42 三不三信誨 像末法滅同悲引 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

↑ 練習した音源(約30分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


《 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(七高僧 第四祖(そ)) 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

〈 正信偈原文 〉  
三不三信(さんぷさんしん)誨(け)慇懃(おんごん)  

〈 書き下し文 〉
三不三信(さんぷさんしん)の誨(おしえ)、慇懃(おんごん)にして、

〈 言葉の意味 〉
「三不三信(さんぷさんしん)の誨(おしえ)」
 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、『安楽集(あんらくしゅう)』の中で、「曇鸞大師(どんらんだいし)が述べられた「三不信(さんふしん)」は「自力の信心」のことで、それに対して、他力の信心は、純粋で混(ま)じるものがなく(淳心(じゅんしん))、二心(ふたごころ)がなくて散乱(さんらん)することもなく(一心(いっしん))、一貫(いっかん)して持続する(相続心(そうぞくしん))「三信(さんしん)」である。」と、明らかにしてくださった。

「慇懃(おんごん)にして、」
 丁寧、親切に教えてくださった。
 『観無量寿経』は、「真実で 純粋で 高く 深い 仏(ぶつ)の心」が、「不純(ふじゅん)で 浅く 低い 私達の所」まで下がってきてくださった お経。
 このようなことを「慇懃(おんごん)」という。

 ↓

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、

・正像末史観(しょうぞうまつしかん)‐正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法(まっぽう)という時期を経(へ)て、正しく 教え が伝わらなくなり、やがて 仏教が衰(おとろ)え滅(ほろ)びるという歴史観。

・特留此経(どくるしきょう)‐末法(まっぽう)の時代が一万年続(つづ)いた後(あと)、念仏以外の教え は滅亡(めつぼう)するが、念仏の教え だけが留(とど)まる。

このことに深く関心を持たれていた。
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、この時代は、すでに末法(まっぽう)(かろうじて 教え は伝わっているが、伝わり方も不十分で、自分の信念や努力を頼りにして厳しい修行を重ねても、証(さとり)に近づけない時代)に入っていると思われていた。

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 ↓ 特留此経(どくるしきょう)について、

『大無量寿経』の最後の方 意訳
「私(お釈迦様)は、今、すべてのもの の ため に この教えを説き、さらに阿弥陀様と その浄土の様子を残らず見せた。この上で、まだ尋ねたいことがあるなら、ためらうことなく問うがよい。私が この世を去った後に、疑(うたが)いを起(おこ)すようなことがあってはならない。
やがて将来 私が示した さまざまな悟りへの道、聖道門(しょうどうもん)の教え は みな失われてしまうであろうが、私は慈(いつく)しみの心をもって、哀(あわ)れみ、特に この『大無量寿経』だけを その後(ご) いつまでも留(とど)めておこう。
そして この『大無量寿経』に出会うものは、みな 願(ねが)いに応(おう)じて 迷いの世界を離れることができるであろう。」

 ↓

法然上人(七高僧第七祖 親鸞聖人の師)は、
「『大無量寿経』の命は四十八願であり、四十八願の中でも第十八願の「念仏往生の願」が王(おう)本願(最も重要な本願)であり、根本である。
 だから、お釈迦様は、慇懃(ねんごろ)に念仏を私達の所へ降(お)ろしてくださり、
 「特に この『大無量寿経』に説かれた念仏を その後 いつまでも留めておこう。よいか、しっかりと、この念仏だけ は失(うしな)うな。
  私が この世を去った後も、どうか、この念仏によって助かってほしい」
 と勧(すす)めてくださっている。」
と読みきられ、
「いつの時代でも、念仏が衆生を必ず救う」そのことを明らかにされた。

