33 天親章のまとめ ・ 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼

↑ 練習した音源(約24分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2019/05/10/wish5/』


《 天親章 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より


《 依釈段(いしゃくだん) 天親章(てんじんしょう) 》

〈 原文 〉
天親(てんじん)菩薩造(ぞう)論(ろん)説(せつ) 帰命無碍光如来(むげこうにょらい) 依(え)修多羅(しゅたら)顕(けん)真実 光闡(こうせん)横超(おうちょう)大誓願 広(こう)由(ゆ)本願力(ほんがんりき)回向 為(い)度(ど)群生(ぐんじょう)彰(しょう)一心(いっしん) 帰入(きにゅう)功徳大宝海(だいほうかい) 必(ひつ)獲(ぎゃく)入(にゅう)大会衆(だいえしゅ)数(しゅ) 得(とく)至(し)蓮華蔵世界(れんげぞうせかい) 即(そく)証(しょう)真如法性(しんにょほっしょう)身(しん) 遊(ゆ)煩悩林(りん)現(げん)神通(じんづう) 入(にゅう)生死(しょうじ)園(おん)示(じ)応化(おうげ)

〈 書き下し文 〉
天親(てんじん)菩薩、論(ろん)を造(つく)りて説(と)かく、無碍光如来(むげこうにょらい)に帰命したてまつる。
修多羅(しゅたら)に依(よ)って真実を顕(あらわ)して、横超(おうちょう)の大誓願を光闡(こうせん)す。
広く本願力(ほんがんりき)の回向に由(よ)って、群生(ぐんじょう)を度(ど)せんがために、一心を彰(あらわ)す。
功徳大宝海(だいほうかい)に帰入(きにゅう)すれば、必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に至(いた)ることを得(う)れば、すなわち 真如(しんにょ) 法性(ほっしょう) の 身(しん) を証(しょう)せしむ と。
煩悩の林(はやし)に遊(あそ)びて神通(じんづう)を現(げん)じ、生死(しょうじ)の園(その)に入(い)りて応化(おうげ)を示す、と いえり。

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〈 意訳 〉
天親(てんじん)菩薩(七高僧 第二祖(そ))は、『仏説 無量寿経』を受(う)け止(と)め、『浄土論』という ご書物 を まとめられ、その初めに、
「世尊(せそん)よ(世界中で最も尊い お釈迦様)、私は、あなたの教え に したがい、心を一つにして、十方世界に行き渡って 自在(じざい)に 人々を救われる阿弥陀様 を 信じて、安楽国(浄土)に生まれたいと願っております。(世尊(せそん)我(が)一心 帰命尽(じん)十方  無碍光如来 願(がん)生(しょう)安楽国(あんらくこく))」
という お心 を 表明(ひょうめい)(はっきり あらわし示(しめ)す)されている。
その お姿 から、私達は、
「教え と、本当に 向き合う時には、まず「帰命の心」が なければならない」
と、学ばせていただくのです。
 また、天親(てんじん)菩薩は、『仏説 無量寿経』という「修多羅(しゅたら)」(お経)に依(よ)って書(か)き記(しる)した その『浄土論』 に よって、
「 真実 の すぐれた徳 を具(そな)え、すべての生きとし生けるもの の究極の依(よ)り所(どころ)は、阿弥陀様 の ご本願 に 誓われた名号「南無阿弥陀仏」である。
 そして、「南無阿弥陀仏 を、私達が、素直に受け止め、称(とな)えていくこと」が、
「煩悩具足の凡夫に、迷いの大海(たいかい) を一挙(いっきょ)に超えさせて、一人も もらすことなく、最高の悟り に至(いた)らせたい」という 阿弥陀様の「横超(おうちょう)の大誓願」である。
  「苦悩に満ちた此岸(しがん)(娑婆(しゃば))に生きる すべての凡夫を、覚(さと)りの彼岸(ひがん)(お浄土)に導き 救いたい」という 阿弥陀様の お誓い が「名号‐南無阿弥陀仏」となって 私達に届けられている。
 その「阿弥陀様の本願力」は「回向‐振り向ける」という形をとって、私達に届けられてくる。

