↑ 練習した音源(約22分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容を印刷して配っているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
第十八願 至心信楽の願成就の文
〈 原文 〉
諸有(しょう)衆生、聞(もん)其(ご)名号、信心歓喜(かんぎ)、乃至(ないし)一念。
至心(ししん)回向。願生(がんしょう)彼国(ひこく)、即(そく)得(とく)往生、住(じゅう)不退転(ふたいてん)。
唯除(ゆいじょ)五逆(ごぎゃく) 誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)。
〈 書き下し文 〉
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念せん。
至心(ししん)に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願(がん)ずれば、すなわち往生を得(え)、不退転(ふたいてん)に住(じゅう)せん。
ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)とをば除く。
〈 意訳 〉
阿弥陀様は、心を尽(つ)くして、生きとし生けるものに、「真実」を伝えよう としてくださっている。
その阿弥陀様のご苦労は、人々に「南無阿弥陀仏の由来 と お心」が伝わっていくことで、実現されていく。
そうして、人々が、諸仏・善知識(よき人)を通して、「南無阿弥陀仏の由来 と お心」を聞き、「すべての出来事は、南無阿弥陀仏の中で起こっている」ということを知らされ、信心を得て、歓喜(よろこび)にあふれることになる。
そして、その人が「私も阿弥陀様のおられる お浄土 に 生まれたい」と願えば、阿弥陀様の不可思議な お力 に よって、たちどころに 心がお浄土に往生し、命終われば、必ず お浄土に生まれて、仏に成ることができる。
ただし、「重い罪」や「仏法を謗る」などの 悪 を 犯す者は、除かれる。
ー1-
信心歓喜 → 獲(ぎゃく)信(しん)見(けん)敬(きょう)大(だい)慶喜(きょうき)
即得往生 → 即(そく)横(おう)超截(ちょうぜつ)五悪趣(ごあくしゅ)
住不退転 → 仏(ぶつ)言(ごん)広大(こうだい)勝解(しょうげ)者(しゃ) 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)
↓
今日のお言葉
第二段 依経段 釈迦章 五つの信心の利益
4、横超(おうちょう)の利益(他力によって娑婆を超えていく)
〈 原文 〉
獲(ぎゃく)信(しん)見(けん)敬(きょう)大(だい)慶喜(きょうき)
即(そく)横(おう)超截(ちょうぜつ)五悪趣(ごあくしゅ)
〈 書き下し文 〉
信を獲(う)れば見て敬い大きに慶喜(きょうき)せん、
すなわち横(よこさま)に五悪趣(ごあくしゅ)を超截(ちょうぜつ)す。
↓
(平成二十九年八月十日 正信偈のつどい で ご紹介)
親鸞聖人は、「得」と「獲」を 同じような意味で使っておられる場合もあるが、使い分けておられる場合もある
↓
「得」→「未来に必ず える」という場合に使われる。(浄土や涅槃など)
だが、「そのうちに」ということではない。ここで とは いえないが、すでに ここに 働きかけてきている。
「獲」→ 現在 得た。信心の場合は、必ず「獲」を使う。
↓
「信(しん)を獲(う)れば」→信心をいただけば
-2-
「大きに慶喜(きょうき)せん」
↓
「慶」‐「他の教え」と比べて、「私が出会った教え」が、まことにすばらしい教えであった とよろこぶ
↓
自分のいただいた教えが、他の教えではなく、思いもかけず、すばらしい浄土真宗に出会わせていただいた、という大きな よろこび
↓
信を獲(う)れば見て敬い大きに慶喜せん、
↓「順序」が表されている
〈 意訳 〉
私が、阿弥陀様の「あなたを、どうしても 導き、救いたい」という ご本願に包まれていることに気づかされ、(信(しん)を獲(う)れば)
ますます はっきりと、何もかも を 自分本位に考えて、どこまでも思い上がる、何とも情けなく、愚かで、哀れな 自分の姿 が見えてくる。(見て)
そして、「このような私 を 救うための信心」が すでに用意されている という 事実 を、敬いの心 で いただき、(敬(うやま)い)
「これは、他ではない「浄土真宗」という すばらしい教えに出会うことができたから、いただけたことなのだ!」と、本当に 大きな よろこび が あふれてくる。(大(おお)きに慶喜(きょうき)せん)
ー3-
↓
親鸞聖人の信仰体験から語られているお言葉。
親鸞聖人は、そのような順序で信心をいただかれた。
↓
法然上人との出会いの意義(真宗高田派本山 専修寺 ホームページより)
人生は出遇いです。いつ、どこで、どんなことで、誰に出遇うか。そのことがお互いの生涯を決めていきます。
親鸞聖人は、二十年という長い比叡山での修行に行き詰まって、その解決を聖徳太子のご示現(じげん)に仰(あお)ごうと、京都にある太子建立の六角堂に百日の参籠(さんろう)をされたのでした。
そして、太子の夢告(むこく)に導かれて、東山(ひがしやま)吉水(よしみず)の草庵(そうあん)に法然上人を訪ねられました。草庵には、上人の教えを聞こうと毎日 庶民が群参(ぐんさん)していました。聖人も その一人となって百日間も聴聞され、ようやく自分の救われる教えを思い出されたのでした。
聖人は、この出遇いを『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)(総序(そうじょ))』に
「遇(あ)い難(がた)くして、遇(あ)うことができました。聞き難くして、真宗の教えを聞くことができました」
と感佩(かんぱい)(心から感謝して忘れない)されています。
また『浄土高僧和讃(源空讃(さん)第四首)』には
「本師(ほんじ)源空(げんくう)いまさずば このたびむなしくすぎなまし」
もし法然(源空)上人との出遇いがなかったら、せっかくこの世に人間として 生まれてきても、救われることなく無駄な人生で終わってしまうところで した。
と述懐(じゅっかい)しておられます。
聖人をして、ここまで表現された師 法然上人との出遇の意義を私たちは、 どう理解したらよいのでしょうか。
それは、我が国(片州(へんしゅう)濁世(じょくせ))に、 阿弥陀如来の他力念仏の教え =真宗= がついに開顕(かいけん)したからなのです。
-4-
↓
第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん) 成就の文(もん)「信心歓喜(かんぎ)」の内容
この よろこび が起こると、深刻な苦悩の状態を一挙に超えていける!