 ↓

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お釈迦様が、クシナガラで ついに涅槃(ねはん)に入ろう とされた時に、いつも お側(そば)にいた阿難(あなん)が 非常に悲しんで、
「もう しばらく留(とど)まって いただきたい・・」と、お願いしました。
その時 お釈迦様は、
「私のすることは済んだ。私が どうしても助けなければならぬ者は全部 助けた。
 まだ助かっていない者があるが、その者に対しては、念仏を残した。
 それに遇(あ)えば必ず助かる という法(ほう) を、私は残した。」
と言われている。

 ↓ 慇懃(ねんごろ)に、阿弥陀様の名号が、付属(ふぞく)(ゆだね任(まか)せる)されている

『選択(せんじゃく)本願念仏集』法(ほう)然(ねん)上人 著(ちょ)
『阿弥陀経』(の終わりの方)に、お釈迦様が、阿弥陀様の名号を、慇懃(ねんごろ)に舎利弗(しゃりほつ)などに付属(ふぞく)(ゆだね任(まか)せる)される。
「お釈迦様が、この経(阿弥陀経)を説き終わられると、舎利弗を始め多くの弟子達や、あらゆる世界の天(てん)・人(にん)・阿修羅(あしゅら)などは、このお釈迦様の説法を聞いて、喜び、信じ、うやうやしく礼拝(らいはい)して立ち去ったのである。」
この お言葉 を、善導大師(ぜんどうだいし)は『法事讃(ほうじさん)』で、このように解釈(かいしゃく)して いわれる。
「お釈迦様の説法が、まさに終わろうとする時、慇懃(ねんごろ)に阿弥陀様の名号が舎利弗(しゃりほつ)に付属(ふぞく)された。五濁(ごじょく)のいよいよ盛(さか)んな時であるから、疑(うたが)い謗(そし)る人が多く、一般の僧侶も俗人(ぞくじん)も、この法を嫌(きら)って聞こうとしない。
 念仏を称(とな)える人を見ては、瞋(いか)りの心を起こし、いろいろな手立てを使って、念仏の教え を謗(そし)り、競(きそ)って妨(さまた)げる。
 このような真実が見えず、成仏することのできない者達は、深く沈(しず)み、限りなく長い時間が過ぎても、なお地獄・餓鬼・畜生の心から離れることができない。大衆(たいしゅう)は みな心を同じくして、仏法を破滅(はめつ)させる因(いん)と縁(えん)を、深く懺悔(さんげ)(罪の悔(く)いて許(ゆる)しを請(こ)う)せよ。」

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 ↓
現代の一番大きな問題は「中夭(ちゅうよう)(若死(わかじ)に)」ということにある。
志(こころざし)半(なか)ば で 死んでいかざるをえない・・
誰もが早いうちに挫折(ざせつ)せざるをえない・・
そのことに「今は末法(まっぽう)なんだ」と自覚させられる。
自分の立てた願い が、早い時期に風に吹(ふ)き折(お)られる葦(あし)のように、挫折(ざせつ)していく。
小学生で もう挫折(ざせつ)せざるをえない ということが起こってきている。
もちろん、私達 誰もが挫折(ざせつ)をした経験がある。
その挫折(ざせつ)した時に、実は もう 事実上 死んでいる ということがある。
生きながら屍(しかばね)になっている。現代は屍(しかばね)が満ちあふれている。
その生きながら屍(しかばね)になっている者が、ひとたび本願に遇(あ)うならば、息を吹き返すんだ といわれているのが この ご和讃です。

 ↓

『現世利益(げんぜりやく)和讃』親鸞聖人 著
南無阿弥陀仏を となうれば この世の利益(りやく)きわもなし
流転(るてん)輪廻(りんね)のつみきえて 定業(じょうごう)中夭(ちゅうよう)のぞこりぬ

