↑ 練習した音源(約28分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/10/20/starry/』
《 天親章 》
『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より
《 天親(てんじん)菩薩(七高僧 第二祖(そ)) 》
天親(てんじん)菩薩は、龍樹菩薩が お亡くなりになられてから約百五十年後に、北インドに誕生された。(生年(せいねん) 西暦三九五年頃 ~ 没年(ぼつねん) 四八〇年頃)お釈迦様が お亡くなりになられてから約九百年が経っていた天親菩薩の時代は、仏教が大きく二つの部派(ぶは)に分かれていた。
・「上座部(じょうざぶ)仏教(小乗(しょうじょう)仏教)」‐煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地を目指す教え。
・「大乗(だいじょう)仏教」‐多くの人を、誰でも、迷いの無くなった状態に導いて行ける教え。
そして さらに分裂が進んでいって、いくつもの部派(ぶは)が林立(りんりつ)(林のように、たくさん並び立つ)し、それぞれの部派(ぶは)では、「お釈迦様の教え」を誤(あやま)りなく、正しく伝承するために、「教えの緻密(ちみつ)な理論化」が進められていた。
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天親(てんじん)菩薩は、若くして伝統のある上座部(じょうざぶ)仏教に出家をし、その天才的な記憶力・理解力によって、学問を究(きわ)め尽(つく)し、「千部(せんぶ)の論師(ろんし)」と呼ばれるほど 厳密(げんみつ)な教学の書物 を 数多く書き記し、その部派(ぶは)を代表する学僧(がくそう)となられていた。
そうしたところ、天親(てんじん)菩薩の兄の無著(むじゃく)に、
「お釈迦様が、私達に 本当に伝えたかった 教え は、大乗仏教である!」と、厳(きび)しく批判され、説得をされて、兄の無著(むじゃく)から大乗仏教を学ぶようになっていった。
しかし、天親(てんじん)菩薩にとって、これまでの上座部(じょうざぶ)仏教(煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地を目指し、学問・修行を通して 悟りへ と 近づいて行く教え)とは全(まった)く違う、大乗仏教(どのような者であっても、誰もが救われていく教え)は、どれほど深く学問を積(つ)んでいっても理解することができずに、大きな壁にぶつかるように、自分の力の限界を感じ、苦悩の日々が続いていった。
そのような中で、天親菩薩は、『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』に出遇(であ)われた。これまでは
「自分の心を正しくしていくことによって、悟りへ と 近づいていくのが大乗仏教だ」と、思い込んでいたが、そうではなく、
「阿弥陀様の願いの中に素直に身をゆだねて、阿弥陀様に救われて お浄土で悟りを開(ひら)く、それこそが、お釈迦様が本当に私達に伝えたかった大乗仏教であった!」
と、気づかれた。
そして天親菩薩は、「『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』の教えを、自分が どのように受け止めたのか」を表(あらわ)された『浄土論(ろん)』を まとめられた。
↓
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『 浄土論 』
始めに、天親菩薩の「阿弥陀様 の お浄土 に生まれたい」と願う心 や「お浄土 や 阿弥陀様・聖者達の姿(すがた)」が「偈(うた)」として述べられ、その後に「長行(じょうごう)」という その「偈(うた)」の意味を解説している お言葉 がある。
その「長行(じょうごう)」に、法蔵菩薩の五つの修行(五念門(ごねんもん)の行(ぎょう))が成就した結果として、「お浄土や阿弥陀様・聖者達の姿(すがた)」が現(あらわ)れ出て、お念仏を通して その お浄土の功徳 が 衆生に与えられている(五功徳門(ごくどくもん))ことが述べられている。
↓
「五念門(ごねんもん)の行(ぎょう)」
阿弥陀様になられる前 法蔵菩薩であられた時、〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉が 五つ あり、〈 はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ) 〉されて、「阿弥陀如来と成(な)られ、お浄土 や 聖者達の姿(すがた)が現れる」という「善い結果(功徳)」が生まれた。
↓
「五功徳門(ごくどくもん)」
「阿弥陀如来と成(な)られ、お浄土 や 聖者達の姿(すがた)が現れる」という「善い結果(功徳)」は、「南無阿弥陀仏という名号」を通して、五つの〈 衆生に与えられている功徳 〉となる。
(「お念仏 を通して 本願に目覚めたならば、五つの功徳の中に入って行く」ので「門(もん)(出入り口)」と表現されている)
↓
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〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