↓
すなわち横(よこさま)に五悪趣(ごあくしゅ)を超截(ちょうぜつ)す。
「すなわち(即)」‐即座に。たちどころに
↓
本願について「大きに慶喜」するならば、「たちどころに」「五悪趣を超截す」る。
↓
念仏を心から喜ぶならば、たちどころに、一切の迷い、一切の悩みから解き放たれる。
念仏を喜ぶことが、そのまま、悩みの解決になる。
↓ 逆に言うと、
悩みが解決しないのは、念仏を喜べないから。
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「横(よこさま)」
親鸞聖人は、お釈迦様が説かれた お経(五千四十八巻 現存している)を、形式・思想内容などによって分類している。(二双四重(にそうしじゅう))
長い修行の末に 次第に悟りに近づく教え を「漸教(ぜんきょう)(出(しゅつ))」、
ただちに深い悟りの境地に達する教え を「頓教(とんぎょう)(超(ちょう))」に分け、
そこから さらに「聖道門(しょうどうもん)(竪(しゅ)・自力)」と「浄土門(じょうどもん)(横(おう)・他力)」とに分けて、表した。
↓
「竹の節の中の虫」の例え
竹の外側は硬いので、普通は、内側の柔らかい節を上に食い破って行き、外を目指す
「堅超(しゅちょう)」→ 呪文の力によって 一気に 上に たどり着く(ただし、呪文を唱える修行が必要)→ 真言宗(即身成仏)
「横超(おうちょう)」→ 仏に外側の硬い所を破っていただき、外へ出る → 浄土真宗
「堅出(しゅしゅつ)」→ 一歩、一歩、上を目指して行く → 天台宗
「横出(おうしゅつ)」→ 外側の硬い所を破って、外に出ようとする (仏に助けてもらうためには、「戒」や「読経」などの行 を 修める必要を説く)→ 浄土宗
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↓
親鸞聖人は、お釈迦様が明らかにされた仏教には、四種類の教えがある、とされた。
・竪(たて)に出て 悟りに至る「堅出(しゅしゅつ)」
・横(よこ)に出て 悟りに至る「横出(おうしゅつ)」
・ただちに竪(たて)に超えて 悟りに至る「堅超(しゅちょう)」
・ただちに横(よこ)に超えて 悟りに至る「横超(おうちょう)」
浄土真宗は「ただちに横(よこ)に超えて 悟りに至る」ので、
「すなわち横(よこさま)に五悪趣(ごあくしゅ)を超截(ちょうぜつ)す」。
↓
浄土真宗は、いきなり竹の外側に、穴が開いてくる。
私達の常識では説明のつかない 不思議な お力、
「阿弥陀様の大慈悲の本願の お力」によって、
一切の順序や段階を飛び越えて、凡夫 が 凡夫のまま で、仏に成る。
↓
本来は、仏でない者を「凡夫」といい、凡夫でない お方 を「仏」という。
それなのに、凡夫 が 浄土に往生して、仏に成る。
浄土往生が ふさわしくない者、浄土に往生できるはずのない者が、往生する。
↓
『歎異抄(たんにしょう)』第二章 唯円(ゆいえん)(親鸞聖人の お弟子)の聞き書き
いずれの行(ぎょう)もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。
どのような行も満足に修めることのできない 私には、どうしても地獄以外に住み家はないからです。
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↓
「阿弥陀様の本願のお力、他力」に お任せする以外に、私達は 仏に成ることができない。
阿弥陀様の本願のお力 に お任せするときに、「横超(おうちょう)」ということが起こる。
「他力」によって、硬い殻を破ってもらうこと以外に、私達は仏に成る方法がない。
↓
「他力」によって、初めて、断ち切れない娑婆が「夢・心の迷い」だと知らされる。
娑婆に描いていた妄想が破られていく。
↓
娑婆に未練をもっていて、「往生」ということはない。
↓「娑婆」とは
「五悪趣(ごあくしゅ)(五道)」→「阿修羅(あしゅら)」を加えると、六趣(しゅ)(六道)とも いう
↓
六つの迷いの状態
「地(じ)獄(ごく)」自分の行いの結果 として、経験しなければならなくなる耐え難い苦しみ。「誰とも心を通わすことができない孤独」
「餓(が)鬼(き)」満足ができない貪欲(とんよく)のために、無我夢中で貪(むさぼ)り続け、自分自身が苦しまなければならなくなる状態。