〈 言葉の意味 〉
定業(じょうごう)中夭(ちゅうよう)‐定業(じょうごう)は、業(ごう)により定(さだ)まっている寿命。

中夭(ちゅうよう)は、若死(わかじ)に。志(こころざし)半(なか)ば で 死んでいかざるをえない ということ。

のぞこりぬ‐除(のぞ)かれてしまう。

〈 意訳 〉
名号を称(とな)えれば、現世(げんせ)の利益(りやく)が無限であって、迷界(めいかい)を流転(るてん)する因(いん)となる罪障(ざいしょう)が消滅(しょうめつ)し、定業(じょうごう)(業(ごう)により定(さだ)まっている寿命)が短命(たんめい)であっても 若死(わかじ)にすることがない。

 ↓

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南無阿弥陀仏に遇(あ)うならば、挫折(ざせつ)して 生きながら屍(しかばね)になっている者が、
蘇(よみがえ)ってくる、復活してくる。そのことが「のぞこりぬ」という表現で
言い切っておられる。
阿弥陀様の本願に目覚め、信心の行者(ぎょうじゃ)となれば、屍(しかばね)を蘇(よみがえ)らせていく
という 大きな力 を得る事になる。
だからこそ、私達が、自分自身を見捨てないで、あきらめないで、
自分に与えられている命を快(こころよ)く引き受けていける者になることができる。
「特留此経(どくるしきょう)(末法(まっぽう)の時代には 念仏の教え だけが留(とど)まっている。)」
「慇懃(ねんごろ)に、阿弥陀様の名号が、付属(ふぞく)(ゆだね任せる)されている」ということは、
このことを教えてくださる お言葉 でもある。


〈 正信偈 の 原文 〉
像末法滅(ぞうまつほうめつ)同(どう)悲引(ひいん)   

〈 書き下し文 〉
像末法滅(ぞうまつほうめつ)、同じく悲引(ひいん)す。

〈 言葉の意味 〉
「像末法滅(ぞうまつほうめつ)」‐「像法(ぞうぼう)」「末法(まっぽう)」「法滅(ほうめつ)」のこと。

 ↓

「像法(ぞうぼう)」
 正法(しょうぼう)五百年(正しく証(さとり)が得られる時代)後(ご)の千年間。
 「教(きょう)‐教え」「信(しん)‐信頼」「行(ぎょう)‐修行」は成り立っている。像(かたち)ばかりの教えが伝わり、その教え を信頼して、像(かたち)ばかりの修行 をするが、証(さとり)を得られない時代。
 (紀元前(きげんぜん) 四四九年 ~ 紀元後(きげんご) 五五二年)。

「末法(まっぽう)」
 像法(ぞうぼう)の後の一万年間。「教(きょう)‐教え」だけが残っている。かろうじて教え は伝わっているが、伝わり方も不十分で、自分の信念や努力を頼りにして厳(きび)しい修行を重ねても、証(さとり)に近づくことは不可能 とされる時代。
 (紀元後(きげんご) 五五二年 ~ 一〇五五二年 
 ※ 日本は、正法(しょうぼう)千年・像法(ぞうほう)千年とし、一〇五二年を末法(まっぽう)元年(がんねん)としている)。

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「法滅(ほうめつ)」
 仏教が完全に衰(おとろ)え滅(ほろ)びる。しかし、「法滅(ほうめつ)」の後、遠い未来に、次(つぎ)の仏(ぶつ) が 世に出られて、また「正法(しょうぼう)」の時代に入る と説かれている。
 (西暦 一〇五五二年 ~)


「悲引(ひいん)」
 「慈悲(じひ)引導(いんどう)」のこと。慈悲(じひ)(仏(ぶつ)・菩薩が衆生をあわれみ、苦(く)を除(のぞ)き、楽(らく)を与(あた)えようとする心)をもって導(みちび)く。