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 そして、阿弥陀様が振り向けてくださっている「南無阿弥陀仏」に、私達が真正面に向き合って、素直に、ありがたく、いただくことができれば、「真実の信心」となり、「一心(いっしん)‐二心(ふたごころ)がなく、疑いがない、「唯(ゆい)」の心」となる。
 私達が阿弥陀様に帰依(きえ)(心から敬(うやま)い、まかせきって、最後の依り所とする)」し、「回入(えにゅう)(自力(じりき)の計(はか)らい から 心を回(まわ)らせて、本願という他力 に 心身(しんしん)をゆだねる)」し、お念仏 を いただけば、阿弥陀様が法蔵菩薩であられた時に はかり知ることのできない長い時をかけた
 修行によって成就された「この上ない 偉大な宝物のような功徳」が、私達の身 に 満ちあふれることになる。
  阿弥陀様を讃嘆(さんだん)(心が深く動かされ ほめたたえる)することで、お浄土で阿弥陀様の説法を聞く会座(えざ)(集まり)につらなる大衆(たいしゅう)(大会衆(だいえしゅ))の数(かず)(仲間)に入り、「今、この身のまま」で、お浄土への往生 が 確定する。
 そして、「いろいろな違い」「利害」を超えた、「本当の友(とも)」が与えられ、孤独から離れることができる。
  蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)(「蓮華‐仏(ぶつ)の智慧、仏(ぶつ)の悟り」「蔵(ぞう)‐隠(かく)して表(おもて)に現(あらわ)さない」)とも呼ばれる お浄土 は、「形のない願い が 形になっている」ということを知らせ、私達が「形を離れた この上ない悟りの世界」を 少しでも感じることができたならば、人間の煩悩の一番の根本になっている「我見(がけん)‐ありもしない自分 を作り出し 安心をしようとする心」から解放され、仏教最高の悟りの世界「真如(しんにょ)」「法性(ほっしょう)」を体得し、初めて、悩むことも、苦しむこともない、本当に 広く、豊かで、安らかで、静かな世界に至(いた)ることができる。
  お浄土に往生し、阿弥陀様に助けられた者 が、今度は、その ご恩徳(おんどく) に報(むく)いるために、「命を失うほど危険な 煩悩の林(はやし)」「命の危険もある 非常に恐ろしい 迷いの世界」に、自分の命を懸(か)けて、身を投げ入れて、そこで 人々を救う「阿弥陀様の功徳」を知らせるために、喜んで苦労していく。」
このように、私達に教え示してくださっています。

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《 依釈段(いしゃくだん) 曇鸞章(どんらんしょう) 》


正信偈 の お心
「南無阿弥陀仏という お念仏 が、この世の中に生まれる土台(どだい)となった出来事」と「その お念仏 が この世の中に広まっていった歴史」に感謝をして、合掌をしている。
 その 正信偈の内容 は「浄土真宗の全体 が ここに言い尽くされている」
と いっても過言(かごん)ではない。


正信偈の前の文章の要約(ようやく)(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』行巻(ぎょうのまき) の 終わり)
「阿弥陀様 の ご恩 が、はかりしれないほど深いことを知り、阿弥陀様に身をゆだねて生きる菩薩」が、「正信偈」を作り、申し上げておられる。
その「正信偈」とは、お釈迦様 の 真実 の お言葉 に従(したが)い、大(おお)いなる祖師方(そしがた)の説き明かされた言葉 を 一つ一つ確かめている偈(うた)である。
(正信偈は、親鸞聖人が記(しる)された偈(うた) なのですが、親鸞聖人の「個人的な感情」は、一切 含まれていない ということが ここで いわれている。
 親鸞聖人は、当然 昔からあったはずの「菩薩が阿弥陀様を讃(たた)える偈(うた)」を、「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」(正式名称)と称(しょう)して、文字にして記(しる)しただけ と 思っておられる。)


