19 弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯

↑ 練習した音源(約25分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容を印刷して配っているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


今日のお言葉

〈 原文 〉
弥陀仏本願念仏 邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)悪(あく)衆生 信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)甚(じん)以(に)難(なん) 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)

〈 書き下し文 〉
弥陀仏の本願念仏は、邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)の悪(あく)衆生、信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。
難(なん)の中(なか)の難(なん)、これに過(す)ぎたるはなし。

 ↓
改めて、阿弥陀様 の ご本願 を 振り返り、自らを省(かえり)みて、深い懺悔(さんげ)と、得難(えがた)い信心を獲(え)た喜び とをもって、「第二段 依経段(いきょうだん)」と 次の「第三段 依釈段(いしゃくだん)」を結ぶ 

 ↓
第二段 依経段(えきょうだん)「弥陀章」法蔵菩薩因位時 ~ 必至滅度願成就
                「釈迦章」如来所以興出世 ~ 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)
『大無量寿経』に依り、
・「弥陀章」で 現に今 私達に働きかけ続けてくださっている 阿弥陀様 と阿弥陀様の ご本願 の いわれ を 述べ、
・「釈迦章」で 阿弥陀様 の ご本願 を 私達に伝えるためにわざわざ この世に お出ましくださった お釈迦様 を 讃え、その お釈迦様の教え を いただく「私達の心構え」が述べられている。

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第二段 依経段「弥陀章」法蔵菩薩因位時 ~ 必至滅度願成就

〈 意訳 〉  
 阿弥陀様が、法蔵菩薩という修行者になられる前、一国の国王であられた時、世自在王仏の「教え」に、深く感動し、国も、財宝や妻子も、すべてを捨て、出家をし、法蔵菩薩という修行者になられたのでした。
そして、法蔵菩薩は、世自在王仏の所へ 行かれて、二百一十億のさまざまな仏方(ほとけがた)の国々の成り立ち と、迷える人々が住む国々の「因‐原因」「縁‐条件」「果‐結果」の善悪を はっきりと見究(みきわ)められ、他の仏を はるかに超え勝(すぐ)れた
「諸仏の浄土に往生できていない すべての人々を救う!」
という「広大 な お誓い」を たてられたのでした。
そして、五劫という果てしなく長い時間、考え を めぐらせて、ついに、
「すべての人々を救うことができるのは、お念仏である」
ということを発見されたのでした。
法蔵菩薩は、世自在王仏に、その「念仏往生を中心とした四十八の願い」を お説きになられると、重ねて、
「この 南無阿弥陀仏 の お念仏 を、すべての人々に伝える!」
と、誓われたのでした。
阿弥陀如来は、いつでも(無量光)、どこでも(無辺光)、どんな出来事の中でも(無碍光)、私達を照らし続けてくださっている。
・『無対光』という光は、阿弥陀様の優れた智慧から放(はな)たれる光であり、この「智慧の光」を いただけば、とても菩薩方とは 比べることのできないような「優れた智慧」が、私達に開かれてくる。
・『炎王光』という光は、諸仏の光が届かない「地獄・餓鬼・畜生の世界」を温かく照らしてくださっている。

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・『清浄光』という光は、人間 を いやしく、汚くする「貪りの心」を照らし出し、「欲を起こす必要がなかった」「すべて が いただきもの であった」という「他力の中」を生きていることを知らせてくださる。
・『歓喜光』という光は、死を恐れて生活する私達を「浄土に生まれて行く者へ」とお育てくださる。
・『智慧光』という光は、「愚かさ」を照らし出し、「真実」を私達に お届けくださる。
・『不断光』という光によって、絶え間なく 私の背中 を 押してくださり、私 に 仏道 を 歩ませてくださっている。
・『難思光』という光によって、「計(はか)らいの心」から離れさせてくださり、『無称光』という光によって、「言葉 の とらわれ」から離れさせてくださる。
このような「他と比べるものがない、太陽や月をも超えた、この世 で 最も大きい光(超日月光)」を 阿弥陀様 は 放ってくださっている。
それらの光が、どんなに細かい所でも、無数の世界を どこまででも、照らし尽(つく)し、一切の衆生は、この光の輝き を 常に 身に受けているのです。
本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、阿弥陀様によって選ばれた 浄土へ往生するための正しい行い です。
それは、「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」(第十八願)が、もとになって、証明されていることです。
私達が、浄土往生を遂(と)げさせていただき、仏に成ることができるのは、阿弥陀様が「必至滅度(ひっしめつど)の願」(第十一願)を成し遂(と)げられているからなのです。

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「釈迦章」如来所以興出世 ~ 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)