 ↓

『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』化身土巻(けしんどのまき) 意訳 親鸞聖人 著
いま、まことに知ることができた。聖道門(しょうどうもん)の さまざまな教え は、お釈迦様が在世(ざいせ)の時代と正法(しょうぼう)の時代のためのもの であって、像法(ぞうぼう)と末法(まっぽう)と法滅(ほうめつ)の時代と その人々のためのもの ではない。
すでに それは、時代にあわず、人々の資質に背(そむ)くもの である。
浄土の真実の教えは、お釈迦様在世(ざいせ)の時代にも、正法(しょうぼう)や像法(ぞうぼう)や末法(まっぽう)や法滅(ほうめつ)の時代にも変(かわ)りなく、煩悩に汚(よご)れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

 ↓

「正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法(まっぽう)という歴史観」の中で、ただ「末法(まっぽう)に念仏が興隆(こうりゅう)する」というのであれば、「念仏を唱(とな)える」ことが、聖道門(しょうどうもん)の修行の一つ となってしまう。
また、「もっとも重い罪を犯(おか)し、さまざまな悪い行(おこな)いをしている者のための 念仏」と いうことにも なってしまう。
そうではなく、「いつでも・どこでも・だれでも」 が、「本願念仏の仏法」によって成仏道を完結(かんけつ)することができる、そのような「永遠(えいえん)普遍(ふへん)の法(ほう)」が、「本願念仏の仏法」であり、浄土真宗である、という新しい歴史観を、親鸞聖人は明らかにし、公(おおやけ)にされた。
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の ご苦労 は、親鸞聖人が この世の中へ生まれてこられるのを待って、浄土真宗が明らかになることによって完結(かんけつ)された、ともいうことができる。

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〈 正偈の原文 〉  
一生(いっしょう)造(ぞう)悪(あく)値(ち)弘誓(ぐぜい) 至(し)安養界(あんにょうかい)証(しょう)妙果(みょうか)

〈 書き下し文 〉
一生 悪を造(つく)れども、弘誓(ぐぜい)に値(もうあ)いぬれば、安養界(あんにょうかい)に至(いた)りて妙果(みょうか)を証(しょう)せしむと、いえり。

〈 言葉の意味 〉
「一生 悪を造(つく)れども」
 「悪」とは、法律上の罪を犯したり、世の道徳に反する行為をいうが、それだけではなく、何よりも、「お釈迦様が明らかにされた真実、人が生きる普遍(ふへん)の道理」に背(そむ)くことを「悪」という。
 『観無量寿経』を学ばれた道綽禅師(どうしゃくぜんじ) の 深い懺悔(さんげ)の心(犯した罪悪を告白して許(ゆる)しを請(こ)う)から言われている お言葉。

 ↓

『観無量寿経』では、「人の往生」には「上品(じょうぼん)」「中品(ちゅうぼん)」「下品(げぼん)」があり、さらに それぞれに「上生(じょうしょう)・中生(ちゅうしょう)・下生(げしょう)」とがあり、合計 九段階の往生がある といわれている。

 ↓ 最後の「下品(げぼん)下生(げしょう)」とは どんな人間なのか?

『仏説 観無量寿経』意訳
もっとも重い五逆(ごぎゃく)や十悪(じゅうあく)の罪(つみ)を犯(おか)し、その他(た)さまざまな悪い行いをしている者がいる。このような愚(おろ)かな人は、その悪(わる)い行(おこな)いの報(むく)い として悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りない苦しみ を受けなければならない。
(悪いことをするのは、あまり賢(かしこ)くない「愚(おろ)かな人」と いわれている。
悪いことをすれば、結局は 因果応報(いんがおうほう)で ひどい目に遭(あ)う と わからない。
例えば、盗人根性(ぬすびとこんじょう)(ずるくて いやらしい性質)は、誰もが持っているが、計算してみれば損をするので、盗(ぬす)みを働かない。)

