29 広由本願力回向 為度群生彰一心

↑ 練習した音源(約25分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


《 天親章 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より


今日のお言葉

〈 原文 〉
広(こう)由(ゆ)本願力(ほんがんりき)回向 為(い)度(ど)群生(ぐんじょう)彰(しょう)一心(いっしん)

〈 書き下し文 〉
広く本願力(ほんがんりき)の回向に由(よ)って、群生(ぐんじょう)を度(ど)せんがために、一心を彰(あらわ)す。


〈 言葉の意味 〉

「本願力(ほんがんりき)」-「苦悩する すべての凡夫を助けたい」という 阿弥陀様の お誓い が「名号‐南無阿弥陀仏」となって 私達に届けられている(本願の名号)、「その本願の名号によって、私達の助かる道が すでに できている」ということを「本願成就」といい、『仏説 無量寿経』下巻の初めに「第十八願成就の文(もん)」がある。

  ↓

 第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん) 成就の文(もん)
 〈 原文 〉
 諸有(しょう)衆生、聞(もん)其(ご)名号、信心歓喜(かんぎ)、乃至(ないし)一念。至心(ししん)回向。願生(がんしょう)彼国(ひこく)、即(そく)得(とく)往生、住(じゅう)不退転(ふたいてん)。唯除(ゆいじょ)五逆(ごぎゃく) 誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)。
 〈 書き下し文 〉
 あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念せん。
 至心(ししん)に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願(がん)ずれば、すなわち往生を得(え)、不退転(ふたいてん)に住(じゅう)せん。ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)とをば除(のぞ)く。

-1-


 〈 意訳 〉
 苦悩する すべての凡夫は、本願の名号を聞いて、信心 を えた歓喜(よろこび) が あふれて一念(いちねん)となるであろう。阿弥陀様は心(こころ)を尽(つ)くして、その一念(いちねん)(信心)を回向してくださるのです。
 「彼(か)の国(くに)(お浄土)に生まれたい」と願えば、たちどころに心(こころ)が お浄土に往生し、命(いのち)終(お)われば、必ず お浄土に生まれて、仏(ぶつ)に成(な)ることができる。
 ただし、重(おも)い罪(つみ)を犯(おか)したり、仏法を謗(そし)るという悪を はたらいたりした者(もの)は除(のぞ)かれる、

  ↓

 〈 書き下し文 〉
 その名号を聞きて、信心歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念せん。至心(ししん)に回向せしめたまえり。

 〈意訳 〉
 本願の名号を聞いて、信心をえた歓喜(よろこび)があふれて一念(いちねん)となるであろう。
 阿弥陀様は心(こころ)を尽(つ)くして、その一念(いちねん)(信心)を回向してくださるのです。

  ↓

 実は、親鸞聖人よりも以前は、
 〈 書き下し文 〉
 その名号を聞きて、信心歓喜(かんぎ)し、乃至(ないし)一念までも 至心(ししん)に 回向して、
 〈 意訳 〉
 「本願の名号‐南無阿弥陀仏」を聞いて、喜び、真心(まごころ)をこめて、ひたすら阿弥陀様に心を捧げ、
 と読んでいた。

  ↓

 「至心回向(心を尽くして、回向する)」のが、「阿弥陀様なのか?」「私なのか?」
 そのことによって「第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん) 成就の文(もん)」の内容がまったく違ってきてしまう。

-2-


 ↓

「回向」‐振り向けること。

  

 「回向」の根底には、「自業自得(じごうじとく)(自(みずか)らの行(おこな)い(自業(じごう))が原因となって、自(みずか)らが結果を受け取る(自得(じとく)))」という教えがある。
 (「自業自得」という言葉は、失敗したり、病気になったりした時などの「悪い意味」で使われることが多いが、それは本来の意味ではない。)

  ↓

 「回向」とは、自分がした修行 によって生(しょう)ずる よい結果 を自分の悟り のために「振り向ける」こと と解釈されている。

  ↓

 しかし、浄土真宗では、意味がまったく違う。
 私達、末世(まっせ)の凡夫にとって、「自分の力(自力)」では「浄土に往生する原因」を作れない。
 (「念仏が往生の正因(しょういん)である」と教わり、どれほど誠実(私利(しり)私欲(しよく)を交(まじ)えず、真心(まごころ)をもって対する)に念仏を唱(とな)えようと思っても、結局のところは、「自分の都合」で念仏を唱(とな)えているので、「本当の念仏」には ならない。)