一、「礼拝門(らいはいもん)」‐身業(しんごう)(体による行い)で礼拝(らいはい)(敬い、手を合わせる)をされた。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「近門(きんもん)」‐阿弥陀様を礼拝(らいはい)することで、「この私を照らし、育て、豊かな人生に導いてくださる『浄土(真実)』」が、近くなり、私に働きかけてくださる。
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
二、「讃嘆門(さんだんもん)」‐口業(くごう)(口で言うこと)で讃嘆(さんだん)(心が深く動かされ ほめたたえる)を された。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「大会衆門(だいえしゅもん)」‐阿弥陀様を讃嘆(さんだん)することによって、お浄土で 阿弥陀様の説法を聞く会座(えざ)(集まり)に つらなる大衆(たいしゅう)(大会衆(だいえしゅ))の数(仲間)に入る。
↓ 二「大会衆門(だいえしゅもん)」が、一「近門(きんもん)」を含(ふく)んで
「正信偈」
必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。(前回 三月の時に見ました)
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〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
三、「作願門(さがんもん)」‐意業(いごう)(心に思うこと)で常(つね)に願(ねが)われた。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「宅門(たくもん)」‐一心に 念仏して「お浄土(蓮華蔵(れんげぞう)世界)に生まれたい」と願うことで、お浄土に生(うま)れて「思(おも)いを止(とど)め 心(こころ)を静(しず)める行(ぎょう)」に入る。
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
四、「観察門(かんざつもん)」‐智慧の眼(まなこ)によって観察(かんさつ)なさった。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「屋門(おくもん)」‐「正しい思いで浄土を観察し、ありのままに その姿を想い描く行(ぎょう)」を修めることによって、浄土に往生して さまざまな法(ほう)の味わい を楽しむ。
↓ 三「宅門(たくもん)」が、四「屋門(おくもん)」を含んで
「正信偈」
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に至(いた)ることを得(う)れば、すなわち真如法性(しんにょほっしょう)の身(しん)を証(しょう)せしむ と。(今日 見たいと思っています)
↑ 一から四まで が「往相(おうそう)回向‐お浄土に往生して、阿弥陀様の仲間になる」
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お浄土に往生し、阿弥陀様に助けられた者が、今度は、その恩徳(おんどく)に報(むく)いるために、助けてくださった阿弥陀様 の お仕事・事業(じぎょう) に参加していく(還相(げんそう)回向)。
↓
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
五、「回向門(えこうもん)」‐回向を本(ほん)として「功徳を与えよう」と願われた。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「園林遊戯地門(おんりんゆうげじもん)」‐浄土に生(うま)れた者は、そのまま速(すみ)やかに 自利(じり)の智慧 と利他(りた)の慈悲 とを成就し、「煩悩に満ちた 迷いの世界」に還(かえ)ってきて、さまざまな姿を現(あらわ)し、神通力(じんずうりき)を具(そな)え、思いのままに衆生を仏道に導(みちび)く。
↓
「正信偈」
煩悩の林(はやし)に遊(あそ)びて神通(じんづう)を現(げん)じ、生死(しょうじ)の園(その)に入(い)りて応化(おうげ)を示す、といえり。(六月に見たいと思っています)
↓ 五つ全体の功徳
「正信偈」
功徳大宝海(だいほうかい)に帰入(きにゅう)すれば、(前回 三月の時に見ました)
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今日のお言葉
〈 原文 〉
得(とく)至(し)蓮華蔵世界(れんげぞうせかい) 即(そく)証(しょう)真如法性(しんにょほっしょう)身(しん)
〈 書き下し文 〉
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に至(いた)ることを得(う)れば、すなわち 真如(しんにょ) 法性(ほっしょう) の 身(しん) を証(しょう)せしむ と。
〈 言葉の意味 〉
