21 釈迦如来楞伽山~証歓喜地生安楽

↑ 練習した音源(約24分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


第三段 依釈段(いしゃくだん) 龍樹章(りゅうじゅしょう)

〈 原文 〉
釈迦如来(しゃかにょらい)楞伽山(りょうがせん)  為(い)衆(しゅう)告命(ごうみょう)南天竺(なんてんじく) 龍樹大士(りゅうじゅだいじ)出(しゅッ)於(と)世(せい) 悉(しつ)能(のう)摧破(ざいは)有無(うむ)見(けん) 宣説(せんぜつ)大乗無上法  証(しょう)歓喜地(かんぎじ)生(しょう)安楽(あんらく)

〈 書き下し文 〉
釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、衆(しゅう)のために告命(ごうみょう)したまわく、 
南天竺(なんてんじく)に、龍樹大士(りゅうじゅだいじ) 世に出(い)でて、ことごとく、よく有無(うむ)の見(けん)を摧破(ざいは)せん。 
大乗(だいじょう)無上(むじょう)の法を宣説(せんぜつ)し、歓喜地(かんぎじ)を証(しょう)して、安楽(あんらく)に生(しょう)ぜん、と。

〈 言葉の意味 〉
「釈迦如来」‐ お釈迦様のこと。真実に目覚められた方(仏)。
   ↓
 「如来」‐ 真実(如(にょ))から来られた方。
   ↓
  真実に目覚められた方(仏)が、私達に真実を伝えに来られた(如来)。
  (真実に目覚めた方(仏)、真実を伝えようとした方(如来)との 違い)

「楞伽山(りょうがせん)」‐ お釈迦様は、「楞伽山」という山の中で『楞伽経(りょうがきょう)』を説かれた。

「衆(しゅう)」‐ 聴衆。

「告命(ごうみょう)」‐ 呼びかけ告(つ)げること。(ここでは、「予告」をされている)

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 ↓
釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、衆(しゅう)のために告命(ごうみょう)したまわく、
〈 意訳 〉
お釈迦様は、楞伽山という山の中で、聴衆に、予告をされた。

〈 言葉の意味 〉
「南天竺(なんてんじく)」‐ 南インド

「龍樹大士(りゅうじゅだいじ)」‐ インドの高僧(一五〇年~二五〇年?)。
  浄土真宗だけではなく、「大乗仏教のすべての宗派の祖師」といわれ、著書で述べられている教学の範囲が とても広い。

「大士(だいじ)」は、「菩薩」のこと。
  昔のインドの言葉「ボーディ・サットヴァ・マハー・サットヴァ」が、
  中国で「菩提薩埵摩訶薩埵(ぼだいさったまかさった)」と音写され、
  「菩提(ぼだい)」は「仏の覚り」、「薩埵(さった)」は「生きもの・人」、
  二つを合わせた「菩提薩埵(ぼだいさった)」は「仏の覚りを求める人」、これを短く省略して「菩薩」という言葉になった。
  「摩訶(まか)」は「偉大」、「薩埵(さった)」は「生きもの・人」、二つを合わせた
  「摩訶薩埵(まかさった)」は「偉大な人」→「大士(だいじ)」(中国の言葉に当てはめると)
  「菩薩」も「大士」も、「お釈迦様の教え を 顕(あきら)かにしようとしておられる偉大な人」ということで、
同じ意味になる。

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「有無(うむ)の見(けん)」
 「有(う)の見(けん)」は、世界 や すべての存在は、永久不変で、人の死後も 我(が) は消滅しない とする見方。物事に執着する、誤った考え(常見(じょうけん))。
 「無(む)の見(けん)」は、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、二度と生まれることがない とする見方。この世に存在する すべてのもの に価値や意味を認めない考え(断見(だんけん))。
  ↓
 お釈迦様が説かれた「縁起の法則」は、
 「すべてのものは、お互い に 関係しあって成り立っている。しかも、その関係は、ご縁(条件)によって、どのようにも変化する」ということ。
 私達は、「浅はかな知識」に頼り、「限られた経験」に基づいて、「自分の欲(ほ)しいまま」に、「自分が思いたいよう」に、「自分本位」に物事を判断してしまう。
 そして、それが あたかも「事実」であるかのように錯覚してしまう。
 それは「事実」ではない。
 ↓
 龍樹菩薩は、
 「そのように自分勝手な「思い」や「こだわり」が、自分の迷いを深めるばかりか、周りの人をも混乱させて苦しませることになる。まずは、そこから離れる必要がある。」
 と、教えてくださった。

「摧破(ざいは)」‐ 砕(くだ)き破ること

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 ↓
釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、衆(しゅう)のために告命(ごうみょう)したまわく、 
南天竺(なんてんじく)に、龍樹大士(りゅうじゅだいじ) 世に出(い)でて、ことごとく、よく有無(うむ)の見(けん)を摧破(ざいは)せん。 
〈 意訳 〉
お釈迦様は、楞伽山という山の中で、聴衆に、予告をされました。
「後の世、インドの南の方に、龍樹という名の菩薩が誕生するであろう。
 そして、人々が こだわっている「物事に執着(しゅうじゃく)する誤った考え」や「すべてのもの に 価値や意味を認めない考え」などを、ことごとく砕き破り、真実を伝えるであろう。・・」

