↑ 練習した音源(約42分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
第二段 依経段「弥陀章」法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就
「釈迦章」如来所以興出世~難中之難無過斯
『大無量寿経』に依り、「弥陀章」で 阿弥陀仏の本願を述べ、「釈迦章」で阿弥陀仏の本願を私たちに教えてくださった釈尊を讃える
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《 原文 》
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方 普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照 本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
《 書き下し文 》
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見(とけん)して、無上(むじょう)殊勝(しゅしょう)の願を建立し、希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。
五劫(ごこう)、これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。
あまねく、無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放って、塵刹(じんせつ)を照らす。一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。
本願の名号は正定(じょうじょう)の業なり。至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願を因とす。
等覚(とうがく)を成り、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは、必至滅度(ひっしめつど)の願(がん)成就(じょうじゅ)なり。
《 戸次(べっき)公正(こうしょう)先生 意訳(黄色いお勤めの本) 》
法蔵菩薩、それは昔、国と王位を捨てて道を求めておられた頃の、あなたの名。
あなたは、世自在王仏という師におつかえし、仏たちの世界の成りたちと、国と人とのあり様を見きわめて、自ら浄(きよ)らかな国土を建てよう という、すばらしい願いを打ち立て、あらゆるいのちあるものと共に生きようというかつてない誓いを起されました。
はるかに長い時間(とき)をかけて、思いを深め、数多くの願いを選びとり、そのこころをみずからの名のりにおさめ、「どうか、私の名と、そのいわれを、よく聞きわけてください」と、願い成就の誓いをこめて十方の世界に呼びかけました。
あなたの名は、世にあまねく、光を放ち、はかりなく、はてしなく、さまたげなく、ならびなく、炎のように燃え、清らかさ、よろこび、深い智慧を輝かせ、たえることなく、思いや言葉では尽くせない光は、
日月(にちげつ)よりも明るく、世のすみずみを照らし、あらゆる いのちが その光の恵みにあずかるのです。
こうしてあなたは、願いの国、浄土の永遠の仏(みほとけ)、阿弥陀仏と成(な)られ、その名のりは、南無阿弥陀仏という、真実の言葉となり、その言葉は 人が生きて往(ゆ)く方向を正しく定める仕事をしています。あなたのまごころは、いのちの根源にはたらきかけ、私に、まことのこころをおこさせます。
私が生きることの意味に目覚めて、さとることができるとしたら、それは、〈かならずさとりに至(いた)らせる〉という、あなたの願いが成就(じょうじゅ)しているからなのです。
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「どんなに人間が救われない者なのか」ということを表し、「その救われるはずのない私達を、なんとしてでも 助けとげたい」という「阿弥陀様のお心」が、「法蔵菩薩の物語」となっている。
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本当に、人間が救われるためには、まず「人間」というものを深く掘り下げる必要である。
非常に深いものを表そうとしたときには、「物語」として表すよりほかに手だてがない。
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「法蔵菩薩の物語」によって、「南無阿弥陀仏がどうしてできたのか」という「南無阿弥陀仏の歴史」を表している。
《 法蔵菩薩の物語(『仏説 無量寿経 上巻』の意訳) 》
一人の国王がいました。国王は、ある時、世自在王仏という仏様の「教え」を聞かれ、その「教え」に深く感動し、「私も世自在王仏のようになりたい!」と思われました。
そして、国王は、王の位を捨て、国も、財宝や妻子も、すべてを捨てて、出家をし、法蔵菩薩という修行者となられたのです。
そして、法蔵菩薩は、世自在王仏の所へ行かれ、世自在王仏の前に ひざまずき、うやうやしく合掌をされ、世自在王仏をほめたたえたのです。