「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」‐①「蓮華」のような徳 を そなえた 阿弥陀様 の お浄土。
↓
「正信偈」
この人を分陀利華(ふんだりけ)と名(な)づく。
〈 言葉の意味 〉
「分陀利華(ふんだりけ)」‐インドの言葉「プンダリーカ(白い蓮の華)」を音写(おんしゃ)した言葉。インドには、たくさんの種類の美しい花 が咲いていたが、その花の中で、「蓮の華」が もっとも気(け)高(だか)く尊(とうと)い華(はな) と されてきた。
↓「蓮の華」は どのような所で咲いているのか
『教行信証』親鸞聖人 著
高原(こうげん)の乾(かわ)いた陸地 には 蓮の花 は 生(しょう)じないが、低い湿地の泥沼(どろぬま) には 蓮の花 が 生(しょう)じる。
↓
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もっとも尊(とうと)ばれる蓮の華は、実は、誰もが理想とするような「明るくて風通しのよい すがすがしい場所」に育つのではない。
「誰からも遠ざけられるような、汚(きたな)らしく ジメジメとした泥沼(どろぬま)」にこそ、蓮の華は咲く。
「一切の汚(よご)れ に 汚(よご)されていない 真っ白な蓮華」は、ドロドロと濁(にご)りきった泥沼(どろぬま)の中にしか咲かない。何とも不思議。
↓
「泥沼(どろぬま)」
世間の泥(どろ) に まみれている。
煩悩にあふれた日常に埋没(まいぼつ)して、そこから脱(ぬ)け出(だ)そうにも脱け出せない。
「何が人生の最後の依(よ)り処(どころ)になるのか」を 考えることもできない。
↓
「阿弥陀様 の お浄土」は、浄(きよ)らかな世界 なので、私達が住む濁(にご)った世の中 とは、関係が無い世界のように感じてしまいますが、
「濁(にご)った世の中で、さまざまな煩悩に汚(よご)れきっている あなた達 を迎え入れたい」
と、阿弥陀様が開いてくださった世界 が「お浄土‐蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」。
↓
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〈 言葉の意味 〉
「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」‐②「蓮華」は「仏(ぶつ)の智慧、仏(ぶつ)の悟り」、「蔵(ぞう)」は「中に しまって置く。隠して表(おもて)に現(あらわ)さない。」ということを表現している。
↓
「仏(ぶつ)の悟りの中にある、仏(ぶつ)の心の奥 深い所 に しまわれてあるような世界」
「仏(ぶつ)の智慧の中だけ に 開けている世界」
↓ お浄土は、そこから開かれてきた
形のない「仏(ぶつ)の心の中だけにある世界」が、形を取って現れたのが「お浄土の荘厳(しょうごん)」。
「荘厳(しょうごん)」とは、仏の悟りの中に しまわれてある「形のない世界」が、「形」を取って現れた、ということ。
↓
「お浄土の荘厳」として、天親菩薩の『浄土論』には、二十九種類 お浄土の様子が表現されている。『大無量寿経』では、「四十八願」が「お浄土の荘厳」となる。
↓
〈 言葉の意味 〉
「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」‐③本当の形のない世界。「真如(しんにょ)‐真実」「法性(ほっしょう)‐真実の本性」「報土(ほうど)‐本願によって現れた浄土」「無上仏(むじょうぶつ)‐これ以上 の 仏(ぶつ)の悟り は 無い」は、同じ意味の言葉。
↓ 「無上仏(むじょうぶつ)」(最晩年(さいばんねん)の親鸞聖人の境地(きょうち))
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『末燈鈔(まっとうしょう)』五通目(親鸞聖人 八十六歳の時 の お手紙)
阿弥陀仏の本願は、すべてのもの を「無上仏(むじょうぶつ)に ならせよう」と お誓いになっています。「無上仏(むじょうぶつ)」というのは、「形を超えた この上ない悟り そのもの」を いうのです。形を離れているから、「自然(じねん)(自力を捨てて、如来の法則に従(したが)うこと)」と いうのです。
「形がある」と示す時には、「この上ない悟り」とは いいません。
「形を離れた この上ない悟り を 知らせよう」として示(しめ)された姿(すがた)を、「阿弥陀仏」というのである と聞いています。
↓
阿弥陀様は「無上仏(むじょうぶつ)‐形を離れた この上ない悟り」を 知らせよう」として現れてくださった。
「浄土真宗 の ご本尊 阿弥陀如来」の「心の奥深く に しまわれている蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)(お浄土)」は、形を離れていて、形が無い。
↓
私達は「形の無いもの が 形になっている」ということを知らないために、今ある「形」が「真実である」と思い込んで、「形」に とらわれ、都合のいい 知識 や 物 を飾って、自分を固め、「形」に 苦しみ、腹を立てたり 悩んだり 迷ったりしている。
↓
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「我見(がけん)」
