46 本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人

↑ 練習した音源(約42分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


《 法然(ほうねん)上人(七高僧 第七祖(そ))》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

〈 法然上人に対する親鸞聖人の想(おも)い 〉
源空(げんくう)上人というのは、親鸞聖人の直接の師であられた法然上人のことです。
親鸞聖人にとって、法然上人 といえば、この和讃に つきています。

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『高僧和讃』源空讃(げんくうさん) 親鸞聖人 著
曠劫(こうごう)多生(たしょう)のあいだにも 出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき
本師(ほんじ)源空(げんくう)いまさずは このたび むなしく すぎなまし

〈 言葉の意味 〉
曠劫(こうごう)‐きわめて長い年月。  
多生(たしょう)‐何度も生まれ変わって来ること。
出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)‐迷いを離れる 有無(うむ)を言わせない縁。阿弥陀様の本願のこと。
本師(ほんじ)‐特に親しい 教え の 師。

〈 意訳 〉
私(親鸞聖人)は、果てしなく長い年月、何度も生まれ変わり 死に変わりを繰り返してきたのだろうが、これまでは 生きても 生きても 空(むな)しい思いのする中で 生きていた。迷いの世界を離れる強縁(ごうえん)である阿弥陀様の本願を知らなかった。
それが ついに、源空(げんくう)(法然上人)との出会いを通して、出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)に遇(あ)うことができた。そして、やっと、真実に生きることが始まった。やっと、空(むな)しく過(す)ぎることのない、そういう一日一日を生き切れるような生活が始まった。
もし、法然上人が居(お)られなかったならば、この生涯も空(むな)しく過(す)ぎたであろう。
(法然上人に出遇えた 最も深い喜びを述べる。)

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次の和讃は、実は、親鸞聖人が深い思いを込めて、法然上人のことを讃嘆(さんだん)しておられる和讃です。親鸞聖人は、法然上人を通して 多くの師主(ししゅ)知識との出会い ということがありましたが、やはり、師主(ししゅ)知識といえば、出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)になってくださった法然上人のことでありました。
だから、この和讃は、法然上人に捧(ささ)げられた和讃 ということになります。

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『正像末(しょうぞうまつ)和讃 五八』(恩徳讃(おんどくさん))親鸞聖人 著
如来大悲の恩徳(おんどく)は 身を粉にしても報(ほう)ずべし
師主(ししゅ)知識の恩徳(おんどく)も 骨をくだきても謝(しゃ)すべし

〈 意訳 〉
阿弥陀様にも等しい お釈迦様にも等しい 法然上人 との出会いによって、空(むな)しく生きていくしかなかった私(親鸞聖人)に、「念仏を相続していく」という大きな使命、仕事が与えられ、空(むな)しく過ぎることのない生活となり、助けていただきました。身(み)を粉(こ)にし、骨を摧(くだ)いても、自分の全存在をかけて、この喜びの生活 を 全(まっと)う させていただきます。

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この和讃の背景に兄弟子(あにでし)の聖覚法印(せいかくほういん)のことがあります。
法然上人は遺言(ゆいごん)として、
「私のために、世間で行われている 追善(ついぜん)供養(くよう)としての仏事(ぶつじ) は行(おこな)う必要はない。
 どうしても仏事(ぶつじ)を勤(つと)めたい というのであれば、報恩(ほうおん)として念仏相続の仏事(ぶつじ)を勤(つと)めるように」と、残しておられました。
そうして、法然上人が亡くなられると、世間で行われているような仏事(ぶつじ)に順(じゅん)じながら、「報恩(ほうおん)として念仏相続の仏事(ぶつじ)」が行われたのでした。
その内容は、法然上人の六七日(むなのか)に、聖覚法印(せいかくほういん)が読み上げられた「表白(ひょうびゃく)」に
よって はっきりとしました。

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その「表白(ひょうびゃく)」で聖覚法印(せいかくほういん)は、法然上人の御恩(ごおん)を、
一、教主(きょうしゅ)釈迦如来にも等(ひと)しい とし、
二、救主(きゅうしゅ)阿弥陀如来にも等しい と讃嘆(さんだん)しています。さらに、その御恩(ごおん)に、
三、骨(ほね)を粉(こ)にし、身(み)を砕(くだ)きても これに謝(しゃ)すべし としながら、
四、弥陀仏に奉仕(ほうし)せん と その決意を述べられました。
(親鸞聖人は、この表白(ひょうびゃく)を元にして恩徳讃(おんどくさん)を作られたのです。)
それは念仏相続という大きな使命を持った仏事(ぶつじ)でした。日本の仏事(ぶつじ)は、その時より二つの流れが起こり、報恩(ほうおん)講という仏事(ぶつじ)の伝統は この時から始まりました。

