27 天親菩薩造論説 帰命無碍光如来

↑ 練習した音源(約25分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
近くのご寺院では、下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


《 天親章 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より


今日のお言葉

〈 原文 〉
天親菩薩造(ぞう)論(ろん)説(せつ) 帰命無碍光如来(むげこうにょらい)

〈 書き下し文 〉
天親菩薩、論(ろん)を造(つく)りて説(と)かく、無碍光如来(むげこうにょらい)に帰命したてまつる。

 ↓

天親菩薩は、「『仏説 無量寿経』の教えを、自分が どのように受け止めたのか」を表された『浄土論(ろん)』という ご書物 を まとめられた。

 ↓

『浄土論』
始めに、天親菩薩の「阿弥陀様 の お浄土 に生まれたい」と願う心が「偈(うた)」として述べられ、その後に「長行(じょうごう)」という その「偈(うた)」の意味を解説している お言葉 がある。
「論(ろん)」という言葉は、「難しい理論が述べられている」と感じてしまうが、天親菩薩の「お浄土へ生まれたい」という お気持ちを表された「論(意味や解説)」。

 ↓

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《 天親章 》に出てくる 正信偈 の お言葉 は、すべて『浄土論』の お言葉 に依(よ)る。
また、次の《 曇鸞(どんらん)章 》の お言葉 も、曇鸞大師が『浄土論』を注釈(ちゅうしゃく)された『浄土論註(じょうどろんちゅう)』の お言葉 が中心となってくる。
親鸞聖人の「お名前」(諸説ある)は、一二二四年 五十二歳の時に、関東において『教行信証』の草稿本(そうこうぼん)が完成した時に、「天親菩薩」と「曇鸞大師」の一字ずつ を いただかれた「親鸞」と名告(なの)られ、「自分の名前」と された。
それほど、親鸞聖人の人生の中で、天親菩薩が書き記してくださった『浄土論』との出会いが、大きな意味を持っていた。

 ↓

天親菩薩は、『浄土論』の 初め に、
「どのような気持ちで、今から 論(意味や解説)を進めるのか」
その お心 を 表明されている。

『浄土論』天親菩薩 著
世尊(せそん)我(が)一心 帰命尽(じん)十方  無碍光如来 願(がん)生(しょう)安楽国(あんらくこく)
 世尊(せそん)よ 私は一心(いっしん)に 十方世界に行き渡って自在に救いたもう阿弥陀如来を信じて安楽国に生まれることを願う。

  ↓

「正信偈」親鸞聖人 著
帰命 無量寿如来
 「命の源 を知らせるために現れてくださった阿弥陀様」の お導き によって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。
南無 不可思議光(如来)
 いろいろな形となって、私達を支え、働きかけてくださっている阿弥陀様の智慧(光)をいただき、本来の命の姿 に 戻ります。

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 ↓

天親菩薩は、まず
「世尊(せそん)よ‐世界中で最も尊い お方 よ」と、お釈迦様に語りかけられ、
「私は、心を一つにして、阿弥陀様(十方世界に行き渡って、自在に 人々を救われる お方)を信じて、(お釈迦様の教え に したがって)安楽国(浄土)に生まれたいと願っております。」という お心 を 表明(はっきり あらわし示す)されている。

 ↓ このことが「正信偈」の

〈 原文 〉
天親菩薩造(ぞう)論(ろん)説(せつ) 帰命無碍光如来(むげこうにょらい)
〈 書き下し文 〉
天親菩薩、論(ろん)を造(つく)りて説(と)かく、無碍光如来(むげこうにょらい)に帰命したてまつる。

 ↓

天親菩薩は、
「教え と、本当に 向き合う時には、まず「帰命」の心 が なければならない」
そのことを はっきりと 示してくださった。
 私達は、「帰命(本来の命の姿 に 帰りたい)」という心を忘れて、自分の都合で「教えの言葉」を引っ張り出して、言い訳に使ったり、つじつまを合わせるために使ったりしてしまう。
「他力本願で すみません」「どうせ私は、凡夫だから 仕方がない」等
時には、「教えの言葉」を客観的に、論理的に読み解くことも必要だが、「帰命の心」を忘れて、私達が作り出した論理や学説の中に、「教えの言葉」を引っ張り出してしまうと、「本当 の お心」が わからなくなる。