「あなたは、気高(けだか)く輝き、その神々(こうごう)しいお姿は、何よりも尊い。
あなたの輝きには、何者も及ぶことができず、太陽や月の光も、宝玉の輝きも、あなたの前には、輝きを失い、まるで 墨のかたまり のように なってしまう。
あなたの悟りの声 は、世に超えすぐれて、高らかに、すべての世界に響きわたる。
あなたは深く、仏方(ほとけがた)の教えに思いをこらし、その奥底(おくそこ)を限りなくきわめ尽しておいでになる。
あなたは、愚かさ や 貪り や 怒り などが、まったくなく、獅子のように勇ましく、力強いお方であり、はかり知れないすぐれた功徳をそなえておられる。智慧もまた、深く、輝き、その智慧の光のお力 は
世界中を震わせる。
願わくは、私も、仏となり、あなたのように迷いの人々をすべて救い、悟りの世界に至らせたい。
私は、すべての修行を修めて、この上なく優れた仏になろう。
私は誓う! 必ずこの願いを果しとげ、生死の苦を恐れる すべての人々に大きな安らぎを与えよう。
固い決意で、悟りを求め、ひるまず、ひたすら励(はげ)む方が、功徳は、さらに深まるだろう。
怠(おこた)ることなく、努め、励(はげ)んで、すぐれた光明を身にそなえ、はかり知れないほどの数限りない仏方(ほとけがた)の国々があるとしても、私の光明が、そのすべてを照らして、至らない所が無いようにしたい。
私が仏になるときには、国土を、涅槃の世界 そのもの になるように、最も尊く、すぐれた国としよう。そこに住む人々も、仏の教えを聞き、悟りを得ており、徳が高く、並ぶ者がない。
私は、哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。私の国に生れたいと思う者は、皆 喜びに満ちた 清らかな心となり、私の国に生れたならば、皆 安らかな心になる。
願わくは、師の仏(ぶつ)よ、この志(こころざし)を認めたまえ。これこそ「悟りの形」となるであろう。私は、このように願いをたて、必ず 果しとげます。
さまざまな仏方(ほとけがた)は 皆、完全な智慧をそなえておいでになるが、その仏方(ほとけがた)に、私のこの志(こころざし)を、いつも 心に留めていただこう。
私は、たとえ どんな苦難に、この身を沈めても、悟りを求めて 耐え忍び、修行にも 励んで、決して悔いることはないでしょう。
この通りです。私はこの上ない悟りを求める心を起しました。
私は、速やかに、この世で、悟りを開き、人々の迷いと苦しみのもとを取り除きたいのです。
どうぞ、私のために、広く「教え」をお説きください。
私は、それに従って修行をし、仏方(ほとけがた)の国のすぐれたところを選び取り、この上なく美しく、清らかな国土を造りたいのです。」
その時、世自在王仏は、法蔵菩薩に対して、
「どのような修行をして、国土を清らかに整えるかは、そなた自身で、考えるべきなのではないか?」
と、いわれました。法蔵菩薩は、
「いいえ、それは、とても、広く、深く、私などの知ることのできるものではありません。どうか、私のために、広く、さまざまな仏方(ほとけがた)の浄土の成り立ちをお説きください。私は、その通りに修行して、私の願いを満たしたいと思います。」
と、申しあげた。
そこで、世自在王仏は、法蔵菩薩の志(こころざし)が、実に尊く、深く、広いものであることを知り、
「 例えば、たった一人で、大海の水を汲み取ろうとして、果てしない時(とき)をかけて、続けるならば、ついには、底まで汲み干し、海底の珍しい宝を手に入れることができるであろう。人が、まごころ を 込めて、努め、励(はげ)み、悟りを求め続けるなら、必ず、その目的を成しとげ、どのような願いでも満たされるであろう。」
と仰せになり、法蔵菩薩のために、二百一十億のさまざまな仏方(ほとけがた)の国々に住む人々の「善い行いによる 幸せな世界」「悪い行いによる 不幸な世界」、国土の優劣などを、目の当たりに見せるように、お説きになられたのです。
法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、清らかな国土の様子を詳しく拝見して、少しのとらわれもなく、心静かに、すべての世界の中で及ぶものもない、この上なく「優れた願い」を起したのです。
そして、五劫(二百十六億年)という長い間、思いをめぐらして、浄土を美しく整えるための清らかな行『お念仏』を選び取られたのでした。
そうして、法蔵菩薩は、再び、世自在王仏のもとへ行き、合掌をし、ひざまずき、
「私は、すでに、浄土を美しく整える「清らかな行」を選び取りました。」
と、申しあげられたのです。
すると、世自在王仏は、
「そなたの「その願い」を、ここで述べるがよい。すべての人々に、そなたの願いを聞かせ、悟りを求める心を起させ、喜びを与えるがよい。そして、それを聞いた菩薩たちが、この教えを修行し、はかり知れない大いなる願いを満たすことができるであろう。」
と、仰せになられ、法蔵菩薩は、そのお言葉にしたがい、「願い」を語られたのです。
「それでは、どうぞ お聞きください。
( 一 )私が仏になるとき、私の国に、地獄や餓鬼や畜生の者がいるようなら、私は決して悟りを開きません。