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聖覚法印(せいかくほういん)が、法然上人の御恩(ごおん)を
一、教主(きょうしゅ)釈迦如来にも等(ひと)しい
二、救主(きゅうしゅ)阿弥陀如来にも等しい と讃嘆(さんだん)されたところに、
親鸞聖人が明らかにされた「二尊教(にそんぎょう)」という大切な教えの根拠があります。
教主(きょうしゅ)とは、お釈迦様を始めとする三国の高僧方のことで、
「発遣(はっけん)の教命(きょうめい)(先達(せんだつ)が、念仏を称えて浄土に往生するよう 勧(すす)めてくださる)」といわれます。自分自身が、阿弥陀如来に助けられたからこそ、 
「あなたも、阿弥陀如来に助けていただきましょう!」と、勧(すす)めてくださる方のことです。
救主(きゅうしゅ)は、阿弥陀様のことで、「召喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)(私を招(まね)き 喚(よ)び続けてくださる阿弥陀様の呼(よ)び声(ごえ))」と いわれます。阿弥陀様は、私達を
「浄土へ来(き)たれ、必ず助けよう」と招(まね)き、働きかけ続けてくださっています。
もともと仏教は二尊教(にそんぎょう)なのですが、なかなか はっきりした形で成り立たない、ということがあります。しかし、教主(きょうしゅ)と救主(きゅうしゅ)が 同じ存在 になってしまう と、オウム真理教(しんりきょう)のような 生(い)き仏(ぼとけ)信仰 となって、危(あや)ういところ が出てきてしまいます。

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《 法然(ほうねん)上人物語(ものがたり) 》
法然上人が お生まれになった時の伝説があります。
 お釈迦様が、摩耶夫人(まやぶにん)の お腹の中に宿(やど)られた時に、摩耶夫人(まやぶにん)が 象(ぞう)の夢を見て身籠(みごも)られた といいますが、法然上人の場合は、お母上(ははうえ)が 剃刀(かみそり)を飲んだ夢を見て身籠(みごも)られた といいます。
そのことを お父上(ちちうえ)に話されると、
「そうか。おまえの腹の中に宿った子供は、おそらく一国(いっこく)を代表するような戒師(かいし)(僧侶となるための出家の儀式を行(おこな)う方(かた)。頭髪(とうはつ)を剃(そ)る際(さい)に剃刀(かみそり)を用(もち)いる。)になるだろう」と言われたのでした。
そうして、その通りに、法然上人は、大きく育っていかれました。

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『高僧和讃』源空讃(げんくうさん) 親鸞聖人 著
源空(げんくう)智行(ちぎょう)の至徳(しとく)には 聖道(しょうどう)諸宗(しょしゅう)の師主(ししゅ)も
みなもろともに帰せしめて 一心(いっしん)金剛(こんごう)の戒師(かいし)とす

〈 言葉の意味 〉
智行(ちぎょう)の至徳(しとく)‐智慧と修行を備(そな)えた この上もない徳。  
聖道(しょうどう)諸宗(しょしゅう)の師主(ししゅ)も‐法然上人が 聖道門(しょうどうもん)におられた時の師匠。
一心(いっしん)金剛(こんごう)‐天台宗(てんだいしゅう)に伝わる 仏道修行を修める者が守るべき戒(かい) の名(な)。
すべての真理を具(そな)えた一心を以(もっ)て この戒(かい)を受ければ、永久に失わない。
その堅固(けんご)なこと を 金剛(こんごう)に喩(たと)える。

〈 意訳 〉
法然上人の 智慧 や 行(おこな)い が 非常に優(すぐ)れておられたために、聖道門(しょうどうもん)にあった時の師匠(ししょう)方(がた)も、「源空(げんくう)は、一(いっ)国(こく)の戒師(かいし)だ」と、皆(みな)が認めて、仰(あお)がれた。