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 ↓ もう少し詳しく いうと

『教行信証』行巻(ぎょうのまき) 親鸞聖人 著
そこで、「南無」という言葉は、「帰命」ということである。
「帰(き)」の字は「至(いた)る」という意味である。
また、帰説(きえつ)という熟語の意味で「よりたのむ」ということである。
この場合、「説(せつ)」の字は「悦(えつ)」と読む。
また、帰説(きさい)という熟語の意味で「よりかかる」ということである。
この場合、「説(せつ)」の字は「税(さい)」と読む。
「説(せつ)」の字は、「悦(えつ)」と「税(さい)」との 二つの読み方 があるが、
「説(せつ)」といえば、「告げる、述べる」という意味であり、
「阿弥陀仏が その思召(おぼしめ)し を 述べられる」ということである。
「命(みょう)」の字は、「阿弥陀仏 の はたらき」という意味であり、
「阿弥陀仏が 私を招き引く」という意味であり、
「阿弥陀仏が 私を使う」という意味であり、
「阿弥陀仏が 私に教え知らせる」という意味であり、
「本願の はたらき の 大いなる道」という意味であり、
「阿弥陀仏の救い の まこと」、または
「阿弥陀仏が 私に知らせてくださる」という「信」の意味であり、
「阿弥陀仏 の お計らい」という意味であり、
「阿弥陀仏が 私を呼び寄せてくださる」という意味である。
このようなわけで、
「帰命」とは、私を招(まね)き、喚(よ)び続(つづ)けておられる如来の本願の仰(おお)せ(本願招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)) である。

 ↓

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『蓮如上人御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』第七十条
他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」と 云(い)うなり。
当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と いうなり。

〈 現代語訳 〉
「安置する ご本尊(ほんぞん)」について、
浄土真宗以外の他流(たりゅう)では、「名号よりは絵像が、絵像よりは木像が良い」というが、
この浄土真宗では、「木像よりは絵像が、絵像よりは名号が良い」というのである。

〈 大切な意味 〉
 他流では、観仏三昧(かんぶつざんまい)(仏や浄土のありさま を まのあたりに見るように念(ねん)じ修行すること)が、修行の基本 であるため、木像が主(しゅ)となるが、真宗の修行は、どこまでも聞法であるから、名号が主(しゅ)となるのである。
 「真実」は、「名号」となって、私達の前に現れてくださった。
「聞法」とは、その「真実の名告(なの)り」を聞くことである。
「名号」は、さらに具体的に「浄土」となって聖教(しょうぎょう)に展開して来る。

 ↓

「阿弥陀様の木像・絵像 の お姿」、
煩悩や苦悩に沈む私達のために、泥の中でも清浄な花を咲かせる蓮の花の上に立ち、今にも私達に向かって歩み出そうとする「阿弥陀様の お姿」は、実は、「南無阿弥陀仏」を表現したもの。
私達は、「阿弥陀仏」に助けられるのではなく、「阿弥陀仏」に「南無(帰命)」することで、助けられていく。

 ↓

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本願招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)(私を招(まね)き、喚(よ)び続(つづ)けておられる如来の本願の仰(おお)せ)
「 あなたは、「自分の考え」を「拠(よ)り処(どころ)」としていては、過ちを犯し続けて、周りの人達にも迷惑をかけ続けてしまいます。その 自分の姿 に 気付いてください。
  自分の過(あやま)ち、自分が罪深いことに、頭を下げ、悔(く)いて、私を「拠(よ)り処(どころ)」として生きてください。
 私の教え を 聞き、そして、浄土で「美しい仏様(ほとけさま)」となって、救われてください。」
そのように「南無してください、帰命してください」と、阿弥陀様から呼びかけられている。