  ↓

 「そのような私達である」ことを、初めから阿弥陀様は わかって、哀(あわ)れんで、「願い」を発(おこ)してくださっている。
 「浄土に往生する原因」を作れない私 に代わって、阿弥陀様が「往生の原因」を作ってくださり、
その結果だけ を 私に振り向けてくださっている。
 それが本願によって「回向」されている お念仏。
 私には、振り向けてくださっている「南無阿弥陀仏」を、素直に、ありがたく いただくこと だけ しか 残されていない。

-3-


  ↓

 『正像末(しょうぞうまつ)和讃』三八
 真実信心の称名(しょうみょう)は  弥陀(みだ)回向の法(ほう)なれば
 不回向(ふえこう)と なづけてぞ  自力の称念(しょうねん)きらわるる

 〈 言葉の意味 〉
 不回向(ふえこう)‐「凡夫の方から回向しない」ということ。
 称念(しょうねん)‐南無阿弥陀仏と唱(とな)えること。

 〈 意訳 〉
 真実の信心に具(そな)わる称名(しょうみょう)念仏は、阿弥陀様の本願から回向される法(ほう)であるから、凡夫の方からは「不回向(ふえこう)の法」と名づけて、「自力の念仏」は嫌(きら)われる。

  ↓
 「先祖に回向する」という言葉を耳にすることがあるが、その内容は、「ご先祖様は、善(よ)い結果が生(しょう)ずるような善(よ)い原因を作れなかったので、それを私が哀(あわ)れんで、ご先祖様に代わって善(よ)い原因を作り、善(よ)い結果を
ご先祖様に振り向けてあげる。」ということになる。
 すでに仏様に成(な)られた ご先祖様 に対して、大変 傲慢(ごうまん)で ご無礼(ぶれい)な話 になるのではないでしょうか?


〈 言葉の意味 〉

「群生(ぐんじょう)」‐あらゆる生きとし生けるもの。ここでは「人間‐凡夫」のこと。「衆生」と同じ意味の言葉。

「度(ど)する」‐渡(わた)らせる。苦悩に満ちた状態 から、苦悩が解消した状態 へ 導(みちび)くこと。迷いの此岸(しがん) から、覚りの彼岸(ひがん) へ 渡らせる。

  ↓

-4-


 天親菩薩は、
 「阿弥陀様の本願力」は「回向」という形をとって、私達に届けられてくる。
 そして、私達が、回向されている(差し向けられている)阿弥陀様の願い(本願)を素直に受け取ることができれば、私達の中に「真実の信心‐一心」が生まれる。」
 と、明らかに お示しくださった。
 そして、親鸞聖人は、天親菩薩が明らかにしてくださった
 阿弥陀様の「本願力の回向に由(よ)」る ということを、非常に大切な手がかり とされ、「至心回向(心を尽くして、回向する)」ということは、阿弥陀様のご苦労であり、その 阿弥陀様に ご苦労いただいた お力 によって、私達が助かっていく、という「浄土真宗の教え」を深く感得(かんとく)することができ、天親菩薩の教え に出会えたことに大変 喜ばれ、感謝し、讃(たた)えておられる。

  ↓
 『浄土論』天親菩薩 著 初めの言葉
 世尊(せそん)我(が)一心 帰命尽(じん)十方  無碍光如来 願(がん)生(しょう)安楽国(あんらくこく)
 〈 意訳 〉
 世尊(せそん)よ 私は一心(いっしん)に 十方世界に行き渡(わた)って自在(じざい)に救いたもう阿弥陀如来を信じて安楽国に生まれることを願う。

  ↓

 天親菩薩は、まず
 「世尊よ‐世界中で最も尊い お方 よ」と、お釈迦様に語りかけられ、
 「私は、心を一つにして、阿弥陀様(十方世界に行き渡って、自在に 人々を救われる お方)を信じて、(お釈迦様の教え に したがって)安楽国(浄土)に生まれたいと願っております。」
 という 心(こころ)の内(うち)に沸(わ)き立(た)つ 切(せつ)なる願い を 表明(はっきり あらわし示す)されている。