「畜(ちく)生(しょう)」道理に対して無知であるために、互いに争い合い、殺し合って、結果として自分が苦しむことになる。また、考えることを止めて、周りに流されている生き方。
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「阿修羅(あしゅら)」古代のインド では、戦闘をつかさどる鬼神
↓
自らが起こす怒り・憎しみの心に支配され、かえって自分が傷つき苦しむことになる。
「人(にん)」人間らしい感情に支配されて、思い悩む。また、六道の中で、唯一 仏法の教えに耳を傾けられる時。
「天(てん)」自分の思い通りになり、有頂天になっている状態。
↓
仏教では「地獄に落ちる」「畜生に生まれる」と いわれてきたが、それは、「悪を行わず、善いことをするように」という教訓的・警告的な意味で いわれていた
↓
「死後に生まれ変わる」という考え方 は、一つ一つの生命の その内側 には、変わることのない「我(が)」というものが存在するというところから出てきている。
お釈迦様は、そのような「我」というものは存在しない「無我(むが)」であることを説かれた。
↓
日常生活の他に、地獄のような場所などは実在しないことになる。
「お釈迦様の教え」からすれば、この六道は いずれも、私達が現在 入れ替わり立ち替わり、経験しなければならない苦悩の状態を教えたもの。
私達は、いろいろな ご縁 の中で、この「六道の心」を ぐるぐる回っている。
そのことを「生死(じょうじ)」「生死流転(しょうじるてん)」「流転輪廻(るてんりんね)」とも いう。
↓
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「超截(ちょうぜつ)」‐それを飛び越えて、束縛が断ち切られる
↓
私達は、娑婆 に しがみついているから、かえって苦しみ、生きにくくなっている。
娑婆に対する未練 が破れていく、娑婆を断ち切る、娑婆を超える、娑婆を去って行く。
娑婆の暮らし が、どんなに 確かなもの に見えても、
「娑婆は移り変わる迷いの世界だ、執着すべきものではない」
という自覚(悟り)をいただき、娑婆を楽々と生きていく。
「娑婆も大事、浄土にも往生したい」と、「両方」というわけに いかない。
↓
阿弥陀様のご本願に包まれていることがわかれば、私の周りで起こる すべての出来事が「それが私の業である」と、引き受けていけるようになる。
「よきこと も あしきこと も、業報(ごうほう)にさしまかせ」るようにしていただいていける。それが、仏様の御恩。
私の迷いの心を破ってくださり、明るく、どういうことをも引き受けていけるような身 にさせていただいた。
それが、心にお浄土の世界が開けてくる「往生」ということ。(即得往生)
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今日のお言葉
第二段 依経段 釈迦章 五つの信心の利益
4、横超(おうちょう)の利益(他力によって娑婆(しゃば)を超えていく)
〈 原文 〉
獲(ぎゃく)信(しん)見(けん)敬(きょう)大(だい)慶喜(きょうき) 即(そく)横(おう)超截(ちょうぜつ)五悪趣(ごあくしゅ)
〈 書き下し文 〉
信(しん)を獲(う)れば 見て 敬(うやま)い 大(おお)きに慶喜(きょうき)せん、すなわち横(よこさま)に五悪趣(ごあくしゅ)を超截(ちょうぜつ)す。
〈 意訳 〉
私が、阿弥陀様の「あなたを、どうしても 導き、救いたい」という ご本願に包まれていることに気づかされ、ますます はっきりと、何もかも を 自分本位に考えて、どこまでも思い上がる、何とも情けなく、愚かで、哀れな 自分の姿 が見えてくる。
そして、
「このような私 を 救うための信心」が すでに用意されている という 事実 を、敬いの心 で いただき、
「これは、他ではない「浄土真宗」という すばらしい教えに出会うことができたから、いただけたことなのだ!」と、
本当に 大きな よろこび が あふれてくる。
この よろこび が起こると、たちどころに、心にお浄土の世界が開けて(往生)、娑婆の一切の迷い・苦しみから解き放たれ、明るく、どういうことをも引き受けていける身 にさせていただける。
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