↑ 練習した音源(約24分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
正信偈のお心
「南無阿弥陀仏というお念仏が、この世の中に生まれてくる土台となる出来事」と「そのお念仏がこの世の中に広まっていった歴史」に感謝をして、合掌をしている
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一句七文字にまとめられ、後の人達が「お勤め」にも使えるように整えられていた
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蓮如上人が、当時の流行歌で「正信偈」に節をつけ、「真宗門徒の朝夕のお勤め」とされた
正信偈の書かれている所
『教行信証』(親鸞聖人 著) 行巻(ぎょうのまき)の最後
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『教行信証』(正式名称 顕(けん)浄土真実教行証文類(もんるい))← 浄土真宗の根本聖典
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親鸞聖人 当時にあった批判、念仏の禁止を訴えた『興福寺奏状(こうふくじそうじょう)』や、法然上人の書かれた『選択(せんじゃく)本願念仏集』を批判した書『摧(ざい)邪(じゃ)輪(りん)』などに応えて、「お念仏の教え」をまとめられたもの
↓
・「法然上人ならば、きっとこの本の内容をわかってくださるだろう」
という思い
・誰かが 必ずこれを読み解いてくれるだろう という かすかな期待
↓
難しすぎて、いまだに、はっきりと内容がつかめていない
ー1ー
↓
教行信証
↓ 正式名称
顕浄土真実教行証文類
↓ 意味
浄土へ往生するための真実の「教え」「教えに従った修行」「修行によって得られる さとり」がある。
それをあきらかにしている「お経」「そのお経を解釈した高僧の書物」から文章を集めた
↓ 親鸞聖人の引用の区別の仕方
『言(い)わく』― お経(お釈迦さま)のお言葉
『曰(い)わく』― 龍樹菩薩(七高僧 第一)・天親菩薩(七高僧 第二)のお言葉(菩薩のお言葉)
(例外 曇鸞大師(七高僧 第三)の『浄土論註』)
『云(い)わく』― 曇鸞大師(七高僧 第三)から源空(法然)上人(七高僧 第七)
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ー2ー
正信偈の前の文章の「原文」(『教行信証』行巻)
おおよそ誓願(せいがん)について、真実の行(ぎょう)信(しん)あり、また方便の行信あり。その真実の行願(ぎょうがん)は、諸仏称名(しょうみょう)の願なり。その真実の信願(しんがん)は、至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願なり。これすなわち選択(せんじゃく)本願の行信なり。
その機は、すなわち一切善悪大小凡愚(ぼんぐ)なり。
往生は、すなわち難思議(なんしぎ)往生なり。仏土(ぶつど)は、すなわち報仏(ほうぶつ)報土(ほうど)なり。
これすなわち誓願不可思議、一実(いちじつ)真如海(しんにょかい)なり。『大無量寿経』の宗致(しゅうち)、
他力真宗の正意(しょうい)なり。
ここをもって知恩(ちおん)報徳(ほうとく)のために宗師(しゅうし)(曇鸞(どんらん))の釈(しゃく)を披(ひら)きたるに言わく、
↑お経(お釈迦さま)のお言葉に使われる『言わく』
それ菩薩は仏に帰(き)す。孝子(こうし)の父母(ぶも)に帰し、忠臣の君后(くんこう)に帰して、動静(どうじょう)己(おのれ)にあらず、出没(しゅつもつ)必ず由(ゆえ)あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理(り)宜(よろ)しくまず啓(けい)すべし。また所願(しょがん)軽(かる)からず、もし如来、威神(いじん)を加(か)したまわずは将(まさ)に何をもってか達せんとする。
神力(じんりき)を乞(こっ)加(か)す、このゆえに仰(あお)いで告(つ)ぐ、と。已上
ー3ー
しかれば大聖(だいしょう)の真言(しんごん)に帰し、大祖(だいそ)の解釈(げしゃく)に閲(えっ)して、仏恩(ぶっとん)の深遠(じんのん)なるを信知(しんち)して、正信念仏偈を作りて曰わく、