-5-


  ↓

 『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』親鸞聖人 著
 「世尊(せそん)我(が)一心」 というのは、「世尊(せそん)」 とは お釈迦様であり、「我(が)」というのは 天親菩薩が ご自身のこと を おっしゃっているのである。
 「一心」というのは、お釈迦様の仰(おお)せ に対して二心(ふたごころ)なく 疑(うたが)いがない ということであり、すなわち これは 真実の信心 である。

  ↓

 「世尊(せそん)よ」と、呼びかけることによって、本願の真実を お説きになられた お釈迦様 に対して、眼(め)を逸(そ)らさずに、真正面から仰(あお)ぎ見(み)ておられる 天親菩薩の姿勢 が示されている。
 そして「我(が)」とは、お釈迦様が顕(あきら)かにしてくださった本願の真実に、真正面に向き合っておられる 天親菩薩の自覚 が示されている お言葉。


〈 言葉の意味 〉

「一心」‐お釈迦様の仰(おお)せ に対して、二心(ふたごころ)がなく、疑いがない、真実の信心のこと。「唯(ゆい)」の心。

  ↓

 「唯(ゆい)」‐「ただ・・のみ」。「亦(また)」という字 の 反対 を 表す。

  ↓

 「亦(また)」‐「・・も、また・・も」と両方を並べる。「娑婆(しゃば)も大事だが、仏法も大事だ」「お金も大事だが、また南無阿弥陀仏も大事だ」というのが「亦(また)」。

  ↓

-6-


 『歎異抄(たんにしょう)』第二章 意訳
 この親鸞においては、
 「ただ念仏して、阿弥陀様に救われ 往生させていただくのである」
 という 法然上人 の お言葉 をいただき、それを信じているだけで、他に 何か が あるわけではありません。

  ↓

 「ただ」という お心 が「信心」を表す。
 天親菩薩が「群生(ぐんじょう)を度(ど)せんがために、「一心」を彰(あらわ)」してくださったことで、親鸞聖人は 初めて「一心というのは「ただ‐唯(ゆい)」の心だ」と、はっきりと受け取ることができ、
「一心の華文(かもん)(一心から咲いた華(はな)のような文(もん))」とまで、表現されているほど天親菩薩が述べられた「一心」という お言葉 に感謝をし、大切にしておられる。

  ↓

 『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』信巻(しんのまき)
 ここに、愚禿釈(ぐとくしゃく)(内側には 愚(おろ)かさ を持ちながら、外見(がいけん)には賢(かしこ)く振(ふ)る舞(ま)って生きていこうとしている仏弟子)の親鸞(しんらん)は、諸仏如来が説かれた真実の説(おしえ)を信じ従(したが)い、祖師方(そしがた)の示(しめ)された根本となる教え を ひもといて、一つ一つを確かめた。
 そして、浄土(じょうど)三部(さんぶ)経(きょう)の輝(かがや)く光(ひかり)を受(う)けて、とりわけ 一心(いっしん)から咲(さ)いた華(はな)のような文(もん)(一心(いっしん)の華文(かもん))を開いた。

  ↓

-7-


 しかし、その「信心」は、凡夫が 凡夫の意志 で 起こすものではない。
 親鸞聖人は、これを「如来より たまわりたる信心」と教えられている。
 「如来の願い」として回向されている信心 ですから、誰もが、平等に、信心をいただくことができる。


まとめ

今日 の お言葉

〈 原文 〉
広(こう)由(ゆ)本願力(ほんがんりき)回向 為(い)度(ど)群生(ぐんじょう)彰(しょう)一心(いっしん)

〈 書き下し文 〉
広く本願力(ほんがんりき)の回向に由(よ)って、群生(ぐんじょう)を度(ど)せんがために、一心を彰(あらわ)す。

〈 意訳 〉
天親菩薩は、
「苦悩(くのう)に満(み)ちた此岸(しがん)(娑婆(しゃば))に生きる すべての凡夫を、覚(さと)りの彼岸(ひがん)(お浄土)に導(みちび)き 救いたい」という 阿弥陀様の お誓い が「名号‐南無阿弥陀仏」となって 私達に届けられている。
 その「阿弥陀様の本願力」は「回向‐振り向ける」という形をとって、私達に届けられてくる。
 そして、阿弥陀様が振り向けてくださっている「南無阿弥陀仏」に、私達が真正面に向き合って、素直に、ありがたく いただくことができれば、「真実の信心」となり、「一心‐二心(ふたごころ)がなく、疑いがない、「唯(ゆい)」の心」となる。」
と、明らかに お示しくださった。

-8-