28 依修多羅顕真実 光闡横超大誓願

↑ 練習した音源(約25分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


《 天親章 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より


今日のお言葉

〈 原文 〉
依(え)修多羅(しゅたら)顕(けん)真実 光闡(こうせん)横超(おうちょう)大誓願(だいせいがん)

〈 書き下し文 〉
修多羅(しゅたら)に依(よ)って真実を顕(あらわ)して、横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)を光闡(こうせん)す。

〈 言葉の意味 〉
「修多羅(しゅたら)」
 インドの言葉「スートラ」が、中国で「修多羅(しゅたら)」と音写(おんしゃ)された。
 「スートラ」は 織物(おりもの)の「縦糸(たていと)」を意味する言葉 で、「経(きょう)」も「縦糸(たていと)」を表す漢字 なので、「スートラ」は 「経(きょう)」と訳された。
 「スートラ」=「修多羅(しゅたら)」=「経(きょう)」

   ↓
 織物(おりもの)の場合、縦糸(たていと)が端(はし)から端(はし)まで ずっと貫(つらぬ)かれていて、それに横糸(よこいと)が からんで さまざまな模様(もよう)を作り出す。
 縦糸(たていと)は 表面には出てこないが、一貫(いっかん)して通っていて、横糸(よこいと)を支えている。

   ↓
 「お経」にも、いろいろな言葉で、さまざまな表現がされているが、それは「模様(もよう)」のようなもの で、どの お経にも、お釈迦様の願い、「真実に出会って、与えられた命を尽(つ)くしていってほしい」という願いが、変わることなく貫(つらぬ)かれている。
 そのことから、「お釈迦様の教えを伝える聖典(せいてん)」を「経(きょう)」と呼ぶ。

   ↓

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 「昔のインドの お経」は、(まだ紙が発明されていなかった ため、)多羅(たら)という木の葉に、針で文字を刻み込み、何枚も重ねて書物のようにしていた。(「貝多羅経(ばいたらきょう)」と いう。)
 「貝多羅経(ばいたらきょう)」を肩に担(かつ)いで道を歩く僧侶の姿 から、現在、お葬式の時に、導師が かける 七条袈裟(しちじょうげさ)の左肩 には、美しい 赤や白や紫の組紐(くみひも)「修多羅(しゅたら)」がある。
 (「修多羅(しゅたら)」は、「貝多羅経(ばいたらきょう)」という お経 を表現しているもの なので、
  お葬式で、お焼香が終わった後に、導師の左肩にある お経 に向かって、一礼(いちれい)をしている。)

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天親菩薩は「修多羅(しゅたら)」(お経)に依(よ)って、真実を顕(あきら)かにされた。
天親菩薩が依(よ)られた「修多羅(しゅたら)」(お経)は『仏説 無量寿経』。
天親菩薩が『仏説 無量寿経』に依(よ)って、真実を顕(あきら)かにされた ご書物 が『浄土論』。

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『浄土論』天親菩薩 著

〈 原文 〉
我(が)依(え)修多羅(しゅたら) 真實(しんじつ)功德相(そう) 説(せつ)願偈(がんげ)總持(そうじ) 與(よ)佛敎(ぶっきょう)相應(そうおう)

〈 書き下し文 〉
我(われ) 修多羅(しゅたら)、真実功徳の相(そう)に依(よ)って願偈(がんげ)を説(と)いて総持(そうじ)して、仏教と相応(そうおう)す。

〈 意訳 〉
私は、修多羅(しゅたら)(『仏説 無量寿経』)を依(よ)り処(どころ)とし、そこに示されてある真実功徳の法(ほう)に帰依(きえ)して、この「願生(がんしょう)の偈(うた)」を説(と)いて、仏(ぶつ)の教(おし)え と 相応(そうおう)(互(たが)いに結(むす)びつく)しよう。

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『浄土論』天親菩薩 著
我(が)依(え)修多羅(しゅたら) 真實(しんじつ)功德相(そう) 
 
 ↓「我(が)」の一字を抜いて、「顕(けん)」の一字を加えた

「正信偈」
依(え)修多羅(しゅたら)顕(けん)真実 

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『高僧和讃』曇鸞大師(どんらんだいし) の ご和讃  親鸞聖人 著
天親菩薩 の みこと をも  鸞師(らんし) ときのべたまわずは
他力広大威徳(いとく)の  心行(しんぎょう)いかでか さとらまし