( 二 )私が仏になるとき、私の国の天人や人々が命を終えた後、ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがあるようなら、私は決して悟りを開きません。
( 三 )私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、すべて「金色に輝く身」となる。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
( 四 )私が仏になるとき、私の国の天人や人々の姿形(すがたかたち)が、まちまちで、美しい者 や 醜くい者 がいるようなら、私は決して悟りを開きません。
( 五 )私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、限りない過去のことまで知り尽すことができないようなら、私は決して悟りを開きません。
( 六 )私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、数限りない仏方(ほとけがた)の国々を見通すことができないようなら、私は決して悟りを開きません。
( 七 )私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、数限りない仏方(ほとけがた)の説法を聞きとり、すべて記憶することができないようなら、私は決して悟りを開きません。
( 八 )私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、数限りない仏方(ほとけがた)の国に住む人々の心を、知り尽すことができないようなら、私は決して悟りを開きません。
( 九 )私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、またたく間に、数限りない仏方(ほとけがた)の国々を巡(めぐ)ることができないようなら、私は決して悟りを開きません。
( 十 )私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、いろいろと思いはからい、その身に執着することがあるようなら、私は決して悟りを開きません。
(一一)私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、必ず悟りに至る。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(一二)私が仏になるとき、私の光明には、限りが無く、数限りない仏方(ほとけがた)の国々のすべてを照らすでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(一三)私が仏になるとき、私の寿命には、限りが無く、はかり知れない遠い未来にも尽きることがないでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(一四)私が仏になるとき、私の国は、仏の教えを聞く者ばかりとなる。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(一五)私が仏になるとき、私の国の天人や人々の寿命には、限りがない。ただし、願いによって、「寿命の長さを変えたい」と思う者は、自由にされてもいい。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(一六)私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、悪い言葉を耳にするようことがあれば、私は決して悟りを開きません。
(一七)私が仏になるとき、すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、皆 私の名をほめたたえるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(一八)私が仏になるとき、すべての人々が、心から私の言葉を信じ、「私の国に生れたい」と、わずか十回でも念仏を称えたならば、必ず、私の国に生れさせよう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)ったりする者だけは、除かれる。
(一九)私が仏になるとき、すべての人々が悟りを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心から「私の国に生れたい」と願うであろう。その人が、命を終えようとする時には、私が多くの聖者たちと共に、その人の前に現れましょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(二十)私が仏になるとき、すべての人々が、私の名を聞いて、私の国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心から「私の国に生れたい」と願うなら、その願いをきっと 果しとげさせましょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(二一)私が仏になるとき、私の国の天人や人々がすべて、仏の身にそなわる三十二のすぐれた特徴を そなえていないようなら、私は決して悟りを開きません。