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 この愚かな人 が その命を終えよう とする時、善知識(ぜんちしき)に めぐりあい、その人のために いろいろと いたわり慰(なぐさ)め、尊(とうと)い教えを説いて、仏(ぶつ)を念(ねん)じることを教えるのを聞く。しかし その人は 臨終(りんじゅう)の苦しみ に責(せ)め さいなまれて、教えられた通りに仏(ぶつ)を念(ねん)じることができない。そこで善知識(ぜんちしき)は さらに、
「もし心に仏(ぶつ)を念(ねん)じることができないのなら、ただ口に 無量寿仏の み名(な) を称(とな)えなさい」
と勧(すす)める。こうして その人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回 口に称(とな)えると、仏(ぶつ)の名(な)を称(とな)えたことによって、一声(ひとこえ)一声(ひとこえ)称(とな)えるたびに八十億劫(こう)という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。そして いよいよ その命を終えるとき、金色(こんじき)の蓮の花が まるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見(み)、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

 ↓

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、
「この「愚(おろ)かな人」というのは 決して他人事(たにんごと)でない。この私の事なんだ・・」と、受け取られ、そして、
「私には、念仏よりほかに助かる道がない」ということが、非常に深い自覚となっておられた。
そして、『無量寿経』の第十八願が『観無量寿経』では「下品(げぼん)下生(げしょう)」として説かれてある と受け取られた。

 ↓

『仏説 無量寿経』第十八願 意訳
私が仏(ぶつ)になるとき、すべての人々が、心から私の言葉を信じ、
「私の国に生れたい」と、わずか十回でも念仏を称えたならば、必ず、私の国に生れさせよう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
ただし、五逆(ごぎゃく)の罪(つみ)を犯(おか)したり、仏(ぶつ)の教えを謗(そし)ったりする者だけは、除かれる。

 ↓

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『安楽集(あんらくしゅう)』道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 著 に示される 第十八願 意訳
すべての人々が、たとえ一生のあいだ、悪を造(つく)っても、臨終(りんじゅう)において、わが名(な)を十回称(とな)えれば、必ず 私の国に往生する。
もし往生しなければ、私は決して悟りを開きません。

 ↓

本願の目当(めあ)ては「一生のあいだ、悪を造(つく)って」いる 私達 であった。
「臨終において」というのは、わかりやすく言えば「追いつめられた」ということ。「最後の所まで来た」というところで、初めて本願に値(あ)うことができる。
これが道綽禅師の本願を受け取られた お言葉。
『観無量寿経』で説かれる「下品(げぼん)下生(げしょう)」の所にいる私を、「助けたい」という阿弥陀様の お心 が『無量寿経』に説かれてある、と受け取られた。
『無量寿経』の「心から私の言葉を信じ」る 純粋な信心 とは、『観無量寿経』に照らすと、
「一生のあいだ、悪を造(つく)って」いる私であった・・
という自覚である、と受け取られた。

 ↓

「小林一茶(いっさ)の俳句」
下々(げげ)も下々(げげ) 下々(げげ)の下国(げこく)の 涼(すず)しさよ

〈 意訳 〉
自分の置かれた環境等(とう)は下々(げげ)の下国(げこく)である。そこに身を置くことは、何と涼(すず)しくて、さっぱりして、気持ちのよいことだろう。

 ↓

「一生のあいだ、悪を造(つく)って」いる私だけれども、本願に値(あ)えば、そこに「至(し)安養界(あんにょうかい)証(しょう)妙果(みょうか)」と証(さとり)が開かれる。
これは一茶(いっさ)の句(く)で言うと、「涼(すず)しさよ」という言葉になる。

 ↓

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〈 言葉の意味 〉
「弘誓(ぐぜい)」
 阿弥陀様の誓願(せいがん)。阿弥陀様は、仏(ぶつ)になられる前、法蔵という名の菩薩であられ、
「浄土往生を 心から願う すべての人々 を 浄土に迎え入れたい」と願われ、
「この願いが成就しないのであれば、私は仏(ぶつ)には ならない」という誓(ちか)いを立てられた。そして、法蔵菩薩は、現(げん)に今 阿弥陀仏になられている。