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《 法然(ほうねん)上人物語(ものがたり) 》
 法然上人(生年(せいねん) 一一三三年 ~ 没年(ぼつねん) 一二一二年)は、美作国(みまさかのくに)(今の岡山県)に、お生まれに なりました。お父上は、漆間(うるま)時国(ときくに)という 土地を治める役人でした。
悲しいことに、上人の九歳の時、お父上は、同じ職(しょく)に就(つ)いていた明石(あかし)定明(さだあきら)との抗争(こうそう)に巻き込まれ、夜討(よう)ちに遭(あ)われて亡くなられたのです。
 命終(みょうじゅう)に際(さい)して、お父上は、幼い法然上人に、次のようなことを言(い)い遺(のこ)された と伝えられています。
「仇(あだ)を恨(うら)んでは いつまで経(た)っても切(き)りがない。出家して、敵も味方も、共々(ともども)に救われる道を求めよ。」
この出来事が縁となり、法然上人は、十三歳のときに比叡山(ひえいざん)に上(のぼ)られ、十五歳の時に出家されたのでした。
 上人は、はじめ 源光(げんこう)という僧の弟子 と なられ、十八歳の時、叡空(えいくう)という僧を師 として 天台宗の教え を学ばれたのでした。
叡空(えいくう)は、上人の非凡(ひぼん)な才能を認め、「法然房(ほうねんぼう)」という房号(ぼうごう)を与えられ、また、最初の師の「源光(げんこう)」と、ご自分の名の「叡空(えいくう)」から、「源空(げんくう)」という名を授(さず)けられたのでした。
そして、法然上人は、比叡山(ひえいざん)の誰からも一目(いちもく)も二目(にもく)も置(お)かれるようになっていかれ、南都(なんと)(奈良)の法相宗(ほっそうしゅう)をはじめ、諸宗(しょしゅう)の宗義(しゅうぎ)の研鑽(けんさん)にも努(つと)められたのでした。
 これらの修養(しゅうよう)によって、法然上人は、当時、日本に伝わっていた仏教の教義(きょうぎ)の最も深いところを究(きわ)められたわけです。つまり、当時の仏教の教義(きょうぎ)に精通(せいつう)しておられた ということです。
しかし、それにも かかわらず、法然上人は、それらの学び からは、心から喜べる 人生の答え を見出されなかったのです。

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 悲しいことに、当時の比叡山(ひえいざん)は、世間 と少しも変わらない、名聞(みょうもん)(名声(めいせい)を得(え)たい)利養(りよう)(財産を蓄(たくわ)えたい)のために、僧侶としての階級(かいきゅう)を上げて行くことばかりをしていたのです。学問をするのも、仏法を求めるのも、悟りを開く とか 真理を体得(たいとく)する ということを目的とするのではなく、位(くらい)を上げるための学問 となっていたのです。そこで、法然上人は、一人の孤独(こどく)な求道者(きゅうどうしゃ)として、
「人は、どのようにしたら、次々に襲(おそ)ってくる 悩み や 悲しみ から、解(と)き放(はな)たれるのだろうか・・」
と、その 正しい答え を探し求めるため、厖大(ぼうだい)な数の お経 と、その先人達の注釈書(ちゅうしゃくしょ)を、虚心(きょしん)に、手当たり次第 読まれ、お釈迦様の教えの全体を解明されたのでした。
 そのような求道の中で出遇われたのが、源信僧都(げんしんそうず)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』の言葉でした。自分の努力によって悟りに近づく教え ではなく、
「自分のような愚(おろ)かな者にとっては、ただ阿弥陀様の本願を信じて極楽浄土に往生させてもらうしか方法はない。」
という教え だったのです。
 源信僧都(げんしんそうず) の お言葉 に導かれて、上人は、『仏説(ぶっせつ)観無量寿経』と、善導大師(ぜんどうだいし)(七高僧 第五祖(そ))の その注釈(ちゅうしゃく)である『観経疏(かんぎょうしょ)』に出遇われ、善導大師(ぜんどうだいし)が『仏説(ぶっせつ)観無量寿経』の教説(きょうせつ)から受け取られた「一心に阿弥陀様の名号を称(とな)えて」という お言葉 と 衝撃的な出遇い をなさったのです。それが衝撃であったのは、「念仏でもよい」という自力(じりき)聖道門(しょうどうもん)の伝統的な教え とは異なり、「ただ念仏しかない」という教えだったからです。
しかも、「ただ念仏」によってのみ救われる理由が
「それが、仏(ぶつ)の願(ねが)いに順(したが)うものであるから」と説かれていたのです。
法然上人は、この「ただ念仏して」という教え こそが、お釈迦様の本当の お心 である、と お気づきになられたのでした。
それは、上人 四十三歳のことであった と伝えられています。

