞大師は、
「こんな仙経(せんぎょう)があるから、人は愚(おろ)かな迷(まよ)いを繰り返すのだ・・これを残しておくことはできない・・」
と、大切にしておられた仙経(せんぎょう)を惜(お)しげもなく焼き捨て、また、自分の迷い も 共に 焼き捨てられて、「楽邦(らくほう)」(阿弥陀様の安楽浄土に往生する教え)に帰(き)依(え)(拠(よ)り所(どころ)にする)されたのでした。

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〈 正信偈の言葉の意味 〉
『仙経(せんぎょう)』‐陶弘景(とうこうけい)から授(さず)かった長生(ちょうせい)不老(ふろう)の術(じゅつ)を説(と)いた道教(どうきょう)の経典(きょうてん) 十巻。曇鸞大師が、仙経(せんぎょう)を焚焼(ぼんしょう)(燃やす)したことには、「仙経(せんぎょう)は、見れば、必ず、人を惑(まど)わす・・仙経(せんぎょう)を、人は、見てはいけない・・」という 曇鸞大師の思い が表現されている。

『焚焼(ぼんしょう)』‐燃やすこと。このことは、単に、曇鸞大師が、自分の迷い と共に、仙経(せんぎょう)を焼き捨てられた、という回心(えしん)(心を改め、正しい仏道(ぶつどう)に入ること)の体験が いわれているのではなく、私達が、「真実に生きていきたい」と、決断して、新しい生活を初めて行く時には、焚焼(ぼんしょう)という、「今までの生活を焼き滅ぼしてから、新しい生活を始めていく」というようなことが、必ず、私達の上にも起ってくる、そのことがなければ、本当の意味で「新しい生活」には なっていかない、ということが 焚焼(ぼんしょう)という お言葉 には込(こ)められている。

 ↓
 七高僧の中で、迷信(めいしん)(人を迷いに導く信仰)に迷われたのは、曇鸞大師ただ一人。
しかし、そのことを、親鸞聖人は、非常に大切に思われ、正信偈に記されている。
この「三蔵(さんぞう)流支(るし)、浄教(じょうきょう)を授(さず)けしかば、仙経(せんぎょう)を焚焼(ぼんしょう)して楽邦(らくほう)に帰(き)したまいき。」というお言葉の中には、
「ありがたいことだ・・私達のために、ようこそ 迷ってくださった・・
 そして、迷(まよ)いを晴(は)らして、ようこそ 本当の道に入ってくださった・・」
そのような 親鸞聖人の 曇鸞大師に感謝する心 が こもっている。
 人間とは、迷(まよ)う者(もの)。なんでもない時には、「そんなものは迷信だ」と言っているが、なにかに引っかかる と、すぐに、迷い出してしまう 弱い者。
けれども、それを ひるがえして、本当の道に入っていけるのが、また、人間の良い所。
「曇鸞大師は、迷信に迷われ、その迷いを晴らして、念仏の教え に 帰依(きえ)された・・」
親鸞聖人は、私達の見本 となってくださった曇鸞大師 に、大変 感謝しておられる。

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 ↓
また、仏法・信心は、外道(げどう)(仏教以外の教え)の批判を通して、公(おおやけ)になる。
「何一つ批判をしない」というようなことなら、生活とは関係のない単なる観念(かんねん)(精神を集中させ、仏(ぶつ)や浄土の姿(すがた)を思念(しねん)すること)で しかない。
しかし、その「外道(げどう)批判」は、必ず、内(うち)と外(そと)との二重の批判があるから、公(おおやけ)の批判となる。
「内(うち)なる批判」が「自信(じしん)」ということが深まっていく道(みち)のり となり、「外(そと)なる批判」が「教人信(きょうにんしん)」ということが深まって行く道(みち)のり になる。
だから、「二重の批判」ということが、実は、
「真実そのもの が 公(おおやけ)になってくる運動」「真実が、自己実現している運動」ということにもなる。
真実に生きられた親鸞聖人の生涯 は、「二重の批判」「自信(じしん)教人信(きょうにんしん)(自ら信じ 人にも教えて信じさせる)」ということに終始(しゅうし)されている。

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『悲嘆述懐(ひたんじゅっかい)和讃』親鸞聖人 著
五濁(ごじょく)増(ぞう)の しるしには この世の道俗(どうぞく)ことごとく
外儀(げぎ)は 仏教のすがた にて 内心(ないしん) 外道(げどう)を帰敬(ききょう)せり

