14 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

↑ 練習した音源(約23分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容を印刷して配っているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


今日のお言葉

〈 原文 〉
凡聖(ぼんしょう)逆謗(ぎゃくほう)斉(さい)回入(えにゅう) 如(にょ)衆水(しゅうすい)入(にゅう)海(かい)一味(いちみ)

〈 書き下し文 〉
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅうすい)、海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。

 ↓ 七月に見た 第二段 依経段「釈迦章」の始め

如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かんとなり。
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
 〈 意訳 〉
 「五濁悪世」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
 お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
 だからこそ 五濁の悪時に生きる私達は、その「お釈迦様 の ご恩」に報(むく)いるためにも、『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願 の 教え」を、信じるべきである。 

 ↓

『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願 の 教え」を
信じる と、私達は どうなって いくのか?

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 ↓「5つの信心の利益(りやく)」

2、一乗の利益
計(はか)らいの心から離れて、如来の本願の世界に心身をゆだねるならば、いかなる者も「仏様(煩悩の支配を離れた境地)」に成(な)ることができる。
〈 原文 〉
凡聖(ぼんしょう)逆謗(ぎゃくほう)斉(さい)回入(えにゅう) 如(にょ)衆水(しゅうすい)入(にゅう)海(かい)一味(いちみ)
〈 書き下し文 〉
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅうすい)、海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。
 ↓
〈 お言葉の意味 〉
凡聖(ぼんしょう)」‐煩悩に まみれて迷っている「凡夫」と、煩悩を無くして清らかになられた「聖者」

逆謗(ぎゃくほう)」‐「五逆(ごぎゃく)の罪(私を お育てくださるものに背(そむ)く(逆(さか)らう)重い罪)」と、「謗法(ほうぼう)(仏の教えを謗(そし)る 救われるはずがない者)」
  ↓
 「五逆の罪」
 一、父を殺すこと(害(がい)父(ぶ))
 二、母を殺すこと(害母(がいも))
 三、聖者を殺すこと(害(がい)阿羅漢(あらかん)) 
 四、仏 の お体 を傷つけて血を流させること(出仏(しゅつぶつ)身(しん)血(けつ))
 五、教団を分裂させること(破(は)和合(わごう)僧(そう))

  ↓

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 第十八願 念仏往生の願・選択(せんじゃく)本願の願・至心信楽(しんぎょう)の願・往相信心の願
 私が仏になるとき、すべての人々が、心から私の言葉を信じ、「私の国に生れたい」と、わずか十回でも念仏を称えたならば、
必ず、私の国に生れさせよう。
 そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
 〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん)(漢文では「唯除(ゆいじょ)五(ご)逆(ぎゃく) 誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)」)〉
 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)ったりする者だけは、除かれる。
  ↓
 『御消息集』親鸞聖人 著
 善知識を おろそかにし、師を謗(そし)る者を、「仏の教えを謗(そし)る者」というのです。
 また、親を謗(そし)る者 を 五逆の者 というのです。
  ↓
 「五逆の罪」「仏の教えを謗(そし)る」ということは、言葉に出したり、心で思ったりするだけでも罪となる
  ↓
 私達は、本来ならば〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉の所にいる
  ↓
 『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』親鸞聖人 著
 「唯除(ゆいじょ) 五(ご)逆(ぎゃく) 誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)」というのは、「唯除(ゆいじょ)」というのは「ただ除く」という言葉であり、五逆の罪を犯す人を嫌い、仏法を謗る罪の重いことを知らせようとしているのである。この二つの罪の重いことを示して、すべての世界のあらゆるものが みな もれることなく往生できるということを知らせようとしているのである。

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  ↓
 〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉は、
 「私は五逆の者である・・ また 仏の教えを謗(そし)る者である・・」と、その罪の深さ を徹底的に知らしめて、そのことによって、その者 と 本願 との 関係 を修復させて、摂(おさ)めとって、お浄土へ迎え取ってくださる。

回入(えにゅう)」‐回心(えしん)して帰入(きにゅう)する
  ↓
 回心(えしん)‐真実に背を向ける「自分の計らい」「自分の思い」にこだわり続ける心を捨てて、大きな願いの中に生かされている「本来の自分」に 立ち戻ること

衆水(しゅうすい)」‐いろいろな川の水

 ↓

凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅうすい)、海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。
〈 意訳 〉
煩悩に まみれて迷っている「凡夫」も、
煩悩を無くして清らかになられた「聖者」も、
「五逆の罪(私を お育てくださるものに背く(逆(さか)らう)重い罪)」を犯(おか)す者も、
「謗法(ほうぼう)(仏の教えを謗(そし)る 救われるはずがない者)」も、
真実に背を向ける「自分の計らい」「自分の思い」に こだわり続ける心 を捨てて、
大きな「阿弥陀様の願い」の中に生かされている「本来の自分」に立ち戻れば、
いろいろな川の水が、海に入って 一つの味 になるように、
どんな者でも、「仏様(煩悩の支配を離れた境地)」に成(な)ることができる。