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 法然上人は、やがて純粋な宗教を実現するために、比叡山(ひえいざん)から下(お)りられ、京都の吉水(よしみず)において、貧富(ひんぷ)・貴賎(きせん)・老若(ろうにゃく)・男女・善悪を問わず、濁(にご)った世を生きなければならない人々、真(まこと)の仏教を求める人々に、専修(せんじゅ)念仏(専(もっぱ)ら念仏を修(おさ)める)の教え を勧(すす)められ、その教えを広められたのでした。

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《 法然上人の時代 と その教え 》
法然上人の生きられた時代は、末法(まっぽう)(教え のみがあって、悟る者がいない)であり、五濁(ごじょく)悪世(あくせ)(五つの汚れに満ちた悪い世の中)である、という危機感に満ち、そのような中を人々は、悩み や不安を抱えながら、生活をしていました。
 宗教は、終末思想(しゅうまつしそう)を説きながら、新しい世界観を どう獲得(かくとく)していけるのかという 救済観(きゅうさいかん)を示そう としてきました。終末思想(しゅうまつしそう)の満ち満ちる その中で、どう生き残っていけるのか、また どう世界を回復していけるのか、そのことが宗教に大きく求められてきたのです。

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『法然上人御法語(ごほうご)』第十八
 この世では、念仏を申(もう)すことができるように過(す)ごすべきです。
念仏の妨(さまた)げになる と思われるものは、なんで あっても うち捨てて、止(や)めるべきなのです。
 つまり、出家して念仏が申(もう)せないのなら、妻を娶(めと)って念仏申(もう)すべきです。
妻を娶(めと)って念仏を申せないのなら、出家して念仏申すべきです。
住んでいるところで念仏申せないのならば、出家して念仏申しなさい。
出家して念仏申せないのならば、家にいて念仏申しなさい。
一ヵ所(いっかしょ)に留(とど)まり念仏が申せないのなら、諸国を行脚(あんぎゃ)して念仏申すべきです。
行脚(あんぎゃ)して念仏申せないのならば、一ヵ所(いっかしょ)に留(とど)まって念仏しなさい。

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自分で生計(せいけい)を立てて念仏申せないのならば、他人の助けを受けて念仏申しなさい。
他人から助けられて念仏申せないのならば、自分で生計(せいけい)を立てて念仏申しなさい。
一人で念仏申せないのなら、同朋(どうぼう)と共に念仏申しなさい。
共に念仏申せないのならば、一人籠(こも)って念仏申しなさい。

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法然上人は、徹底して念仏を中心にして、阿弥陀様の世界を、常に心に開き、保(たも)ちながら、生活をしていく、そのように法然上人自身も生活しながら、人々にも その生活を勧(すす)められたのでした。

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〈 武士 甘糟忠綱(あまかすただつな)への念仏の勧(すす)め 〉
源平合戦(げんぺいがっせん)により、甘糟忠綱(あまかすただつな)という武士が合戦(かっせん)に参加することとなり、
法然上人を訪ねて来ました。
「私は、弓矢を得意とする家に生まれ育ちました。
 いざ、合戦(かっせん)になれば、力を尽くして戦わざるを得ません。
 中途半端な振(ふ)る舞(ま)いがあってはならない・・
 しかし、そうなれば、人を殺さなくてはならない という心 に取りつかれ、浄土を願う 慈悲(じひ)の心を見失ってしまう。
 しかし、また、浄土を願う心が起きてしまえば、中途半端な振(ふ)る舞(ま)いとなり、恥(はじ)を東西(とうざい)に残すことになってしまうだろう・・
 弓箭(きゅうせん)の家系(かけい)の名(な)を汚(けが)さず、浄土往生をも遂(と)ける道があるのなら、どうか お聞かせください。」と。
法然上人は、
「阿弥陀様 の お浄土は、一切衆生 平等往生を願って、一人も排除(はいじょ)しないで、摂(おさ)め取(と)る。そういう願い の もと で、名号を称えること を 本願 として往生を約束されている。例え、戦場(せんじょう)で死んでいくことになっても、念仏すれば、必ず往生することになる。」と。