 ↓「正信偈」は、大きく三つの段落に分けて見ることができる。


第一段 総(そう)讃(さん)
 「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「心の底から阿弥陀様を敬(うやま)い、日々の拠り所として生きていきます」という お心の表明(ひょうめい)。
(「総讃(そうさん)」は、独立している お言葉 だが、正信偈全体を包んでいる お言葉 でも ある。)

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第二段 依経段(いきょうだん)
 「弥陀章(みだしょう)」法蔵菩薩因位(いんに)時(じ) ~ 必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就
 「釈迦章(しゃかしょう)」如来所以(しょい)興出(こうしゅつ)世(せ) ~ 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)
『大(だい)無量寿経』に依(よ)り、
・「弥陀章(みだしょう)」で 現に今 私達に働きかけ続けてくださっている 阿弥陀様 と 阿弥陀様の ご本願 の いわれ を 述べ、
・「釈迦章(しゃかしょう)」で 阿弥陀様 の ご本願 を 私達に伝えるために わざわざ この世に お出(で)ましくださった お釈迦様 を 讃(たた)え、 その お釈迦様の教え を いただく「私達の心構え」が述べられている。


( 結誡(けっかい) )
 弥陀仏本願念仏 ~ 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)
改めて、阿弥陀様 の ご本願 を 振り返り、自(みずか)らを省(かえり)みて、深い懺悔(さんげ)と、 得難(えがた)い信心を獲(え)た喜び とをもって、 「第二段 依経段(いきょうだん)」と 次の「第三段 依釈段(いしゃくだん)」とを つなぐ。


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第三段 依釈段(いしゃくだん)

( 総讃(そうさん) )
 印度(いんど)西天(さいてん)之(し)論家(ろんげ) ~ 明(みょう)如来本誓(ほんぜい)応(おう)機(き)
七高僧が、お釈迦様の お心 を 明らかにしてくださった。
また、「阿弥陀様 の ご本願 が 民族や時代の異(こと)なりをも超えた「本当の救い」 である」と、七高僧の存在 が 証明してくださっている。

 釈迦如来楞伽山(りょうがせん) ~ 必(ひっ)以(ち)信心為(い)能入(のうにゅう)
七高僧が出られて、本願念仏の教え を 正しく伝え、 本願の働(はたら)き に 目覚めるよう 促(うなが)してくださった からこそ、 「大乗(だいじょう)の中の至極(しごく)」と いえる 浄土の真実の教え が 誤(あやま)りなく 島国である日本にまで 伝えられたことを、感銘深く 述べられている。


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これまでは、インドの龍樹(りゅうじゅ)菩薩と天親(てんじん)菩薩を見てきました。
これから、中国の方々、その最初 が 曇鸞大師(どんらんだいし) です。

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《 曇鸞大師(どんらんだいし)(七高僧 第三祖(そ)) 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

 七高僧 第二祖(そ) 天親(てんじん)菩薩(生年(せいねん) 三九五年頃 ~ 没年(ぼつねん) 四八〇年頃)が お亡くなりになられる頃、曇鸞大師(どんらんだいし) は 中国に誕生された(生年(せいねん) 四七六年 ~ 没年(ぼつねん) 五四二年)。
 曇鸞大師(どんらんだいし)は、人生の深い悩みの中で、若(わか)くして出家をされた。
(「曇鸞(どんらん)」という名前は、お釈迦様の本名(ほんみょう)「ゴータマ・シッダッタ」が、中国で「瞿(く)曇(どん) 悉(しっ)達(だっ)多(た)」と音写(おんしゃ)され、その「曇(どん)」の一字と、中国で古くから「めでたい鳥」とされてきた「鸞(らん)」の字をいただかれた。)
 曇鸞大師(どんらんだいし)が仏教を学び始める百年近く前に、中国では、龍樹(りゅうじゅ)菩薩が書き残された『中論(ちゅうろん)』『十二門論(じゅうにもんろん)』『大智度論(だいちどろん)』と、龍樹菩薩の直弟子の聖提婆(しょうだいば)が書かれた『百論(ひゃくろん)』が、中国語に翻訳(ほんやく)され、盛(さか)んに研究されていた。
この四つの『論』は、いずれも「大乗(だいじょう)」の精神を高らかに掲(かか)げ、その精神の根幹(こんかん)となる「空(くう)」の思想が説かれている。
(「大乗(だいじょう)」‐偉大(いだい)な教え。他(ほか)の人々が救われることが、自(みずか)らの救い となる教え。
 「空(くう)」‐あらゆる物事への こだわり から離れること。)
この四つの『論』を 依(よ)りどころ として 仏教を学ぶ人々の集まり が「四論宗(しろんしゅう)」と いわれ、曇鸞大師(どんらんだいし)も、そこに属(ぞく)して、大変すぐれた学僧(がくそう) として、広く尊敬されていた。
(ここでの「宗(しゅう)」とは、「宗派」という意味ではなくて、「学派(がくは)」という意味の言葉。)