〈 意訳 〉  
 「五濁悪世(ごじょくあくせ)」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
だからこそ 五濁(ごじょく)の悪時(あくじ)に生きる私達 は、
その お釈迦様の ご恩 に 報(むく)いるためにも、
『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願」の教え を、信じるべきである。 
『大無量寿経』に示されている お釈迦様 の お言葉 に従(したが)い、阿弥陀様の願い に 気づかされ、信心を賜(たまわ)り、暗(くら)い我執(がしゅう)から はじめて 逃(のが)れて、「本当に求めるべきもの」が はっきりした ならば、
阿弥陀様の眼(まなこ)を賜(たまわ)り、煩悩 を 生きる力 に 転(てん)じて、煩悩の支配を離れた「涅槃」の境地に いたることができる。(大乗(だいじょう)の利益(りやく))
煩悩に まみれて迷っている「凡夫」も、
煩悩を無くして清らかになられた「聖者」も、
「五逆の罪(私を お育てくださるもの に背(そむ)く(逆(さか)らう)重い罪)」を犯(おか)す者も、
「謗法(ほうぼう)(仏の教えを謗(そし)る 救われるはずがない者)」も、
真実に背を向ける「自分の計らい」「自分の思い」に こだわり続ける心 を捨てて、大きな「阿弥陀様の願い」の中に生かされている「本来の自分」に立ち戻れば、いろいろな川の水が、海に入って 一つの味 になるように、どのような者でも、「仏様(煩悩の支配を離れた境地)」に成(な)ることができる。(一乗(いちじょう)の利益(りやく))

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 お念仏を称える人の「心」に、「仏の光」が宿(やど)る。
その「仏の光」は、「得生(とくしょう)の喜び(必ず浄土に往生することができる)」と、
「願生(がんしょう)の使命(多くの人々と共に浄土に生まれたい)」を照らし、護ってくださる。
また、心に宿(やど)る「仏の光」は、その人の中で太陽のように輝き、煩悩の根っこにある無明の闇を破ってくださる。
しかし、「煩悩を起こす身」を生きていることは、変わらないため、貪欲(とんよく)と瞋恚(しんに)は晴(は)れることなく、雲のように、その人の心を覆(おお)う。
しかし、煩悩の根っこ が 断ち切られているので、煩悩に振り回されることは無くなり、「煩悩が起こる」ことも、そのすべてが、仏の世界を心に開く「ご縁」となっていく。(転(てん)悪(まく)成(じょう)徳(とく)(悪を転(てん)じて徳と成(な)す))
その人は、「如来と等しい」と ほめたたえられ、身も心も和(やわ)らいで、「御(おん)同朋(どうぼう)・御(おん)同行(どうぎょう)」の世界を歩んでいく。(心光常護(しんこうしょうご)の益(やく))
私が、阿弥陀様の「あなたを、どうしても 導き、救いたい」という ご本願に包まれていることに気づかされ、ますます はっきりと、何もかも を 自分本位に考えて、どこまでも思い上がっている、何とも情けなく、愚(おろ)かで、哀れな 自分の姿 が見えてくる。
そして、「このような私 を 救うための信心」が すでに用意されている という 事実 を、敬(うやま)いの心 で いただき、
「これは、他ではない「浄土真宗」という すばらしい教えに出会うことができたから、いただけたことなのだ!」
と、本当に 大きな よろこび が あふれてくる。

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この よろこび が起こると、たちどころに、心にお浄土の世界が開けて(往生)、娑婆の一切の迷い・苦しみから解(と)き放(はな)たれ、明るく、どういうことをも引き受けていける身 にさせていただける。(横超(おうちょう)の利益(りやく))
「自分の心掛(こころが)け」では どうすることもできない
縁によって動かされている弱い「凡夫」が、阿弥陀様の本願に込められた「命の源へ帰れ」という呼びかけ を、疑うことなく、素直に受け止め、向き合うならば、
お釈迦様は、「その人」のことを
「広く偉大な、勝(すぐ)れた見解を持つ人である」
「泥の中に咲く 気高く 清らかな 白い蓮華である」と ほめたたえてくださる。(諸仏称讃(しょうさん)の利益(りやく))

 ↓
《 結誡(けっかい) 》
「信心の利益」が お釈迦様の教え を通して 述べられてきて、
改めて、もう一度「弥陀仏の本願念仏は」と、阿弥陀様 の ご本願 を振り返り、自分自身のこと を 省(かえり)みて、
「まことに、ご本願をいただくことのできない私である」という深い懺悔(さんげ)と、その得難(えがた)い信心を獲(え)た喜び とをもって、「依経段」と 次の「依釈段」を結んでいく。

〈 原文 〉
弥陀仏本願念仏 邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)悪(あく)衆生 信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)甚(じん)以(に)難(なん) 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)