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 そうして、甘糟忠綱(あまかすただつな)は、心(こころ)励(はげ)まされ、戦場に行き、力(ちから)を尽(つ)くして戦い、いよいよ刀(かたな)折(お)れ矢(や)尽(つ)きた時には「南無阿弥陀仏」と 念仏申しながら 敵に命を与えたのでした。その時、不思議なことに、戦場に紫雲(しうん)が たなびいた というのです。それを聞かれて法然上人は、
「甘糟忠綱(あまかすただつな)が往生を とげていかれた」と、言われたのでした。

〈 武者(むしゃ) 熊谷(くまがい)直実(なおざね)の回心(えしん)(自力の心を捨てて 念仏の教えを信じる)〉
 熊谷(くまがい)直実(なおざね)は武蔵国(むさしのくに)の小さな豪族(ごうぞく)でしたが、源頼朝(みなもとのよりとも)から「一人(いちにん)当(とう)千(せん)の武者(むしゃ)」と褒(ほ)められるほどの剣豪(けんごう)でした。
そして、源平合戦(げんぺいがっせん)の果(は)てに、多くの罪業(ざいごう)を造り、特に、笛(ふえ)の名手(めいしゅ)と うたわれた十七歳の若武者(わかむしゃ)平敦盛(たいらのあつもり)を殺し、
「いとおしや やさしい心の若者(わかもの)を殺してしまった・・」
との後悔が、出家へ と歩ませた といいます。
直実(なおざね)は初め、法然上人の専修(せんじゅ)念仏の影響が及(およ)んでいた伊豆国(いずのくに)の走湯山(そうとうさん)(伊豆山神社(いずさんじんじゃ))に籠(こも)ったが、なかなか心が安(やす)まらず、やがて上洛(じょうらく)して、聖覚法印(せいかくほういん)を訪ねました。聖覚法印(せいかくほういん)を待つ間、直実(なおざね)は刀を研(と)ぎ始め、怪(あや)しんだ人に「その刀を何に使うのですか」と聞かれると、直実(なおざね)は、
「ここへ伺(うかが)ったのは来世(らいせ)のことを尋ねたいからです。この刀(かたな)は、もし、「腹を切り 命を捨てて罪を償(つぐな)えば来世に極楽往生できる」という答えが返ってきましたなら、すぐ腹を切ろう という目的のためのものです」と答えた といいます。
聖覚法印(せいかくほういん)は、「そういうことは法然上人に お聞きなさい」というので、法然上人を訪ねますと、
「今まで積(つ)んだ悪行(あくぎょう)が軽いか重いか などとは関係なく、念仏さえ称えれば極楽往生しますよ」と教えられたのでした。それを聞いた直実(なおざね)は、さめざめと泣いたのでした。普通の人なら大喜びをするのに、なぜ泣くのか わからず、しばらくして法然上人は「何があって泣いているのですか」と尋ねたところ、直実(なおざね)は、

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「「手足を切り 命を捨てて罪を償(つぐな)えば、お前は助けられて極楽へ往生するぞ」ときっと仰(おっしゃ)るだろう と思っていたのに、「ただ念仏さえ称えれば往生するぞ」とわけなく仰(おっしゃ)ったので、あまりに うれしくて泣けてきたのです」と答え、その言葉に、法然上人も、感動されたのでした。
ここに、人を殺すという悪行(あくぎょう)によってのみ、生きていける 武士の苦しみ がよく示されています。それは「地獄に堕(お)ちる悪行(あくぎょう)」です。
世間的に言えば、罪とは罰と同じことで、罪に対する罰とは その報(むく)いとして必ず地獄に堕(お)ちる ということです。しかし、罪は償(つぐな)うことによって、助けられる ということがありました。けれども、法然上人は、
「今まで積(つ)んだ悪行(あくぎょう)が軽いか重いか などとは関係なく、念仏さえ称えれば極楽往生しますよ」
と いわれ、この一言(ひとこと)によって、阿弥陀様の大慈悲心 に直実(なおざね)は出遇(であ)っていかれたのでした。
平安時代末期から鎌倉時代の武士たちは、人を殺さなければ先へ進めない現実に直面していたのです。武士として生きる彼らは悪人でした。その悪人の自覚が法然上人の教えに救われる縁となったのです。