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 また、曇鸞大師(どんらんだいし) 当時の中国は、約一七〇年にわたって南北に分断され、北から侵入してきた異民族(いみんぞく) が 北方(ほっぽう) を支配し、南に逃(のが)れた漢民族(かんみんぞく) が 南方(なんぽう)に梁(りょう)という王朝(おうちょう)を建(た)て、栄(さか)えていた。
曇鸞大師(どんらんだいし)は 北方(ほっぽう)の北魏(ほくぎ)という国 に おられたが、その学僧としての名声(めいせい)は、遠く南方(なんぽう)の人々にも知られていた。南方(なんぽう)の梁(りょう)は、文学や芸術など、文化の面(めん)では、北方(ほっぽう)とは 比(くら)べものにならないほど発展していた。
その梁(りょう)の皇帝(こうてい) 武帝(ぶてい)(五〇二年~五四九年 在位(ざいい))は、仏教を手厚く保護すると共に、自(みずか)らも熱心に仏教を学んだ方だった。
そして、遠く北魏(ほくぎ)におられる曇鸞大師(どんらんだいし)を「菩薩」と 深く敬(うやま)っていた。


 ↓


今日 の お言葉

〈 原文 〉
本師(ほんじ)曇鸞(どんらん)梁(りょう)天子(てんし) 常(じょう)向(こう)鸞(らん)処(しょ)菩薩礼(らい)

〈 書き下し文 〉
本師(ほんじ)、曇鸞(どんらん)は、梁(りょう)の天子(てんし) 常(つね)に鸞(らん)のところに向(む)こうて菩薩と礼(らい)したてまつる。

 ↓

お釈迦様 が お亡くなりになられ、本願念仏の伝統 は、龍樹(りゅうじゅ)菩薩から始まった と 言える。
そして、親鸞聖人が顕(あきら)かにされた 浄土真宗の教え は、曇鸞大師(どんらんだいし)が 大きな 先駆(さきが)け となって始まってきた と 言える。
だから、親鸞聖人は、その曇鸞大師(どんらんだいし)の功績を讃(たた)えて、曇鸞大師(どんらんだいし)を「菩薩」と仰(あお)がずには おられなかった。

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しかし、「私(親鸞聖人)が、そのように思っている!」ということでは、十分な理解が得られない と 考えられて、「梁(りょう)の皇帝(こうてい) 武帝(ぶてい)が、曇鸞大師(どんらんだいし)を「菩薩」と仰(あお)いでおられる。
この事実 を 見よ。曇鸞大師(どんらんだいし)は、やはり「菩薩」なのだ!」と、讃(たた)えておられる。

 ↓

《 曇鸞大師(どんらんだいし)(七高僧 第三祖) の ご和讃 》


本師曇鸞和尚(かしょう)は 菩提流支のおしえにて 仙経ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめき
〈 言葉の意味 〉
 菩提流支(ぼだいるし)
 ‐北(きた)印度(いんど)の方(かた)。北魏(ほくぎ)時代に中国に来て多くの経典を訳(やく)した。曇鸞大師(どんらんだいし)に『浄土論』を授(さず)けた。
 仙経(せんぎょう)
 ‐長生不死(ちょうせいふし)の仙術(せんじゅつ)を説いた経典。 
〈 意訳 〉
 曇鸞大師(どんらんだいし)は 菩提流支(ぼだいりゅうし)の教え によって、これまで学んだ仙経(せんぎょう)を焼きすてて、浄土教(じょうどきょう) を 心から深く信じ 敬(うやま)われた。