〈 言葉の意味 〉
心行(しんぎょう)‐一心(いっしん)に帰命する信心 と五念門(ごねんもん)(礼拝(らいはい)・讃嘆(さんだん)・作願(さがん)・観察(かんざつ)・回向)の行業(ぎょうごう)(仏道の修行)。 

〈 意訳 〉
天親菩薩の『浄土論』の お言葉 も、曇鸞大師が『浄土論註(ちゅう)』を著(あら)わして解釈(かいしゃく)してくださらなければ、『浄土論』に説(と)かれた「一心(いっしん)の信心」も「五念門(ごねんもん)の行(ぎょう)」も、共に 凡夫の自力 ではなく、他力の威徳(いとく)広大の心(しん)行(ぎょう) であることを、どうして了解(りょうかい)することができたであろうか。

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天親菩薩の『浄土論』の 内容が よく わからなかった所 が、曇鸞大師が『浄土論註(ちゅう)』で 細(こま)やかに解釈してくださった おかげ で、ようやく 天親菩薩の『浄土論』のお心 が はっきり と わかるようになった!

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『浄土論註』曇鸞大師 著
「真実功徳相(そう)」とは、およそ功徳には二種がある。
一つには、不実(ふじつ)功徳。
有漏(うろ)の心(煩悩のある心)から起(おこ)って真(しん)如法性(にょほっしょう)(真実そのもの)に かなわぬ、いわゆる 凡夫が修(おさ)めるような人間・天上に生まれる善 およびその果報(かほう)(以前に行った行為によって、のちに 報(むく)い として受ける結果)である。
これらは 因(いん)も果(か)も みな顛倒(てんどう)(真実に反する見解(けんかい))であり、みな虚偽(きょぎ)(うそ、いつわり)であるから不実(ふじつ)功徳と名づける。

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二つには、真実功徳。
菩薩の法性(ほっしょう)(真実そのもの)に順(じゅん)ずる浄(きよ)らかな行業(ぎょうごう)(行い)から起(おこ)って仏の果報(かほう)(未来の幸せ)を成就(じょうじゅ)し、法性(ほっしょう)(真実そのもの)に したがい清浄(しょうじょう)の相(そう)(かたち)に かなっているもの、これは顛倒(てんどう)でもなく虚偽(きょぎ)でもないから真実功徳 と名づける。
なぜ顛倒(てんどう)でないのか というと、法性(ほっしょう)(真実そのもの)に したがい真諦(しんたい)(すべてのもの には 実体がなく空(くう)である と知る)俗諦(ぞくたい)(言葉や思想で表わされる世界)の道理に かなっているからである。
なぜ虚偽(きょぎ)でないのかというと、衆生を摂(おさ)めて 最上(さいじょう)のさとり に入(はい)らせるからである。

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「不実(ふじつ)功徳」とは、人間の考える功徳 のこと。
不実(ふじつ)(事実でない。いいかげんなこと。うそ。でたらめ。)でも、功徳(すぐれた結果を招(まね)く力(ちから) が 徳として備(そな)わる)と思っている。
「功徳だ」と思っているが、実は 不実(ふじつ)。
功徳がありそうに思えるけれども、実は なんの功徳もない。
これが 人間の考えている功徳。
人間の考えているような功徳は、すべて顛倒(てんどう)(真実に反する見解(けんかい))しているので、不実(ふじつ)になってしまう。確実ではない。夢を描(えが)いているだけ。妄想(もうそう)。
妄想(もうそう)が実現(じつげん)することなど絶対(ぜったい)に無(な)い。

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『浄土論註』で、曇鸞大師(どんらんだいし)は、「不実(ふじつ)功徳 が わからないと、真実(しんじつ)功徳 が わからない」ということを表されている。
なんでも そうなのですが、「間違い」が わからなければ、「本当」は わからない。
「本当」が わかってから、後で、「間違い」が わかるのではない。
「間違っていた」と 気が付いた時に、「本当の世界」が 私に受け取れる。
「間違い」を「間違いだ」と気づけない と、「間違い」が「本当」になってしまう。
「間違っていた」と気が付いた時に、初めて「本当」が受け取れる。

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『尊号真像銘文』親鸞聖人 著
「真実功徳相(そう)」というのは、「真実功徳」とは 本願に誓われた名号のこと で、「相(そう)」とは「かたち」という言葉である。