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〈 熊谷(くまがい)直実(なおざね)物語(ものがたり) 〉
「念仏を申せば、後(のち)に、浄土に生まれて仏(ぶつ)に成(な)る」ということを「果報(かほう)」といい、「浄土に生まれる「果報(かほう)」を得る者は、今の生活にも浄土が映(うつ)し出(だ)されてくる」という「華報(けほう)」を獲(え)る、ということがあります。そのことを教えてくれる大切な物語が伝えられています。
熊谷(くまがい)直実(なおざね)は、それから法然上人の教えを直接聞いていくのですが、ある時、関白(かんぱく)という高い地位におられた九条兼実(くじょうかねざね)のところへ 法然上人が法話に行かれる というので、ついて行ったのでした。

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そうして、九条家(くじょうけ)の屋敷に着き、法然上人は座敷に上がっていかれ、直実(なおざね)も ついていこう と、沓(くつ)を脱(ぬ)いだところで家の者に「ここで お待ちください」と止められてしまいました。部屋の方では、九条兼実(くじょうかねざね)と法然上人が話をされているようでしたが、離れていて よく聞き取れませんでした。
すると、短気なところがあった直実(なおざね)は、大きな声で
「あわれ、穢土の世界ほど口惜しいところはない。浄土では このような差別はないだろうに!
 偏(ひとえ)に専修(せんじゅ)念仏の行(ぎょう)に はげんだ御蔭(おかげ)で、後世(こうせい)に「浄土に生まれる」という果報(かほう)をいただいているが、現世(げんせ)においては華報(けほう)として、専修(せんじゅ)念仏を喜ぶ者の所には、差別のない浄土を感じることができるはずではないだろうか!」
と叫(さけ)んだのでした。九条兼実(くじょうかねざね)は法然上人より詳細を聞くと、「ここに呼びなさい」といって直実(なおざね)を呼び入れたのでした。直実(なおざね)は別に礼をいうでもなく、だまって縁側(えんがわ)に控(ひか)えて法然上人の法話を九条兼実(くじょうかねざね)と一緒に聴聞(ちょうもん)したのでした。

 ↓「華報(けほう)」について

『高僧和讃 源空讃(げんくうさん) 十三』
源空(げんくう)光明はなたしめ 門徒に つねに みせしめき
賢哲(けんてつ)愚夫(ぐぶ)も えらばれず 豪貴(ごうき)鄙賤(ひせん)も へだてなし

〈 言葉の意味 〉
賢哲(けんてつ)‐賢(かしこ)く優(すぐ)れた人。  
愚夫(ぐぶ)‐愚(おろ)かな人。  
豪貴(ごうき)‐身分や家柄(いえがら)が非常に貴(とうと)い人。  
鄙賤(ひせん)‐「えた」「ひにん」と呼ばれる被(ひ)差別部落の人。

〈 意訳 〉
源空(げんくう)(法然)上人の徳(とく)の輝(かがや)きを、門弟(もんてい)達は 常に拝見していました。
また、智者(ちしゃ)や愚者(ぐしゃ)、貴族(きぞく)や差別を受ける人などの区別もなく、みな その法然上人の徳(とく)の輝(かがや)きを拝見していました。

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差別が ひどい世の中で、念仏を喜ぶ人々の所に「賢哲(けんてつ)愚夫(ぐぶ)も えらばれず 豪貴(ごうき)鄙賤(ひせん)も へだてなし」という 深い交わり が実現していたのです。これが「華報(けほう)」です。浄土は、後に生まれる「果報(かほう)」と、現世(げんせ)に浄土が映し出される「華報(けほう)」として、念仏者に働きかけてくださっています。
(逆にいいますと、現世(げんせ)において、浄土が映し出される「華報(けほう)」を感じることができるから、後(のち)に浄土に生まれる「果報(かほう)」を確信することができる、ということでもあります。)

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〈 正信偈の原文 〉
本師(ほんじ)源空(げんくう)明(みょう)仏教 憐愍(れんみん)善悪(ぜんまく)凡夫人(ぼんぶにん)

〈 書き下し文 〉
本師(ほんじ)・源空(げんくう)は、仏教に明らかにして、善悪(ぜんまく)の凡夫人(ぼんぶにん)を憐愍(れんみん)せしむ。

〈 言葉の意味 〉
「凡夫人(ぼんぶにん)」
 普通の、どこにでもいる人のこと。真実に目覚められた仏(ぶつ)以外の人。

「悪(あく)の凡夫人(ぼんぶにん)」
 自分が起こす欲望に支配されて、法律を犯(おか)し、道徳に背(そむ)き、仏(ぶつ)が説(と)き示(しめ)された真実を ないがしろにしている者。