 ↓ 例えば

お内仏(ないぶつ)(お仏壇)の中心にある ご本尊 南無阿弥陀仏 は、西の方角にある お浄土 から、東の方角にいる私達 に「私(阿弥陀仏)に 南無してください」と呼びかけられている。
この 呼びかけ に 応えて、東の方角にいる天親菩薩が、西の方角におられる阿弥陀様 に、自分の言葉 として「帰命尽十方無碍光如来」と応(こた)えられた。
 『浄土論』天親菩薩 著
 世尊(せそん)我(が)一心 帰命尽(じん)十方  無碍光如来 願(がん)生(しょう)安楽国(あんらくこく)
  世尊(せそん)よ 私は一心(いっしん)に 十方世界に行き渡って自在に救いたもう阿弥陀如来を信じて 安楽国に生まれることを願う。
曇鸞大師は「南無不可思議光如来」と応えられた。
 『讃(さん)阿弥陀仏偈(げ)』曇鸞大師 著
 南無不可思議光 一心帰命稽首(けいしゅ)礼(らい)
  不可思議光如来に帰命し 二心(ふたごころ)なく信じて礼拝(らいはい)したてまつる

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 ↓

本願招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)(私を招(まね)き、喚(よ)び続(つづ)けておられる如来の本願の仰(おお)せ)に応えた
天親菩薩の「帰命尽十方無碍光如来」は 十字名号、
曇鸞大師の「南無不可思議光如来」は 九字名号として、
お内仏(ないぶつ)(お仏壇)の お脇掛(わきがけ) となっている。または、その お姿 を、浄土真宗を代表する「親鸞聖人・蓮如上人の御影(ごえい)」で表している。
「ご本尊 南無阿弥陀仏」は、阿弥陀様から、私達の方へ向かってきている。
お脇掛(わきがけ)の「十字・九字名号」「親鸞聖人・蓮如上人の御影(ごえい)」は、阿弥陀様からの呼びかけ に 応えていかれた お姿。
(「親鸞聖人・蓮如上人の御影(ごえい)」は、よく見ると、正面ではなく、阿弥陀様に向かうように描かれている。)
ご本尊(呼びかけ)の両側(りょうがわ)に お脇掛(わきがけ)(応えていかれた お姿)があるが、
「向かう方向」が 全く 違う。
しかし、天親菩薩・曇鸞大師・親鸞聖人・蓮如上人は、すでに お浄土に帰られて、お浄土から阿弥陀様と共に、私達を見護り続けていてくださっているので、ご本尊の両側に お掛けしている。

 ↓ 次に

正信偈を「一行 七文字の偈(うた)の形」に整えられた ため、
「帰命尽(じん)十方無碍光如来」天親菩薩の十字名号 を、親鸞聖人は「尽(じん)十方(じっぽう)」を削(けず)って、「帰命無碍光如来(むげこうにょらい)」と された。

 ↓ しかし、「無碍光」を削って、「帰命尽十方如来」でも よかったのでは?

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「尽十方」‐十方(東・西・南・北・東北・西北・東南・西南・上・下)を尽(つ)くす。

 ↓

「阿弥陀様の光は、どこまでも届いている、すべての世界を照らしている」

 ↓

「無辺光」ということ。
「無辺光」は、偏(かたよ)ったカチカチの考え方 から 離れさせてくださる光。

「無辺光 の ご和讃」
解脱(げだつ)の光輪(こうりん) きわ も なし  光触(こうそく)かぶるもの は みな
有無(うむ)を はなる と のべたもう  平等覚(びょうどうかく)に帰命せよ