↑龍樹菩薩・天親菩薩のお言葉に使われる『曰わく』
余談
「正信偈」の正式名称は、「正信念仏偈」だが、親鸞聖人ご自身が『尊号(そんごう)真像(しんぞう)銘文(めいもん)』の中で、「和朝(わちょう)愚禿釈(ぐとくしゃく)の親鸞が「正信偈」の文(もん)」といっている所があり、私達は「正信偈」と呼んでいる。
↓ 意訳
正信偈の前の文章の意訳(『教行信証』行巻)
真実の浄土に生まれる行(第十七願)と信(第十八願)について書かれている
↓
第十七願・第十八願が一つのなった「復元の文」(善導大師)
もし、私が仏と成る時、あらゆる世界の衆生が私の名号を称えること、わずか十声(とこえ)であっても、もし、真実の本願の世界に往生しないなら、私は正覚(さとり)をひらくまい
↓
ー4ー
この願いをかけられているのは、善・悪、大乗・小乗を問わず、愚かな凡夫として生きるすべての者である。
その者達の往生は、難思議(私達の思いを超えた)往生である。
往生する世界は、真実の本願の世界である。
これは、誓願の不可思議な力によって開かれた唯一の真実の本願の世界であって、『大無量寿経』に説かれた教えの根源、他力真宗の内容である。
ここに、如来の恩を知り、その徳に報(こた)えるために、曇鸞大師の書をひもとくと、次のように言われおり、このお言葉は、「お釈迦さまのお言葉」としていただくべきである。
↓ 菩薩になる道を説く
(仏教は、菩薩になるための道を説く。
大乗仏教では、智慧と慈悲の実践者を「菩薩」という。)
そもそも、菩薩になるためには、阿弥陀様にしたがわなければならない。それはちょうど、親孝行な子供が父母(ふぼ)にしたがい、忠義な家来が主君にしたがって、自分勝手な振舞いをせず、必ず 父母や主君の考えによって行われるようなものである。
菩薩は、阿弥陀様のすべての恩を知り、その徳に報いている。
だから、まず
「帰命 無量寿如来」
(命の源 を知らせるために現れてくださった阿弥陀様 のお導きによって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。)
「南無 不可思議光」
(いろいろな形となって、私達を支え、働きかけてくださっている阿弥陀様の智慧(光)をいただき、本来の命の姿に戻ります。)
そのように申し上げるのである。
ー5ー
衆生救済(きゅうさい)の願いは、軽々しいことではない。
如来の尊い力がなければ、どうして「正信念仏偈」を申し上げることができようか。
だから、私は、如来の強いお力をいただかんことを乞(こ)い、仏に告げるのである、と。
それゆえに、阿弥陀様のご恩は、はかりしれないほど深いことを知り、その阿弥陀様に身をゆだねる菩薩によって、「正信念仏偈」が作られ、申し上げられているのである。
その「正信念仏偈」とは、お釈迦さまの真実のお言葉に従い、大いなる祖師方の説きあかされた言葉を一つ一つ確かめている偈(うた)である。
↓
まとめ「正信偈」とは
親鸞聖人にとって「正信偈」は、阿弥陀様に身をゆだねる菩薩が作られた偈(うた)。
正信偈は、親鸞聖人が記されたのだが、親鸞聖人の「個人的な感情」は、一切 含まれていない。
親鸞聖人のお心は、「菩薩が阿弥陀様をたたえる偈(うた)」として、当然 昔からあったであろうものを、「正信念仏偈」と称して、文字にして記されただけ、そのようなお心。
ー6ー
↓ これまでは、
「正信偈は、親鸞聖人がお念仏の教えに出会われた感動の歌です。
正信偈には、その親鸞聖人の感動が、ぎっしりと詰め込まれています。」
と、いわれてきた。
↓ 理由
・正信偈の前の文章の『いわく』という漢字の使い分けに、 あまり注目されなかった。
・正信偈の偈前(げぜん)の文を、
「しかれば大聖(だいしょう)の真言(しんごん)に帰し、大祖(だいそ)の解釈(げしゃく)に閲(えっ)して、仏恩(ぶっとん)の深遠(じんのん)なるを信知(しんち)して、正信念仏偈を作りて曰わく、」
として、その前の文章と読んでこなかった。
↓ 「偈前(げぜん)の文」現代語訳
それゆえに、
お釈迦さまの真実のお言葉に従い、
(「法蔵菩薩因位時」から「難中之難無過斯」)
大いなる祖師方の説きあかされた言葉を一つ一つ確かめて、
(「印度西天之論家」から最後まで)
阿弥陀様のご恩の深く、はかりしれないことを知り、信じさせていただき、
(「帰命無量寿如来 南無不可思議光」)
正信念仏偈を作って、申し上げます。
ー7ー