(二二)私が仏になるとき、他の仏方(ほとけがた)の国の菩薩たちが、私の国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である「一生補処の位」に至るでしょう。ただし、その菩薩の願い に よって、すべての人々を救うために、さまざまな仏方(ほとけがた)の国へ行きたい と願うなら、自由にされてもいい。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(二三)私が仏になるとき、私の国の菩薩が、私の不可思議な力を受けて、一度 食事をするほどの短い時間のうちに、数限りない国々に至り、仏方(ほとけがた)を供養することができないようなら、私は決して悟りを開きません。
(二四)私が仏になるとき、私の国の菩薩が、さまざまな仏方(ほとけがた)を供養のための品々を、思いのままに得られないようなら、私は決して悟りを開きません。
(二五)私が仏になるとき、私の国の菩薩が、自由に説法することができないようなら、私は決して悟りを開きません。
(二六)私が仏になるとき、私の国の菩薩が、強靭な体を得ていないようなら、私は決して悟りを開きません。
(二七)私が仏になるとき、私の国の天人や人々の用いる物は、すべて、形も色も並ぶ物がないほど、清らかで 美しくでしょう。そうでないようなら、私は決して悟りを開きません。
(二八)私が仏になるとき、私の国の菩薩は、私の国の菩提樹の木が限りなく光り輝いていることを知るでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(二九・三十)私が仏になるとき、私の国の菩薩が、仏の教えを受けて、心のままに、その教えを、人々に説くことでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(三一)私が仏になるとき、私の国土は、すべての数限りない仏方(ほとけがた)の世界を照らし出すでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(三二)私が仏になるとき、私の国土は、大地から天空に至るまで、すべてのものが みな、数限りない宝や美しい花などで彩(いろど)られるでしょう。そして、私の国土の香りは、すべての世界に広がり、菩薩たちが仏道に励(はげ)む力となるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(三三)私が仏になるとき、すべての数限りない仏方(ほとけがた)の世界が、私の光明に照らされるでしょう。そして、その光を、身に受けたならば、身も心も和らいで、すべてのものを超えすぐれた「美しい姿」になるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(三四)私が仏になるとき、すべての数限りない仏方(ほとけがた)が、私の名を聞き、真実の理(ことわり)を悟り、「教え」を忘れることがなくなるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(三五)私が仏になるとき、すべての数限りない仏方(ほとけがた)の世界の女性が、私の名を聞いて、喜び信じ、悟りを求める心を起すでしょう。その時に、「女性は成仏できない」と聞かされ、自分が女性で
あることを嫌うのであれば、命を終えて、ふたたび女性として生れることがないようにしたい。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(三六)私が仏になるとき、すべての数限りない仏方(ほとけがた)の世界の菩薩たちが、私の名を聞いて、命を終えて後に、常に 清らかな修行をして、仏道を成しとげるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(三七)私が仏になるとき、すべての数限りない仏方(ほとけがた)の世界の天人や人々が、私の名を聞いて、敬い喜び、菩薩の修行に励むなら、神々や、世の人々 すべてから、敬まわれるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(三八)私が仏になるとき、私の国の天人や人々が、「衣服を欲しい」と思えば、思いのままに、仏のお心にかなった尊い衣服が、すぐ現れ、身につけているでしょう。その衣服が、裁縫や染め直しや洗濯などをしなければならないようなら、私は決して悟りを開きません。
(三九)私が仏になるとき、私の国の天人や人々の受ける「楽しみ」は、煩悩が無くなった時の心境と同じものである。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(四十)私が仏になるとき、私の国の菩薩が、「すべての数限りない清らかな仏の国々を見たい」と思うなら、いつでも、宝の樹々の中に、仏の国々が、照らし出され、はっきりと見ることができるようにしよう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(四一)私が仏になるとき、他の国の菩薩たちが私の名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由な所があるようなら、私は決して悟りを開きません。