〈 言葉の意味 〉
「大乗(だいじょう)」‐ 大きな乗り物。多くの人が、誰もが、迷いの状態から、迷いのなくなった状態 に 導いて行ける教え。
  ↓
 「小乗(しょうじょう)」‐「大乗」という考え方を主張していない 伝統的な仏教の考え方 をおとしめた言い方。
  ↓
 お釈迦様は、
 「人間は、さまざまな苦しみ 悩み を 経験しなければならない。その苦悩が、なぜ起こるのか。
  それは、真実について無知であり、欲望のために、こだわるべきでない物事 に こだわる からだ。苦悩から逃れるためには、その原因である さまざまな煩悩から離れなければならない」と、語られた。
 この教えを忠実に受け止めて、「煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地」を目指し、何百年間も、世代を越えて、命懸けの修行に励んで、懸命な努力が積み重ねられていった。

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  ↓
 お釈迦様が亡くなられてから約二百年後に、「大乗」という考え方が起こった。
 お釈迦様は、三五歳で悟りを開かれ、八〇歳で お亡くなりになるまで、四五年間、休む間もなく、人々に「教え」を説き続けられた。それは、
 「すべての人が、真実に出会い、与えられた命を尽くしていってほしい」と、願われたからでした。
 この「お釈迦様の お心」に沿うように、「煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地」を目指すのではなく、
 「どのような人でも乗せていただける大きな乗り物(大乗)として、お釈迦様の教えを今一度 受け止め直していこう」という流れが起ってきた。
 そして、「お釈迦様の教えの深い意味」が、人々に語り継がれ、言い継がれていくことによって、少しずつ「大乗仏教」が顕(あきら)かになっていった。

  ↓ しかし、

 阿羅漢(あらかん)を目指す伝統仏教を「大乗 に対して「小乗」と、おとしめたような言い方を
するのは、「すべての人を救いたい」と願われた お釈迦様のお心 に沿わないことになる。
 小乗仏教は、今は「上座部(じょうざぶ)仏教」という。
 世界の仏教徒の中で、
 大乗仏教は 三億六千万人(黄色)、
 上座部(じょうざぶ)仏教は 一億五千万人(赤)、
 密教系は 千八百万人(オレンジ)。

 参照 ウィキペディアフリー百科事典「上座部仏教」の表
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99

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「無上(むじょう)の法」‐ この上なく 優れた法。
「宣説(せんぜつ)」‐ 述べて説き明かすこと。

 ↓
大乗(だいじょう)無上(むじょう)の法を宣説(せんぜつ)し、
〈 意味 〉
龍樹菩薩は、その「大乗無上の法」、
「多くの人が、誰もが、真実に出会い救われていく この上なく優れた教え」を、人々に説き明してくださった。

 ↓ ところで、

経典(お経)は、「お釈迦様の法話」を文字として残したもの。
しかし、お釈迦様が、
「私の法話 を、文字にして書き残すことをしては いけない。教えの言葉 を、文字にして書き写すと、教えの言葉 が、自分から離れ、敬いの心を失う。」
そのようなことを話されたため、当初は、口伝によって、暗記して体に覚えさせることによって、「お釈迦様の法話」が伝えてきた。
(現存する 文字で書かれた最古の「上座部(じょうざぶ)仏教の経典」は、一世紀のもの。お釈迦様 が お亡くなりになられてから約五百年は経っている。)
大乗仏教は、お釈迦様 が お亡くなりになられてから約二百年後に起こってくる。
(現存する 文字で書かれた最古の「大乗仏教の経典」は、二~三世紀のもの。お釈迦様 が お亡くなりになられてから約六百年は経っている。)
 ↓

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おそらく「お釈迦様が「楞伽山(りょうがせん)」という山の中で説かれた『楞伽経(りょうがきょう)』という大乗経典」は、龍樹菩薩が「教えを説かれた頃」に、完成した お経では?
いくら お釈迦様 と いえども、
「後の世、インドの南の方に、龍樹という名の菩薩が誕生するであろう」と、
「七百年も後のことを、名前まで見通して予言される」というのは、少し無理がある。
当時の人々が、「龍樹菩薩こそ、お釈迦様の後継者だ」と考えたのでは?