四論の講説さしおきて 本願他力をときたまい 具縛(ぐばく)の凡衆(ぼんしゅ)をみちびきて 涅槃のかどにそいらしめし
〈 言葉の意味 〉
 四論(しろん)
 ‐中論(ちゅうろん)・百論(ひゃくろん)・十二門論(じゅうにもんろん)・智度論(ちどろん)。
  百論(ひゃくろん)は聖提婆(しょうだいば)の作(さく)、他(ほか)は龍樹(りゅうじゅ)菩薩の作(さく)。
 具縛(ぐばく)
 ‐あらゆる煩悩を身に具(そな)え、その煩悩に縛(しば)られている。
 涅槃(ねはん)のかど
 ‐念仏のこと。念仏を、「浄土に往生し涅槃(ねはん)に至(いた)る門(もん)」に例える。 
〈 意訳 〉
 曇鸞大師(どんらんだいし)は 四論(しろん)を講説(こうせつ)(講義して説明すること)しておられたが、これを中止して本願他力を説き、煩悩具足の凡夫を導いて、念仏の道に入(はい)らしめられた。

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世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆえをとう 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある
〈 言葉の意味 〉
 世俗(せぞく)の君子(くんし)幸臨(こうりん)し
 ‐東魏(とうぎ)の国王(孝静帝(こうせいてい))が曇鸞大師(どんらんだいし)を訪ねて来た。
 浄土のゆえ
 ‐西方浄土を願う いわれ。
〈 意訳 〉
 東魏(とうぎ)の国王が曇鸞大師(どんらんだいし)を訪ねて来て、「十方仏国(じっぽうぶっこく)が皆 浄土であるのに、何故(なぜ)に ただ西方浄土のみを願うのか」と、非難して返答(へんとう)を迫(せま)られた。


鸞師こたえてのたまわく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず
〈 言葉の意味 〉
 地位(じい)
 ‐菩薩の五十二の修行の段階の中 の 下から四一番目「歓喜地(かんぎじ)」の位(くらい)。この境地に到達すると、「私は、間違いなく 仏( ぶつ)に成(な)れる」と確信する。
〈 意訳 〉
 曇鸞大師(どんらんだいし)が答えて 言われるには、「私は 智慧の浅い凡夫 で、いまだ地位(じい)に入っていません。
 だから、十方の仏国(ぶっこく)を均等(きんとう)に念(ねん)ずる力が無いので、西方浄土のみを願うのです。」と。


一切道俗もろともに 帰すべきところぞさらないなき 安楽勧喜のこころざし 鸞師(らんし)ひとりさだめたり
〈 言葉の意味 〉
 安楽歓喜(あんらくかんき)
 ‐安楽浄土を勧(すす)め、そこに帰依(きえ)する こと。
〈 意訳 〉
 当時は、いろいろな憶測(おくそく)が乱(みだ)れ飛(と)び、出家も在家もすべて「行き着く所」に迷っていたが、曇鸞大師(どんらんだいし)一人の努力で、人々に 安楽浄土への往生 を願わしめられた。

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魏の主勅して幷州(へいしゅう)の 大厳寺(だいがんじ)にぞおわしける ようやくおわりにのぞみては 汾州(ふんしゅう)にうつりたまいにき
〈 言葉の意味 〉
 魏(ぎ)の主(しゅ)
 ‐東魏(とうぎ)の皇帝 孝静帝(こうせいてい)。
 幷州(へいしゅう)
 ‐今の山西省(さんせいしょう)太原(たいげん)。
 汾州(ふんしゅう)
 ‐幷州(へいしゅう)の近くにある州(しゅう)。曇鸞大師(どんらんだいし)は この州の石壁(せきへき) 玄忠寺(げんちゅうじ)に住(す)んだ。
〈 意訳 〉
 曇鸞大師(どんらんだいし)は東魏(とうぎ)の孝静帝(こうせいてい)の勅命によって幷州(へいしゅう)の大厳寺(だいがんじ)に住み、晩年には汾州(ふんしゅう)の玄忠寺(げんちゅうじ)に移られた。