 〈 言葉の意味 〉
 「五濁(ごじょく)」‐時代が下(くだ)るごとに はっきりと現われてくる「世(よ)の乱(みだ)れ」
 「人間の悲しむべき あり方」。
 「道俗(どうぞく)」‐出家した人 と 在家の人 のこと。
 「外儀(げぎ)」‐外面(がいめん)に現れた威儀(いぎ)や立(た)ち居(い)振(ふ)る舞(ま)い。

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 「外道(げどう)」‐ここでは、自分自身を問わないままに、批判したり 攻撃したりして、周囲をどうにかしようとする あり方。
   たとえ 仏教を学んでも、仏教に 自分自身 や 人間のあり方 を問わなければ、それは「仏教の学び とは 似(に)て非(ひ)なるもの」に なってしまう。
   また、直接 仏教を学んでいなくても、その学び が 人間や自分自身のあり方への 根源的な問い に つながるもの ならば、それはそのまま 仏教の「内観(ないかん)の道(みち)(自分をよく見つめ直してゆく道)」として展開することにもなる。

 〈 意訳 〉
 「五濁(ごじょく)」と呼ばれる この世の悲しむべき あり方 が、いよいよ深刻化している証(あか)しには、僧侶として生きる者も、そうでない者も、誰一人として例外なく、表面上は、仏教を敬(うやま)いながら、内心(ないしん)では、それと似(に)ても似(に)つかないもの を敬(うやま)っている。

 ↓

 親鸞聖人は、最晩年(さいばんねん)の八十五歳の頃、

『悲嘆述懐(ひたんじゅっかい)和讃』‐真実の教(おし)え に帰(き)しても、親鸞聖人は、ご自身のことを、「私の心は、虚偽(きょぎ)(真実のように見せかける)であり、不信(信仰心がない)であり、邪悪(じゃあく)(心がねじ曲がっていて悪い)である」と思っておられた。
  また、出家した人 も 在家の人 も、間違えた行儀(ぎょうぎ) を改(あらた)めようとしない。
  そのこと を 悲しみ嘆(なげ)き、末法(まっぽう)(教え が あるだけで 修行する者・悟りを開く者のいない時代)の根機(こんき)(教え を 受ける者の素質(そしつ)・能力)を恥(は)じ、阿弥陀様の回向(ふりむけて与えること)を讃(たた)えている。

そのような ご和讃 を書かれている。

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 また、

「善鸞(ぜんらん)事件」‐親鸞聖人が関東で約二十年過(す)ごされ、六十歳頃(ごろ)に京都に戻られた。
   その後、関東の門弟(もんてい)の間(あいだ)では
  「いかなる悪(あく)をなしても 阿弥陀様の本願 から もれることはない。
   むしろ、悪(あく)を積極的・意図的にすることこそが、阿弥陀様の救い にあずかることになる」
  という「造(ぞう)悪(あく)無碍(むげ)」を主張する集団が現(あらわ)れ、領主(りょうしゅ)との対立 を 生(う)むほどに
大きな問題となっていった。
  そのことを治(おさ)めるために、親鸞聖人は、長男 善鸞(ぜんらん) を 京都から派遣された。
   しかし、関東の門弟(もんてい)は いくつかの集団に分かれて、それぞれの集団にはしっかりとした 主(しゅ)となる者 も おり、若い善鸞(ぜんらん)の言葉 に 耳を貸さなかった。
   そこで善鸞(ぜんらん)は 皆の気を引きつける為(ため)か、
  「皆さんが聞かされている教え は、間違っている。自分は直接 父 親鸞から深夜 ひそかに 本当の教え を 聞かされた。
念仏申すだけでなく、もう一つ 大事なこと が あるのです・・」
  と 言い出した。
  このことによって関東に残された門弟(もんてい)達(たち)は、ますます動揺(どうよう)をきたした。
   親鸞聖人は、この悲しい出来事 を 知らされ、断腸(だんちょう)の思(おも)い で、善鸞(ぜんらん)を義絶(ぎぜつ)(親子の縁を切る)された。(親鸞聖人 八十五歳の時)

この事件を通して、親鸞聖人は、より深い問題を抱(かか)え、大衆(たいしゅう)を担(にな)われて、内(うち)なる外道(げどう)批判・外(そと)なる外道(げどう)批判の「二重の批判」を深め、いよいよ「本願の真実」を公(おおやけ)にされている。
そして、そのことによって、親鸞聖人の「自信(じしん)教人信(きょうにんしん)(自ら信じ 人にも教えて信じさせる)」の歩みが、歴史的事実として、具体化されていった。

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