〈 言葉の意味 〉
解脱(げだつ) ‐ 業(ごう)の束縛(そくばく)を離れる徳。阿弥陀様の この徳 が、衆生の悪業(あくごう)煩悩を除(のぞ)く。
有無(うむ) ‐「我(われ)あり 法あり」とする見解と、「我(われ)も無く 法も無し」とする見解(けんかい)。二つの邪見(じゃけん)。
平等覚(びょうどうかく) ‐ 諸法(しょほう)の平等 を覚(さと)り、平等の慈悲で衆生を救う阿弥陀様。(平等とは、偏(かたよ)りや差別がなく、みな等しいこと。)

〈 意訳 〉
「悪い行い」や「煩悩」から離れさせてくださる 阿弥陀様の無辺の光 が、私の身 に 触れると、「有(あ)る」「無い」といった「とらわれ」から離れていく。
この阿弥陀様の 平等の お悟り をいただいて、私達は本来の命の姿 に 戻るべきである。

 ↓

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親鸞聖人にとって、「尽(じん)十方(じっぽう)(無辺光)」より、もっと大切なのは、「無碍光(むげこう)」だった。
「無碍(むげ)」‐妨(さまた)げのないこと。何ものにも とらわれないこと。
「妨(さまた)げ・とらわれ」とは「業(ごう)」。
人間は、さまざまな業(ごう)を抱えて、いろいろの出来事の中に身を置いている。
「無辺光‐すべての世界を照らしている。偏(かたよ)った考え から離れさせてくださる」ということよりも、
「どんな業(ごう)を抱えて、どんな出来事の中に身を置いていても、必ず助ける」という非常に、具体的な 阿弥陀様の救い を明らかにするためには、「無辺光」よりも「無碍光(むげこう)」だった。

「無碍光 の ご和讃」
光(こう)雲(うん)無碍(むげ)如(にょ)虚空(こくう)  一切の有碍(うげ)にさわりなし
光沢(こうたく)かぶらぬものぞなき  難思議(なんしぎ)を帰命せよ 

〈 言葉の意味 〉
無碍(むげ) ‐ 衆生の煩悩悪業(あくごう)に妨げられない。その徳を 広大な空 に喩(たと)える。
有碍(うげ) ‐ 数多くの 障(さわ)り があること。
光沢(こうたく) ‐「沢(たく)」は うるおい。「雲」に うるおい が あるので、光雲(こううん)の縁語(えんご)となる。
難思議(なんしぎ) ‐ 不思議と同じ。心が及ばないので 難(なん) 思(し)議(ぎ) という。

〈 意訳 〉
阿弥陀様の光明は、何ものにも妨げられることなく、すべてのもの に 恵み を 与えてくださっている。
この私達の心では及ぶことのできない阿弥陀様の光 を 頼り として、本来の命の姿 に 戻るべきである。

 ↓

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どのような業(ごう)を抱えていても、どのような出来事の中に身を置いていても、いかなる悪業煩悩にも妨げられることなく、必ず私達を救ってくださる、
すべてに 恵み を 与えてくださる太陽のような温かい「無碍光」の方が、親鸞聖人にとって、大切に思われた。


まとめ

〈 原文 〉
天親菩薩造(ぞう)論(ろん)説(せつ) 帰命無碍光如来(むげこうにょらい)

〈 書き下し文 〉
天親菩薩、論(ろん)を造(つく)りて説(と)かく、無碍光如来(むげこうにょらい)に帰命したてまつる。

〈 意訳 〉
天親菩薩(七高僧 第二祖(そ))は、『仏説 無量寿経』を受け止め、『浄土論』という ご書物 を まとめられた。その初めに、
「世尊(せそん)よ(世界中で最も尊い お釈迦様)、私は、あなたの教え に したがい、心を一つにして、十方世界に行き渡って 自在に 人々を救われる阿弥陀様 を 信じて、安楽国(浄土)に生まれたいと願っております。
(世尊(せそん)我(が)一心 帰命尽(じん)十方  無碍光如来 願(がん)生(しょう)安楽国(あんらくこく))」
という お心 を 表明(はっきり あらわし示す)されている。
その お姿 から、私達は、
「教え と、本当に 向き合う時には、まず「帰命」の心 が なければならない」
と、学ばせていただくのです。

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