魏の天子はとうとみて 神鸞とこそ号せしか おわせしところのその名をば 鸞公厳(らんこうがん)とぞなづけたる
〈 言葉の意味 〉  
 魏(ぎ)の天子(てんし)
 ‐西魏(せいぎ)の皇帝 文帝(ぶんてい)。
 神鸞(しんらん)
 ‐不思議な徳を備(そな)えておられた曇鸞大師(どんらんだいし) のこと。
 号(ごう)せしか
 ‐名づけ たてまつる。
〈 意訳 〉
 西魏(せいぎ)の皇帝 文帝(ぶんてい)は、曇鸞大師(どんらんだいし)を尊(とうと)んで 神鸞(しんらん) と名づけられた。そして、その曇鸞大師(どんらんだいし)が 教え を弘(ひろ)められた 汾州(ふんしゅう)の介山(かいざん)という山の麓(ふもと)にある洞穴(どうけつ) を鸞公厳(らんこうがん)と名づけられて、後世に伝えられた。


浄業さかりにすすめつつ 玄忠寺にぞおわしける 魏の興和(こうか)四年(しねん)に 遥山寺(ようさんじ)にこそうつりしか
〈 言葉の意味 〉
 浄業(じょうごう)
 ‐浄土に往生する行業(ぎょうごう)(行(おこな)い)「念仏」。
 魏(ぎ)の興和四年(こうかしねん)
 ‐五四二年。曇鸞大師(どんらんだいし)六七歳。
 遥山寺(ようざんじ)
 ‐汾州(ふんしゅう)平遥山(へいようざん)にあった山寺(やまでら)。
〈 意訳 〉
 曇鸞大師(どんらんだいし)は玄忠寺(げんちゅうじ)に住(す)まれ、人々に浄土に往生する行(おこな)い「念仏」を盛(さか)んに勧(すす)められた。そして、魏(ぎ)の興和四年(こうかしねん)には平遥山(へいようざん)の山寺(やまでら)に移られた。

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六十有七ときいたり 浄土の往生とげたまう そのとき霊端(れいずい)不思議にて 一切道俗帰敬(ききょう)しき
〈 意訳 〉
 曇鸞大師(どんらんだいし)は、六七歳の入滅(にゅうめつ)の時期が至(いた)り、浄土の往生を遂(と)げられた。
 その臨終(りんじゅう)に霊瑞(れいずい)不思議(不思議な めでたい しるし)が現(あら)われて、在家・出家 すべての人々が、阿弥陀様への信仰 を 深めていった。


君子ひとえにおもくして 勅宣くだしてたちまちに 汾州(ふんしゅう)汾西秦陵(しんりょう)の 勝地に霊廟たてたまう

〈 言葉の意味 〉
 君子(くんし)
 ‐東魏(とうぎ)の皇帝 孝静帝(こうせいてい)。
 汾州(ふんしゅう)汾西(ふんせい)秦陵(しんりょう)
 ‐地名。
 勝地(しょうち)
 ‐勝(すぐ)れた所。
 霊廟(れいびょう)
 ‐お墓。
〈 意訳 〉
 東魏(とうぎ)の皇帝 孝静帝(こうせいてい)は、曇鸞大師(どんらんだいし)の臨終(りんじゅう)に現(あら)れた霊瑞(れいずい)不思議(不思議な めでたい しるし)を聞き、いっそう 敬(うやま)いの心 を深められ、勅宣(ちょくせん)(みことのり)を くだし、汾州(ふんしゅう)汾西(ふんせい)秦陵(しんりょう)の勝(すぐ)れた所を選んで、お墓を建(た)てられた。

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