「善(ぜん)の凡夫人(ぼんぶにん)」
 現実には、法律は犯(おか)したり、道徳に背(そむ)く行(おこな)いをしたりしていないが、それを 自分の努力の成果だ と思い、他人を見下したり、誇ったりする者。
 これも、「本当は、善い ご縁 に促(うなが)されて、善いことができているだけ」という仏(ぶつ)の真実を ないがしろにしている姿。

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善であろうと、悪であろうと、どちらにしても、愚(おろ)かで悲しい存在。

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法然上人 ご自身が、そのような凡夫であることを、強く受け止められ、自棄(やけ)になる他(ほか)はない ような 絶望の中 で、摂(おさ)め取って捨てられることがない阿弥陀様の本願が一方的に差し向けられている、という 事実 を、本当に喜んでおられる。

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〈 意訳 〉
法然上人は、比叡山(ひえいざん)ばかりではなく、南都(なんと)(奈良)の法相宗(ほっそうしゅう)をはじめ、諸宗(しょしゅう)の方々からも一目(いちもく)も二目(にもく)も置かれ、当時、日本に伝わっていた仏教の教義(きょうぎ)の最も深いところを究(きわ)められたのですが、
「人は、どのようにしたら、次々に襲(おそ)ってくる 悩み や 悲しみ から、解(と)き放(はな)たれるのだろうか・・」
という 人生の答え を見出すことができず、お釈迦様の教え である お経 を すべて読まれ、仏教の全体 を解明され、
「ただ念仏して」という教え こそが、お釈迦様の本当の お心 であり、阿弥陀様の願(ねが)いに順(したが)うことである!」
と、お気づきになられたのでした。
 そして、純粋な宗教を実現するために、比叡山(ひえいざん)から下りられ、京都の吉水(よしみず)において、貧富(ひんぷ)・貴賎(きせん)・老若(ろうにゃく)・男女・善悪を問わず、濁(にご)った世を生きなければならない人々、真(まこと)の仏教を求める人々に、専修(せんじゅ)念仏(専(もっぱ)ら念仏を修(おさ)める)の教え を勧(すす)められ、その教えを広められたのでした。

 ↓

この法然上人に出遇われ、その教えを まっすぐに受け取られたのが親鸞聖人だったのです。

《 親鸞聖人物語(ものがたり) 》
親鸞聖人は九才で出家され 二十九才までの二十年間、比叡山(ひえいざん)で悟りを獲(え)るために、人間としては これ以上できない というところまで努力をされ、そして、その努力に行き詰まり、その努力を通して、初めて 努力の無効(むこう) を知られたのでした。

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(自力も大事なのです。私達は、やりもしないで、すぐ 自力は だめだ という。
 それでは他力が はっきりしない。自力を尽くしていない と、
 「自力が有効かもしれない」と思う。自力を尽くした結果、自力無効(じりきむこう)(自分の力の限界に気づき、阿弥陀様の他力に お任せする)が わかる。親鸞聖人の比叡山(ひえいざん)での二十年の修行は、他力の信心が開かれる 大事な縁 となっていたのです。)

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『恵信尼文書(えしんにもんじょ)』第六通 親鸞聖人の妻 恵信尼(えしんに) 著
(第六通は、親鸞聖人の入滅(にゅうめつ)を看取(みと)った末娘(すえむすめ) 覚信尼(かくしんに)からの知らせ に 対して出された親鸞聖人生前の追想(ついそう)。
 『恵信尼文書(えしんにもんじょ)』は、大正十年(一九二一年)に西本願寺の宝物庫(ほうもつこ)で発見された、越後にいた 妻 恵信尼(えしんに)が、京都にいた末娘(すえむすめ) 覚信尼(かくしんに)に送った手紙。
 この『恵信尼文書(えしんにもんじょ)』が見つかったことにより、一時(いちじ)「架空(かくう)の人物」とさえ 疑われた 親鸞聖人の実在 が確認された。)
亡くなった あなたの お父さん(親鸞聖人)は、こういうことを かねがね 私に話しておられました。
二十九歳の時に、観音菩薩の化身(けしん)と崇(あが)められていた聖徳太子からの「夢の お告(つ)げ」をいただくため、聖徳太子創建(そうけん)と伝えられる六角堂(ろっかくどう)に、百日の参籠(さんろう)(一定の期間こもって祈願(きがん)すること)を思い立たれ、そして九十九日目の明(あ)け方(がた)に聖徳太子の夢をご覧(らん)になり、「汝(なんじ)の助かる道は 吉水(よしみず)しかない」という お告げをいただいて、それから吉水(よしみず)へ行ったのだ、ということを おっしゃっていました。
(夢(ゆめ) は、本心が現れる。思ったことを夢に見る。「吉水(よしみず)へ行きたい」というのが、親鸞聖人の本心であった。それが聖徳太子の形をとって親鸞聖人を促(うなが)してきた。