〈 書き下し文 〉
弥陀仏の本願念仏は、邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)の悪(あく)衆生、信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。
難(なん)の中(なか)の難(なん)、これに過(す)ぎたるはなし。

 ↓

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『教行信証』行巻(ぎょうのまき)
悪と憍慢(きょうまん)と蔽(へい)と懈怠(けだい)のもの は、もって この法を信ずること難(かた)し。
悪(邪悪な者)、憍慢(きょうまん)(おごり高ぶる者)、
弊(へい)(「私は ダメ人間だ」と、自分に見切りをつけてしまう誤(あやま)った考え を持つ者)、
懈怠(けだい)(「もう どうでもいい」と、しなければならないこと を しない 怠(なま)け者)は、この教え を 信じることが難しい。

 ↓ 正信偈では「悪」を「邪見(じゃけん)」と言い換え、「どのようなことが悪なのか」が はっきりと いわれている

「邪見(じゃけん)」
 人間の世界 や 仏の世界 を知らず、理解できないため、「真実に背(そむ)いた ねじ曲がった考え方」になってしまう。
 「自分の行い が 自分に返ってくる」ことを知らず、身勝手な振る舞いをする。
 暗がり を 手探り で 歩き、(まっすぐに歩けないため)あっちへ突き当り、こっちへ突き当り、生傷(なまきず)が絶(た)えない、そのような人生を送ってしまう。 

  ↓
 一般仏教では、道を求めるため 真先(まっさき)に得なければならないもの は、
 「正見(しょうけん)‐間違った見(けん)(ものの見方や考え方)を、正しいもの に 変えていく」いうことがある。
 「ものの見方や考え方」を正(ただ)すか、正(ただ)さないか、これが求道(きゅうどう)の中心の問題となる。
 「聞法をする」ことによって、邪見(じゃけん)が正見(しょうけん)に変わっていく、
 それが非常に大切なこと。

  ↓

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 『教行信証』化身土巻(けしんどのまき)
 我(わ)が所説(しょせつ)のごとし、一切 悪行(あくぎょう)は 邪見なり。
 一切悪行(あくぎょう)の因、無量なり と いえども、もし 邪見 を 説けば すなわち すでに摂尽(しょうじん)しぬ。
 私(お釈迦様)が これまで説いたように、すべての悪い行い は 誤った考え(邪見)による。
 すべての悪い行いの因(いん) は、数限りなく ある けれども、誤(あやま)った考え(邪見)について説くだけで、すべて その中に収まってしまうのである。

  ↓
 お釈迦様は、それほど「邪見」を 重く見ておられた

「憍慢(きょうまん)」
 「自分は凄い」と思い上がり、誇り、他人を見下(みくだ)して、安心を得ようとする。
 「本来の自分」の限界を知らない、わからない。己知(おのれし)らず。
 自分を知らない人には、一生 満足はない。
 不平不満は、「己知(おのれし)らず」から来る。
 「慢(まん)」は、 自慢をしたり、卑下(ひげ)したりして、両極端になり、自分を見失わせる心。
 「卑慢(ひまん)」‐ 自分を無理に卑下(ひげ)する。劣等感。「ああ、なさけない」

  ↓
 自分を正しく理解するためには、「上へ」も「下へ」も 行き過ぎない。
 これが一番 大切で、健康的で、明るい。
 「本当の自分 が わかる」ということは、かえって 心が明るくなる。
 「憍慢(きょうまん)・卑慢(ひまん)」は、心が暗くなる。

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  ↑
 「信心」は「自分に返る」ということにも なる。
 憍慢(きょうまん)によって、自分を見失っていたのが、自分に返っていく。

 自分に返ったところに、非常に豊かな、明るい世界が開けてくる。

 ↓
「信心を獲(え)られない人」とは、「邪見の悪衆生」「憍慢の悪衆生」と、二つの衆生 が 挙(あ)げられている

 ↓
信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。難(なん)の中(なか)の難(なん)、これに過(す)ぎたるはなし。

〈 言葉の意味 〉

「信楽(しんぎょう)」
 信じて楽(ねが)う(好む)こと。
 阿弥陀様 の ご本願 として「お念仏」が、私達に差し向けられていることを、疑わずに、素直に信じる。
 そして、喜んで お念仏 を 楽(ねが)い(好み)求める。
  ↓
 お念仏を通(とお)して、「邪見であり、憍慢な悪衆生であった」と、思い知らされ、自覚していく。
  ↓
 「信楽(しんぎょう)」とは、「邪見であり憍慢な悪衆生」という内容を含(ふく)んだ お言葉。