(四二)私が仏になるとき、他の国の菩薩たちが、私の名を聞けば、残らず 皆、煩悩の穢(けが)れと束縛を離れるでしょう。そして、またたく間に、数限りない仏方(ほとけがた)を供養することでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(四三)私が仏になるとき、他の国の菩薩たちが、私の名を聞けば、命を終えた後に、人々に尊ばれる家に生れることができるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(四四)私が仏になるとき、他の国の菩薩たちが、私の名を聞けば、喜び 勇んで、菩薩の修行に励み、さまざまな功徳を欠けることなく身にそなえるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(四五)私が仏になるとき、他の国の菩薩たちが、私の名を聞けば、すべての人が「諸仏」に見えるでしょう。そして、仏になるまでの間、常に、数限りない仏方(ほとけがた)を拝見することができるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(四六)私が仏になるとき、私の国の菩薩は、聞きたい「教え」を、願いのままに、聞くことができるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
(四七・四八)私が仏になるとき、他の国の菩薩たちが、私の名を聞いて、ただちに悟り、後に、必ず仏となるでしょう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
私は、世に超えた、優れた願いをたてました。必ず、この上ない悟りを得られるでしょう。この願いを果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
私は、いつまでも、「大いなる恵みの主」となり、広く、「力もなく、苦しんでいる者」を、救うでしょう。そうでなければ、誓って仏にはならない。
私が、仏の悟りを得たとき、私の名は、すべての世界の すみずみにまで届くでしょう。そうでなければ、誓って仏にはならない。
欲を離れて、心 静かに、清らかな智慧をそなえて、菩薩の修行に励み、この上ない悟りを求めて、「天人や人々の師」となろう。
不可思議な力で、大いなる光を放ち、果てしのない世界を、くまなく照らして、煩悩の闇を除き去り、多くの苦しむ者を、広く救いたい。
智慧の眼(まなこ)を開いて、無明の闇をなくしたい。
迷いの世界の門を閉じて、悟りの世界の門を開こう。
すべての功徳を そなえた仏となり、そのすぐれた輝きは、すべての世界に行きわたり、太陽も、月も、天人も、その輝きを隠すでしょう。
人々のために、すべての教えを説き明かし、広く「功徳の宝」を与えよう。
常に人々の中にあって、獅子が吼えるように「教え」を説こう。
すべての仏方(ほとけがた)を供養し、さまざまな功徳をそなえ、願いも智慧も、世界中で、最も優れた者となろう。
師の仏の「何ものにも、さまたげられない智慧」が、すべてを照らし尽すように、願わくは、私の功徳や智慧の力も、最も優れたものでありたい。
この願いが果しとげられるなら、天も地も、それに応えて、打ち震え、空からは、天人が、さまざまな美しい花を、降らすでしょう。」
法蔵菩薩が、このようにお説きになられると、美しい音楽が流れてきて、天から、
「必ず、この上ない悟りを開くであろう。」
と、声が聞こえ、大地が打ち震え、天人たちは、美しい花を降らせ、法蔵菩薩をほめたたえたのでした。
そうして、法蔵菩薩は、このような大いなる願いを身にそなえ、世を超えた 深い悟りを、願い求めたのです。
・ 貪りの心、怒りの心、愚かな心、人を害そうとする心を起こさず、また、そういう想いを持つこと さえ なかった。
・ すべてのものに執着せず、どのようなことも耐え忍び、数多くの苦をものともしなかった。
・ 欲は少なく、今が 満ち足りたもの であることを知り、
・ 心を落ちつけて、何ものにも さまたげられない智慧を持ち、
・ 偽りの心 や こびへつらう心 は、まったくなかった。
・ 表情は やわらかく、言葉は やさしく、相手の心を汲み取ってよく、相手の心を受け入れ、
・ 力強く、努め、励んで、少しも怠ることもなく、ひたすら、清らかで、善い行いを求めた。
・ すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長の者に仕えた。
・ 計らいの心を持たず、「すべては幻のようなものだ」と見通した。
・ 自分を害し、他の人を害し、その両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになり、他の人のためになり、その両方のためになる善い言葉を用いた。
・ 他の人にも、自分と同じような修行をさせた。