「安養界(あんにょうかい)」‐心が安らかになり、身(み)が養(やしな)われる世界。阿弥陀様の極楽浄土のこと。

「安養界(あんにょうかい)に至(いた)りて」‐往生のこと。


「妙果(みょうか)」‐ことにすぐれた結果。仏(ぶつ)のさとり。成仏。

 ↓

実は「安養界(あんにょうかい)に至(いた)りて妙果(みょうか)を証(しょう)せしむと、いえり。」という お言葉 は、親鸞聖人が どこから引かれたのか わからない。
(ほかの道綽章(どうしゃくしょう) の お言葉は『安楽集(あんらくしゅう)』にある。)

 ↓『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』によると、

「妙果(みょうか)」‐私達が帰る世界 のこと。


「無生(むしょう)(なにかでない、なにでもない という悟り)」という覚(さと)り のこと。

 ↓

実は、そこから私達は形を取って現れて来ている。
だから阿弥陀様の本願というのは、最後には「無生(むしょう)に触れさせよう。
浄土を通して、往生を通して、「無生(むしょう)」の悟りを開かせよう」という 願い となる。

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 ↓

『高僧和讃』曇鸞讃(どんらんさん) 親鸞聖人 著
如来清浄(しょうじょう)本願の 無生(むしょう)の生(しょう)なりければ
本則(ほんそく)三三(さんざん)の品(ほん)なれど 一(いち)二(に)も かわることぞなき

〈 言葉の意味 〉
如来清浄(しょうじょう)本願の‐阿弥陀様の清浄(しょうじょう)の心から起(お)こされた本願。 
 
無生(むしょう)の生(しょう)なりければ
 「無生(むしょう)」は あらゆる存在の源(みなもと)、私達の本来の世界のこと。
 「生(しょう)」は 浄土に生まれること。真実の浄土 へ往生すれば、迷いの世界を離(はな)れた命 となる。浄土に生まれることを通して「無生(むしょう)」に触(ふ)れる。

本則(ほんそく)三三(さんざん)の品(ほん)なれど
 衆生の能力によって、浄土への往生の仕方(しかた)が九(ここの)つある、と『観(かん)無量寿経』に説(と)かれている。
 (しかし、浄土に生まれれば、みな同じく仏(ぶつ)に成(な)れる)

〈 意訳 〉
阿弥陀様の清浄(しょうじょう)の心から起(お)こされた本願によって成就されている浄土。
その浄土に往生すれば、迷いの世界を離れた命 となる。往生の仕方(しかた)は、九種類あるけれども、浄土に往生すれば、一も二も変わらず 同じく仏(ぶつ)に成(な)る。

 ↓

「無生(むしょう)」ということが わからないから、なにか形に こだわる。
「三三(さんざん)の品(ほん)」というのが、形に こだわる姿(すがた)。上(じょう)中(ちゅう)下(げ)に分(わ)けて、優位(ゆうい)を競(きそ)う。

 ↓

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それが「無生(むしょう)」に触(ふ)れたら「一(いち)二(に)も かわることぞなき」と みな平等になる。
人間は、形に こだわる。しかし、そのことによって苦しむ。人と比べたりして、優越感を持ってみたり、劣等感(れっとうかん)を持ってみたり、うらやましがったり、あるいは妬(ねた)んだりする。その起こる原因は、自分の思い で 自分 を作り上げているから。
それが浄土に触れることを通して(安養界(あんにょうかい)に至(いた)りて)、その「無生(むしょう)」という覚(さと)りに触れていく(妙果(みょうか)を証(しょう)せしむ)。