「受持(じゅじ)」
  受けとめて保(たも)つこと。
 施(ほどこ)されている お念仏 を しっかり と いただき続ける。

 ↓

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邪見と憍慢(きょうまん)に ゆがめられて、私達は救い難(がた)い 愚(おろ)かな「悪衆生(あくしゅじょう)」と なってしまっている。
道理に背(そむ)いた「邪見」に とらわれ、広い世界を知ろうともせずに、狭い世界の中を生き、「憍慢(きょうまん)」に とらわれて、思い上がって、阿弥陀様よりも、「自分の思い」を信用して、大切にし、「本当の自分」も わからずに、心が暗くなっている。
阿弥陀様は、「その深刻な 悩み 苦しみ から 救い出したい」と願って、「お念仏 南無阿弥陀仏」を贈り届けてくださっているが、私達「悪衆生」には、阿弥陀様 の ご本願 として与えられている「お念仏」を、「素直に 喜び、受け取り、保ち続ける」ということは、困難なこと の中でも、最も困難なこと であって、それ以上の困難はない、と いわれている。
私達は、阿弥陀様の願い にも 背(せ)を向(む)け続けてしまっている「罪悪(ざいあく)深重(じんじゅう)の凡夫」となってしまっている。

 ↓
私達は「目先のこと」「自分の思い」ばかりを大切にして、お釈迦様が「今、現(げん)に、あなたは 悩み 苦しんでいる」と教えてくださっていても、なんとなく 頷(うなず)くことはできるが、すぐに そのことから眼をそらしてしまい、あまり 強い実感 として思うことができない。浅い所で、「自分の幸せ」を追い求めて、思い通りにならないので「つらい」と言って、「これでいいのだ」「しかたがない」と、ごまかしながら生活をしている。

 ↓

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「阿弥陀様 の ご本願 を、衆生は 簡単に 信じることができない」ということは、「阿弥陀様 の お心 は、衆生には受け止めきれないほどの深く広い お心 である」ということも表している。

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「私達には、お念仏を信じることは、まったく不可能だ」ということになる

 ↓
「依経段(えきょうだん)」の後(あと)に続く「依釈段(えしゃくだん)」に、このような私達 だからこそ、「自力」ではない、阿弥陀様 の ご本願 による「他力の信心」が差し向けられているという「七高僧の教え」が述べられていく

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「邪見であり、憍慢な悪衆生であった」ということは、自分では、とても気づくことができない。まったく 阿弥陀様のご恩 に より、お念仏 が 私達に差し向けられていること(回向)によって、「いただく資格もない この私」が、初めて そのことを自覚することができる。
それで「難の中の難、これに過ぎたるはなし」とも いわれている。

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『親鸞聖人御消息集(ごしょうそくしゅう)(広本(こうほん))一』
はじめて 阿弥陀様 の ご本願 を聞いて、自(みずか)らの 悪い行い や 悪い心 を思い知り、「このような 私では とても往生することなど できないであろう」と いう人 にこそ、煩悩を そなえた身 で あるから、阿弥陀様は 私達の心 の 善し 悪し を 問うことなく、間違いなく浄土に迎えてくださるのだ と 説かれるのです。
このように聞いて「阿弥陀様を信じよう」と思う心 が 深くなると、心から この身を厭(いと)い、迷いの世界を生(うま)れ変り 死に変りし続けること をも 悲しんで、深く 阿弥陀様 の ご本願 を 信じ、その名号を進んで称えるようになるのです。
以前は 心にまかせて 悪い心 を 起(おこ)し 悪い行い を していたけれども、今は「そのような心を捨てよう」と お思いになることこそ、この 迷いの世界を厭(いと)う すがた であろう と 思います。
また、浄土往生を疑うことのない信心は、お釈迦様と阿弥陀様のお勧(すす)め によって おこる と示されているので、煩悩を そなえた身 で あっても、真実の信心をいただいたからには、どうして かつての心のまま で いられるでしょうか。

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まとめ

〈 原文 〉
弥陀仏本願念仏 邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)悪(あく)衆生 信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)甚(じん)以(に)難(なん) 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)

〈 書き下し文 〉
弥陀仏の本願念仏は、邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)の悪(あく)衆生、信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。
難(なん)の中(なか)の難(なん)、これに過(す)ぎたるはなし。

〈 意訳 〉
改めて、自分自身のことを省(かえり)みると、
「阿弥陀様 の 深く 広い ご本願 が「お念仏」によって贈り届けられている」
ということを、
「真実を知らずに、身勝手な振(ふ)る舞(ま)いをする「邪見」の この私 が、
「本来の自分」も知らずに思い上がる「憍慢(きょうまん)」な この私 が、
素直に喜び、受け止め、保ち続ける のは、困難なことの中でも、最も困難なこと で、
まったく不可能なこと で ありました。
しかし、不思議なことに、その私 に「お念仏」が届き、心に「他力の信心」が宿(やど)っているのです。

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