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「真実功徳」とは、「真実のすぐれた徳を具(そな)えたもの」であり、「誰にとっても なくてはならないもの」であり、「生きてゆく上での究極の依(よ)り所(どころ)となるもの」。
その依(よ)り所(どころ)が 阿弥陀様 の ご本願 に 誓われた名号「南無阿弥陀仏」。
「南無阿弥陀仏」は、もうすでに、私達に施(ほどこ)されている。
その「南無阿弥陀仏」を ありがたく 受け止めて、素直に称(とな)えていく、それだけが 私達の課題 として残されている。

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横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)を光闡(こうせん)す。

〈 言葉の意味 〉
「横超(おうちょう)」
 親鸞聖人は、お釈迦様が説かれた お経(五千四十八巻 現存している)を、形式・思想内容などによって分類している。(二双四重(にそうしじゅう))
  まず 仏教の全体 を、
 「竪(しゅ)(聖道門(しょうどうもん)・自力(じりき))」‐順序に従(したが)って段階的(だんかいてき)に一つの方向に進もうとする方法
 「横(おう)(浄土門(じょうどもん)・他力)」‐順序を経(へ)ずに一挙(いっきょ)に最終目的を達成しようとする方法
 との二種類に分け、さらに、「竪(しゅ)」と「横(おう)」には、それぞれ
 「出(しゅつ)(漸教(ぜんきょう))」‐長い修行の末に 次第に 悟り に 近づく教え、
 「超(ちょう)(頓教(とんぎょう))」‐迷いの身のままに、ただちに深い 悟りの境地 に 達(たっ)する教えがある、とされた。

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「堅出(しゅしゅつ)」
 永(なが)く厳(きび)しい修行によって徐々(じょじょ)に 仏の悟り に 近づいていく「自力・難行道(なんぎょうどう)」 → 天台宗

「堅超(しゅちょう)」
 強靭(きょうじん)な菩提心(ぼだいしん)(悟りを求める心)によって修行に励(はげ)み、一挙(いっきょ)に仏の悟り を体得(たいとく)する もう一つの「自力・難行道(なんぎょうどう)」→ 真言宗(即身(そくしん)成仏)

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「横出(おうしゅつ)」
 困難な修行によるのではなく、念仏によって一足飛(いっそくと)びに 浄土に往生して仏の悟り を得ようとする「他力・易行道(いぎょうどう)」(「横(おう)」は、「念仏」を表している)。
 「自力の念仏(自分が励(はげ)んで唱(とな)えた念仏)」の功徳 によって、阿弥陀様の本願力(他力)に すがって、浄土に往生しようとする。(他力で助かるのだけれども、自力が混(ま)じっている)→ 浄土宗

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『蓮如上人御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』第一条
〈 現代語訳 〉
 勧修寺(かんしゅうじ)村の道徳(どうとく)という人が、明応(めいおう)二年(一四九三年)の正月一日に蓮如上人のもと へ 年頭(ねんとう)のご挨拶(あいさつ) に おうかがいしたところ、蓮如上人が言われました。
「道徳(どうとく)は今年で いくつになられたか。道徳(どうとく)、念仏を申(もう)されよ。
 それについても 自力の念仏 と 他力の念仏 とがあるが、自力の念仏というのは、念仏を多く申(もう)して仏(ぶつ)の方(ほう)へ振り向け、この 称名(しょうみょう)の功徳 によって仏(ぶつ) が たすけてくださるかのように思って称(とな)えるものである。
 他力というのは、弥陀をたのむ一念の信心が起こる時、その時 直(ただ)ちにおたすけに与(あず)かるのであるから、その後 念仏申すのは、はや おたすけ いただいたことの ありがたさよ と思う心を、口に申(もう)してよろこぶばかりで、南無阿弥陀仏 に 何(なん)ら 自力を加(くわ)えない心である。
 そういうわけで、他力というのは まさしく他(ほか)の力(ちから)という意味である。
 弥陀をたのむ この一念(いちねん)が、臨終(りんじゅう)まで末(すえ)とおって往生させていただくのである」
と、このように仰(おお)せになりました、
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〈 大切な意味 〉
蓮如上人 七十九歳の正月元旦、勧修寺(かんしゅうじ)村の道徳(どうとく)が、山科(やましな)本願寺へ年頭(ねんとう)の御礼(おんれい)に参詣(さんけい)した。老体(ろうたい)の道徳(どうとく)を前にして、蓮如上人は、唐突(とうとつ)に歳(とし)を尋(たず)ねて、無常(むじょう)を思い知らせ、他宗門(たしゅうもん)や公家(くげ)や武家(ぶけ)では 世間通途(つうづ)の祝儀(しゅうぎ) も必要であろうが、門徒の間では不用(ふよう)のこと、うかうかしては おれない、遠慮は要(い)らない と念仏を促(うなが)したのである。その念仏とは、念仏すれば功徳となり、その功徳を振り向けて 弥陀に救ってもらおう と 称える 功利的(こうりてき)な念仏 ではない。
名号の道理を正しく受け取り 信じるところに 自然に 称(とな)えられる報恩謝徳(ほうおんしゃとく)の念仏 なのである。