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 ↓

❍ 人 それぞれ、事情や情況など「違い」がある。
これまでに生きてきた経過や経歴も さまざまで、
それによって「善し悪しの違い」も出てきてしまう。
けれども、どのような状態にあろうと、どのような経歴であろうと、阿弥陀様の「すべての命を救いたい」という願い の もと では、違い も 区別 も ない。

❍ 凡夫は、たくさんの悪を持っているが、お念仏によって、「その悪」が「仏様の徳」へと変わっていく。
だから、「仏様(煩悩の支配を離れた境地)」に成(な)ることができる。
「悪」があっても かまわない。それが みな「功徳」に変わる。

 ↓

『高僧和讃(曇鸞(どんらん)大師)』)親鸞聖人 著
罪障(ざいしょう)功徳の体(たい)となる  こおり と みず の ごとくにて  こおり おおきに みず おおし  さわり おおきに 徳 おおし  
罪障(煩悩によって作る悪い行い)と功徳の関係は、氷と水のようである。
氷が多ければ、水も多い。
そのように罪障が多ければ、その罪障が、多くの功徳に変わっていく。

 ↓

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 ↓ 余談
海援隊『贈る言葉』
「人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから」
 ↓
太宰(だざい)治(おさむ)『斜陽(しゃよう)』(長編小説)
「人の横に憂(うれ)いを立てて優しいと読む いいかい 人間は心に 悲しみ 憂(うれ)い があるから 人に やさしくできるんだ そういう人の事を「優(すぐ)れている」とも読む」

 ↓

お念仏によって、「煩悩によって作る悪い行い」が「仏様の功徳」へと変わっていく。
お念仏によって、「無駄なこと なんて 一つも無い」といえるような「生き生きとした生活」が開かれてくる。

 ↓ 逆に言うと

「自分の計らい」「自分の力」では「無駄なこと なんて 一つも無かった」と言える「涅槃(煩悩の支配を離れた境地)」に いたることができない。
誰もが、「自力」では「仏様(煩悩の支配を離れた境地)」に成(な)ることができない。

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 ↓「5つの信心の利益」の 一つ目 と 二つ目

1、大乗の利益 『能(のう)発(ほつ)一念喜愛(きあい)心(しん) 不(ふ)断(だん)煩悩得(とく)涅槃』
信心(浄土の大菩提心)を起こす ならば、煩悩を断ぜずして 涅槃(煩悩の支配を離れた境地)を得ることができる

2、一乗の利益 『凡聖(ぼんしょう)逆謗(ぎゃくほう)斉(さい)回入(えにゅう) 如(にょ)衆水(しゅうすい)入(にゅう)海(かい)一味(いちみ)』
計(はか)らいの心から離れて、如来の本願の世界に心身をゆだねる ならば、いかなる者も「仏様(煩悩の支配を離れた境地)」に成(な)ることができる。

まとめ

〈 書き下し文 〉
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かんとなり。
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
よく一念喜愛(きあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、煩悩を断(だん)ぜずして涅槃を得(う)るなり。
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅうすい)、海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。

〈 意訳 〉
 「五濁悪世」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
 お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。

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 だからこそ 五濁の悪時に生きる私達 は、
その「お釈迦様 の ご恩」に報(むく)いるためにも、
『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願 の 教え」を、信ずるべきである。

 『大無量寿経』に示されている お釈迦様 の お言葉 に従い、阿弥陀様の願い に 気づかされ、信心を賜り、暗い我執から はじめて 逃れて、「本当に求めるべきもの」が はっきりしたならば、
阿弥陀様の眼(まなこ)を賜り、煩悩 を 生きる力 に 転(てん)じて、煩悩の支配を離れた「涅槃」の境地に いたることができる。(大乗の利益)

 煩悩に まみれて迷っている「凡夫」も、
煩悩を無くして清らかになられた「聖者」も、
「五逆の罪(私を お育てくださるものに背く(逆(さか)らう)重い罪)」を犯(おか)す者も、
「謗法(ほうぼう)(仏の教えを謗(そし)る 救われるはずがない者)」も、
真実に背を向ける「自分の計らい」「自分の思い」に こだわり続ける心 を捨てて、
大きな「阿弥陀様の願い」の中に生かされている「本来の自分」に立ち戻れば、
いろいろな川の水が、海に入って 一つの味 になるように、どんな者でも、「仏様(煩悩の支配を離れた境地)」に成(な)ることができる。(一乗の利益)