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行きたい けれども、行っては ならない という 非常に厳(きび)しいもの が、親鸞聖人の心の中にあり、それが どうしようもならなくなって、聖徳太子の所へ相談に行かれた、と考えられる。)

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『正像末(しょうぞうまつ)和讃』親鸞聖人 著
救世観音(くせかんのん)大菩薩(だいぼさつ) 聖徳皇(しょうとくおう)と示現(じげん)して
多多(たた)のごとく すてずして 阿摩(あま)のごとくに そいたまう

〈 言葉の意味 〉
「救世観音(くせかんのん)大菩薩(だいぼさつ) 聖徳皇(しょうとくおう)と示現(じげん)して」
 観音菩薩は、よく人々の苦(く)を抜(ぬ)き世(よ)を救うので、救世(くせ)の字を冠(かん)する。観音菩薩が聖徳太子の本地(ほんじ)(本来の姿)である、と 古くから言われていた。
「多多(たた)」‐父。  
「阿摩(あま)」‐母。

〈 意訳 〉
世(よ)を救う 観音菩薩が、日本に聖徳太子として現(あら)われて、慈父(じふ)のように哀(あわ)れんで捨て おかれず、慈母(じぼ)のように つき添(そ)って護(まも)ってくださる。
  
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《 親鸞聖人物語(ものがたり) 》
親鸞聖人は、法然上人の所へ行かれて、ついに、他力の信心に目覚められたのです。
それは、親鸞聖人 二十九歳、法然上人 六十九歳の時のことでした。
親鸞聖人の心の中には、一生涯を貫(つらぬ)いて、
「もし、法然上人が おいでにならなかったら、自分は永遠に目覚めることはできなかっただろう。」
という 感謝の お心 が ありました。


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『歎異抄』第二章 意訳 親鸞聖人の直弟子 唯円(ゆいえん) 著
親鸞においては、
「ただ念仏して、阿弥陀様に お助け いただくがよい」という よき人(法然上人)のお言葉をいただき、そのお言葉を信じているのであって、別に これという いわれ があるわけではありません。〈 中略(ちゅうりゃく) 〉
たとえ、法然聖人に だまされ、念仏したことから 地獄に おちた としても、私は今さら 後悔することはない と思っています。

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「だまされてもいい」というような 非常に深い信頼 を法然上人に持っておられた。
(これが 本当の信頼 ということ。「まさか だましは しないだろう」というのは疑っている証拠。疑っているから、自分に そう 言い聞かせている。
 「だまされてもいい」という心は、人間の心から出てくるものではない。
 他力の信心をいただかれた法然上人に対する信頼が現れている。
 親鸞聖人は、法然上人の教えによって他力の信心に目覚められた。
 しかし、また逆に、法然上人は 親鸞聖人が目覚められた ことを通して、自分のいただいている信心の確かさ を 知らされた。
 お二人は、そのような他力の信心を通して、信頼し合っておられた。)

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《 法然(ほうねん)上人物語(ものがたり) 》
 専修(せんじゅ)念仏の教え が 広まるにつれて、権威(けんい)を失(うしな)うことを恐れた比叡山(ひえいざん)や奈良の伝統仏教からの攻撃が強まり、同じく 権威を守ろうとした朝廷 によって、念仏は弾圧(だんあつ)されることになりました。法然上人の門人(もんじん)の四人は死罪に処(しょ)せられ、法然上人は四国の土佐(とさ)(高知県)に、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪(るざい)となられたのでした。
 法然上人は、四年後に罪が許されて、京都に戻られましたが、ほどなく、念仏のうちに 八十年の ご生涯 を閉じられたのでした。

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