《 依釈段(いしゃくだん) 道綽(どうしゃく)章(しょう) 》
〈 原文 〉  
道綽(どうしゃく)決(けッ)聖道(しょうどう)難(なん)証(しょう) 唯(ゆい)明(みょう)浄土可(か)通入(つうにゅう) 
万善(まんぜん)自力(じりき)貶(へん)勤修(ごんしゅ) 円満(えんまん)徳号(とくごう)勧(かん)専称(せんしょう)
三不三信(さんぷさんしん)誨(け)慇懃(おんごん) 像末法滅(ぞうまつほうめつ)同(どう)悲引(ひいん) 
一生(いっしょう)造(ぞう)悪(あく)値(ち)弘誓(ぐぜい) 至(し)安養界(あんにょうかい)証(しょう)妙果(みょうか)

〈 書き下し文 〉
道綽(どうしゃく)、聖道(しょうどう)の証(しょう)しがたきことを決(けっ)して、ただ浄土の通入(つうにゅう)すべきことを明(あ)かす。
万善(まんぜん)の自力(じりき)、勤修(ごんしゅ)を貶(へん)す。円満(えんまん)の徳号(とくごう)、専称(せんしょう)を勧(すす)む。
三不三信(さんぷさんしん)の誨(おしえ)、慇懃(おんごん)にして、像末法滅(ぞうまつほうめつ)、同じく悲引(ひいん)す。
一生 悪を造(つく)れども、弘誓(ぐぜい)に値(もうあ)いぬれば、安養界(あんにょうかい)に至(いた)りて妙果(みょうか)を証(しょう)せしむと、いえり。

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〈 意訳 〉
七高僧(しちこうそう)第四祖(そ) 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は『安楽集(あんらくしゅう)』を記(しる)し、お釈迦様在世(ざいせ)の時代から遠く隔(へだ)たった 末法(まっぽう) 五濁(ごじょく)の世 においては、

・自力によって修行をする 聖道門(しょうどうもん)の教え では覚(さと)りが得(え)られない、誤(あやま)った教え となってしまっていること を明らかにし、退(しりぞ)けられ、

・阿弥陀様の願い として凡夫に差し向けられている すぐれた功徳 が 完璧(かんぺき)にそなわった名号「南無阿弥陀仏」を専(もっぱ)ら称(とな)えることによって、浄土に往生する浄土門(じょうどもん)の教え こそが 私達の通(とお)るべき道であることを明らかにされ、人々にも勧(すす)められました。
(聖道(しょうどう)・浄土二門(にもん)の決判(けっぱん))

そして、
「第三祖 曇鸞大師(どんらんだいし)が述べられた「三不信(さんふしん)」とは「自力の信(しん)」のことで、それに対して、他力の信心とは、純粋で混(ま)じるものがなく(淳心(じゅんしん))、二心(ふたごころ)がなくて散乱(さんらん)することもなく(一心(いっしん))、一貫(いっかん)して持続する(相続心(そうぞくしん))「三信(さんしん)」である。」と、詳しく丁寧(ていねい)に教えてくださっています。
また、他力の信心を要(かなめ)とした「本願念仏の仏法」は、お釈迦様在世(ざいせ)の時・正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法(まっぽう)・法滅(ほうめつ)の時代にも変(かわ)りなく、煩悩に汚(よご)れた人々を、同じように慈悲(じひ)をもって導(みちび)いてくださり、成仏道(じょうぶつどう)を全(まっと)うすることができる、そのような「新しい歴史観」も公(おおやけ)にされました。
そして、
「私達は、「お釈迦様が明らかにされた真実、人が生きる普遍(ふへん)の道理」に背(そむ)く「悪」を犯(おか)し続けているけれども、「浄土往生を 心から願う すべての人々 を 浄土に迎え入れてくださる」という阿弥陀様の誓願(せいがん)に値(あ)えば、阿弥陀様の極楽浄土に往生して、「無生(むしょう)」という「あらゆる存在の源(みなもと)」に触(ふ)れ、迷いの世界を離(はな)れた命を生きる者になる。」
と教えてくださいました。

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