また、法蔵菩薩は、あるときは、富豪となり、在家信者となり、大臣となり、国王となり、天人となり、梵天などの王となり・・どこに生れても、思いのままに、すべての仏を供養し、篤く敬われ、数限りない人々を教え 導き、この上ない悟りの世界に安住させたのでした。
そうして、法蔵菩薩は、はかり知ることのできない長い年月をかけて、功徳を積み、修行に励み、ついに、阿弥陀如来となられ、極楽浄土を造られたのでした。
《 阿弥陀如来のお姿 》
阿弥陀如来の寿命には、限りがなく、その光明は、すべての世界を照らし、光が届かないところは、どこにもなく、他の仏方(ほとけがた)では到底 及ぶことのできない、もっとも尊い光を、放たれたのでした。そして、この光明に照らされた者は、煩悩が消え去り、身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれ、善い心を起こさせるのでした。
もし、地獄や餓鬼や畜生の「苦しみの世界」にあって、この阿弥陀如来の光明に出会うならば、皆 安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に、迷いを離れることができるのでした。
この阿弥陀如来の光明を、すべての仏方(ほとけがた)や菩薩たち・仏の教えを聞く人々が、皆 ほめたたえているのです。
そして、もし、人々が、この光明のすぐれた功徳を聞いて、まごころをこめて日夜ほめたたえたならば、極楽浄土へ往生することができるのです。
その浄土へ導く阿弥陀如来の功徳を、菩薩やさまざまな聖者たちが、また、ほめたたえておられるのです。
《 浄土の姿 》
・ 阿弥陀如来の極楽浄土は、大地や木々などすべてが、金・銀・メノウなどの宝石で出来上がっていて、まばゆく光り輝き、たいへん美しい。
・ 空には、数限りない美しく珍しい宝や、「宝の鈴」で飾られた網がおおいめぐらされていて、美しく輝いている。
・ 極楽浄土の広さは、広大で、限りがなく、その広大な大地には、山や海、谷 や くぼんでいる所も無い。しかし、「山などが見たい」と思えば、仏の不思議な力によって、ただちに現れてくる。
・ 人々が歩く所には、多くの宝石で できた美しい布が、広く敷かれている。
・ 気温は、常に、暑からず、寒からず、快く、春夏秋冬の四季がない。
《 浄土の花 》
・ いろいろな宝石で できた 無数の花びらを持つ蓮の花が、いたるところに咲いている。その蓮の花は、それぞれの色に、光り、輝き、その「鮮やかな輝き」は、太陽や月よりも、明るい。
「その無数の蓮の光の中」から、金色に輝く、美しい仏方(ほとけがた)が現れ、数限りない人々を、仏道に歩ませるため、広く、優れた教えを説かれている。
・ 四時間ごとに、風が吹き、花を散らし、かぐわしい香りと共に、花びらが、浄土を余すところなく、おおい尽す。(花びらは、それぞれの色ごとに まとまって、入りまじることがない。)
その花びらを踏むと、四寸(十二cm)ほど くぼみ、足をあげると、また、すぐ 元に戻る。
花びらは、必要がなくなれば、たちまち、地面が開いて、その中へ消えいく。
《 浄土の風 》
清らかな風が、ゆるやかに吹くと、宝石でできた空を覆う網や木々や花々が、ゆれて、いろいろな音を出す。その音は、清く、透き通り、よく調和して、見事な音色となっている。それは、すべての世界の中で、最も優れている音楽のようである。
また、その音色は、「教えの声」となり、さまざまな仏方(ほとけがた)の世界に響き渡り、その声を聞く者は、悟りを得て、仏になるまで 耳が清らかになり、決して苦しみ、煩うことがなくなる。
《 浄土の池 》
・ いたるところに、宝石で できた 美しい池があり、池の岸には、宝石で できた 栴檀(せんだん)の木々があり、よい香りが一面に漂っている。 また、水面を おおうように、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が、咲き乱れている。
その池では、水浴を楽しむことができ、水浴をすれば、身も心もさわやかになり、心の汚れも除かれる。
池の水の量は、思いのままで、「膝までつかりたい」と思えば、膝まで水かさが増し、「首まで」と思えば、首まで水かさが増してくる。水の温度も、望みのままである。
・ 池の水は、美しく音の「さざ波」を立てている。また、その「さざ波」は、聞く者の望みのままに、どのような「調べ」をも 奏でてくれる。
このように、極楽浄土には、苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえ無く、ただ、美しく、快い音だけがあるから、安楽浄土ともいわれるのです。
《 浄土での食事 》
もし、食事をしたいと思えば、宝石で できた器(うつわ)に、すばらしい食べ物や飲みものが、あふれるほどに盛られて、目の前に現れる。しかし、それを見て、香りを かぐ だけで、満ち足りて、身も心も和らぎ、味わおう とは思わない。心が満たされれば、食べ物は消えていく。
《 浄土への往生 》
浄土の蓮の花の「鮮やかな輝き」の中から、金色に輝く美しい仏となり、浄土へ生まれ出る。
浄土は、清く、安らかで、美しく、快く、浄土へ往生すれば、自然に 悟りに至り、すぐれた智慧と、自由自在な神通力を身に そなえることができる。その仏方(ほとけがた)の姿形(すがたかたち)は、皆 美しい。