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 「自力の念仏」とは、「念仏によって功徳を積(つ)む」ということ。
 「功徳を積(つ)もう」と考えると、一生懸命 お経を読んだり、戒律(かいりつ)を守ったり、自分の行い を 慎(つつし)み、徳の高い善人(ぜんにん) を目指し、努力をしていくようになる。
 そして、
 「阿弥陀様だって、悪人 よりは 徳の高い善人(ぜんにん) の方を優先して救ってくださる」
 と、自分の都合のいいように、阿弥陀様 の お心 まで推(お)し量(はか)っていってしまう。
 そのことは、阿弥陀様 の ご本願 を 疑う ことにも なってしまっている。
 本当は、「念仏」に「自力」や「他力」ということがあるわけではない。
 「信心‐念仏をいただく心」に「自力」「他力」ということがある。

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 ↓「如来より賜(たまわ)っている信心」「いただいている お念仏」

「横超(おうちょう)」
 一切 の はからい から離(はな)れ、ひたすら『仏説 無量寿経』に説かれている 阿弥陀様 の ご本願 に帰依(きえ)して、浄土に往生させていただこうとする「他力・易行道(いぎょうどう)」→ 浄土真宗

  ↓
 私達の理屈(りくつ) からすれば、「懸命(けんめい)な修行によってこそ浄土に近づいていく」と思ってしまうが、そのような「私達の理屈」とは関係 無く、
 「煩悩具足の凡夫が、迷いの大海(たいかい) を一挙(いっきょ)に超えて、最高の悟り に至(いた)ってほしい」
 と、阿弥陀様は願ってくださっている、それが「横超(おうちょう)」の教え。

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横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)を光闡(こうせん)す。

〈 言葉の意味 〉

「大誓願(だいせいがん)」
 「一人も もらすことなく浄土へ迎(むか)え入(い)れたい」と誓(ちか)い、願われた阿弥陀様 の ご本願。

「光闡(こうせん)」
 光(ひか)り輝(かがや)かせて明(あき)らかにする。「光(こう)」は、ここでは「広げる」という意味。
 「闡(せん)」も、「延(の)べ広げる(意義(いぎ)などを広く伝える)」。
 横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)を広め、広く伝えられた、みんなにわかるように知らせてくださった ということ。

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まとめ

原文
依(え)修多羅(しゅたら)顕(けん)真実 光闡(こうせん)横超(おうちょう)大誓願(だいせいがん)

〈 書き下し文 〉
修多羅(しゅたら)に依(よ)って真実を顕(あらわ)して、横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)を光闡(こうせん)す。

〈 意訳 〉
天親菩薩は、『仏説 無量寿経』という「修多羅(しゅたら)」(お経)に依(よ)って、『浄土論』という ご書物 を書き記してくださり、
「真実 の すぐれた徳 を具(そな)えた すべての生きとし生けるもの の 究極の依(よ)り所(どころ)は、阿弥陀様 の ご本願 に 誓われた名号「南無阿弥陀仏」である」
と、顕(あきら)かにしてくださった。そして、
「南無阿弥陀仏 を、私達が、素直に受け止め、称えていくこと」が、「煩悩具足の凡夫に、迷いの大海(たいかい) を一挙(いっきょ)に超(こ)えさせて、一人も もらすことなく、最高の悟り に至(いた)らせたい」という 阿弥陀様の「横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)」であることを、すべての人に わかるように知らせて、広く伝えてくださった。

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親鸞聖人は、「邪見憍慢(きょうまん)の悪衆生(あくしゅじょう)」である凡夫の力 では、何一つ 良い結果は得(え)られない と 見極(みきわ)めておられた。
そのような凡夫のために、阿弥陀様は「横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)」を ご用意くださっている、このことを顕(あきら)かにしてくださった 天親菩薩 の ご恩 に、親鸞聖人は 本当に 感謝をして、喜んでおられる。

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