「自分は こういうものだ」と決めてつけて、「これが「自分」だ」と思い込んで、さらに 鎧(よろい)をまとうように、
「自分らしいもの」を集めてきて、「自分」をガチガチに作り上げて行く。
(自分が思い込んでいるような「自分」は、本当は いない。)
この「我見(がけん)」が、人間の煩悩の一番の根本になってくる。そこから、「間違った心」を起こし、とらわれて、振り回されて、次から次へと煩悩が沸き起こってきて、苦しんでいる。
↓ お念仏をいただくならば、
『正信偈』
すなわち真如(しんにょ)法性(ほっしょう)の身(しん)を証(しょう)せしむ と。
〈 言葉の意味 〉
「すなわち」‐即座に。すぐ その場で。
「真如(しんにょ)」‐真実。
「法性(ほっしょう)」‐真実の本性。
「証(しょう)せしむ」‐悟りを体得(たいとく)することができる。
↓
阿弥陀様を 心から敬(うやま)い、自力の計(はか)らい を 止(や)めて、他力(阿弥陀様 の ご本願)に心身(しんしん)をゆだね、お念仏をいただくならば、「本当の形のない世界‐蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)が全部わかる」というようなことではないけれども、少し蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)を感じ、「真実の世界 は、形の無い世界なんだ」と頷(うなず)くことができ、「我見(がけん)」が破られ、初めて、心が解放されていく。
そこに、仏教最高の悟りの世界、「真如(しんにょ)」「法性(ほっしょう)」と呼ばれる世界 があり、悩むことも、苦しむこともない、本当に 広く 豊かで、安らかで、静かな世界がある。
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↓
京都では、夏の蒸し暑い時に、涼(すず)しい外の空気がフッと部屋の中に入ってくることを「極楽(ごくらく)の余(あま)り風(かぜ)」と いっている。
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)の余り風 が フッと 我が身 に 触れてくると、「形にとらわれて、苦しんでいた私の心」が解放されていく。
七高僧 第一祖(そ) 龍樹(りゅうじゅ)菩薩は、
「空(くう)‐実体化された私・自分が考えているような私 というようなもの は 無い」と 悟(さと)り、人々に伝えてくださった。
「空(くう)」とは、「なんでもない」ということ。
「私」は、縁次第、条件次第で、なんにでも なっていく。
まとめ
『正信偈』(前回 三月の時に見ました)
功徳大宝海(だいほうかい)に帰入(きにゅう)すれば、必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。
〈 意訳 〉
阿弥陀様を 心から敬(うやま)い、自力の計(はか)らい を止(や)めて、他力(阿弥陀様 の ご本願)に心身(しんしん)をゆだね、お念仏をいただくならば、「この上ない 偉大な宝物のような功徳」が、私達の身に満ちあふれてくる。
私が、阿弥陀様に 心を深く 揺(ゆ)り動かされ、阿弥陀様を ほめたたえる。
すると、お浄土で阿弥陀様の説法(せっぽう)を聞く仲間に入ることになり、「今、この身のまま」で、お浄土への往生 が 確定する。
それまでは、独(ひと)りぼっち で 寂(さび)しい日暮しを送っていた私 だったが、いろいろな違い・利害を超えた「共に阿弥陀様の説法(せっぽう)を聞く 本当の友達」ができ、まことに にぎやかな生活になる。
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↓ このこと と 同時に、「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」を 少し 感じることができる。
今日のお言葉
〈 原文 〉
得(とく)至(し)蓮華蔵世界(れんげぞうせかい) 即(そく)証(しょう)真如法性(しんにょほっしょう)身(しん)
〈 書き下し文 〉
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に至(いた)ることを得(う)れば、すなわち 真如(しんにょ) 法性(ほっしょう) の 身(しん) を証(しょう)せしむ と。
〈 意訳 〉
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)(「蓮華‐仏(ぶつ)の智慧、仏(ぶつ)の悟り」「蔵(ぞう)‐隠(かく)して表(おもて)に現(あらわ)さない」)は、私達に「形のない願い が 形になっている」ということを知らせてくださり、その「形を離れた この上ない悟りの世界」を 少しでも感じることができたならば、人間の煩悩の一番の根本になっている「我見(がけん)‐ありもしない自分 を作り出して安心をしようとする心」から解放され、仏教最高の悟りの世界「真如(しんにょ)」「法性(ほっしょう)」を体得(たいとく)し、初めて、悩むことも、苦しむこともない、本当に 広く 豊かで、安らかで、静かな世界に至(いた)ることができる。
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