 ↓
『入楞伽経(にゅうりょうがきょう)』菩提流支(ぼだいるし)訳
わが乗(じょう)、内証(ないしょう)の智(ち)は妄覚(もうかく)の境界(きょうがい)にあらず。
如来滅世(めっせい)の後(のち)、誰か持(たも)ちてわが為(ため)に説(と)かん。如来滅世(めっせい)の後(のち)、未来に当(まさ)に人あるべし。
大慧(だいえ)、汝(なんじ)あきらかに聴け、人ありて我が法を持(たも)たん。
南天竺に、大徳(だいとく)の比丘(びく)ありて、龍樹菩薩と名づく。
よく有無(うむ)の見(けん)を破(は)し、人の為に、我が大乗無上の法を説き、歓喜地(かんぎじ)を証(しょう)し、安楽国に往生するを得(え)ん。
〈 意訳 〉
深い智慧である「私の悟り」は、「世間の心」で わかるものではない。
私の亡くなった後、この「教え」を 誰が失わないように保ち、人のために説いてくれるだろうか・・
しかし、大丈夫だ。大慧(だいえ)よ、よく聞きなさい。
私が亡くなった後に、インドの南の方に、龍樹菩薩という徳のすぐれた僧が現われる。

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その菩薩が、人々のこだわっている「ある」「ない」などの誤った考えを、ことごとく砕(くだ)き破り、大乗無上の法を説き明かしてくれる。
そして、その菩薩は、「本願の念仏」を心から喜べる身(歓喜地(かんぎじ))になり、阿弥陀仏の極楽浄土に往生するであろう。

 ↓
『楞伽経(りょうがきょう)』の内容を見ると、始めに お釈迦様が心配をしておられる。
「深い智慧である「私の悟り」は、「世間の心」で わかるものではない。
 私の亡くなった後、この「教え」を 誰が失わないように保ち、人のために説いてくれるだろうか・・」
そして、
「しかし、大丈夫だ。私が亡くなった後に、インドの南の方に、龍樹菩薩という徳のすぐれた僧が現われる。」
 ↓
「私の後継者が現れる」という内容として読むことができる!
 ↓
当時の人々 すべての人から、
「龍樹菩薩が、お釈迦様の後継者なんだ!龍樹菩薩こそが、お釈迦様の教えを、そのまま 受け継いで、私達に伝えておられるのだ!」
そのような龍樹菩薩に対する当時の人々の「非常に深い信頼の心」「龍樹菩薩を仰ぐ尊敬の心」が、『楞伽経』の中に「お釈迦様の予告」という形で表現されたのでは?
 ↓

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龍樹菩薩が活躍をされた頃に『楞伽経』が完成し、その中に「龍樹菩薩こそ、お釈迦様の後継者だ」ということが入れられた と、考えれば、「お釈迦様 の 予言 の お言葉」は、「不思議な お言葉」ということではなくなる。
それが「お釈迦様 の 予告 の お言葉」の 本当の意味ではないでしょうか。
 ↓

まとめ

釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、衆(しゅう)のために告命(ごうみょう)したまわく、 
南天竺(なんてんじく)に、龍樹大士(りゅうじゅだいじ) 世に出(い)でて、ことごとく、よく有無(うむ)の見(けん)を摧破(ざいは)せん。 
大乗(だいじょう)無上(むじょう)の法を宣説(せんぜつ)し、歓喜地(かんぎじ)を証(しょう)して、安楽(あんらく)に生(しょう)ぜん、と。
〈 意訳 〉
お釈迦様が お亡くなり に なられてから、約二百年後に、
「すべての人が、真実に出会い、与えられた命を尽くしていってほしい」と、
悟りを開かれてから四五年間、休む間もなく、人々に「教え」を説き続けられた
「お釈迦様 の お姿」を想い、今一度「お釈迦様の教えの深い意味」を
考え直していこうとする「大乗仏教」が起こっていった。
その大乗仏教の経典『楞伽経(りょうがきょう)』に、「お釈迦様の予告」という形で、
このようにいわれているところがある。
「後の世、インドの南の方に、龍樹という名の菩薩が誕生し、
人々が こだわっている「物事に執着(しゅうじゃく)する誤った考え」や
「すべてのもの に 価値や意味を認めない考え」などを、ことごとく砕き破り、
「大乗無上の法‐誰でもが、真実に出会い救われていく この上なく優れた教え」
を説き明かす。

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そして、龍樹菩薩は、「本願の念仏」を心から喜べる身(歓喜地(かんぎじ))となり、
阿弥陀仏の極楽浄土に往生するであろう。」
それは、「大乗仏教」が起こってから約五百年間、
「親から子へ 子から孫へ 孫から その子供へ・・」と、
大切に 口伝で 伝えられてきた『楞伽経(りょうがきょう)』に、
当時の人々が「龍樹菩薩こそ が お釈迦様の後継者である」ということを
記したものであろう。
お釈迦様が お亡くなり に なられてから約七百年、
大切に、口伝で、お釈迦様の教えを伝えてはきていたが、
誰も お釈迦様のように悟りを得られた方が現れていなかった。
そのような悲しい現実の中で、ようやく、誰もが待ち望んでいた
「歓喜地(かんぎじ)」という悟りの位 にまで登られた龍樹菩薩が現れてくださった。
それは、当時の人々にとって、
「お釈迦様の教えは、時代の異なりをも超えた あらゆる人々の救いであることが
証明された出来事」であり、
「お釈迦様の教えを、これからも後の世に伝えていかなくてはいけない」と
改めて 思わせていただける「大きな希望」となった。
そのようなことから、後の人達にも
「龍樹菩薩という お釈迦様の後継者が現れた」と わかるように、
大切に口伝で伝えられてきた『楞伽経(りょうがきょう)』に「お釈迦様の予告」という形で、
加えられたものと思われる。

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