37 惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃

↑ 練習した音源(約21分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2019/01/31/sweet2/』


《 曇鸞大師(どんらんだいし)(七高僧 第三祖(そ)) 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

今日 の お言葉

〈 原文 〉
惑染(わくぜん)凡夫(ぼんぶ)信心発(ほつ) 証知(しょうち)生死(しょうじ)即(そく)涅槃(ねはん)

〈 書き下し文 〉
惑染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)、信心発(ほっ)すれば、生死(しょうじ) 即(そく) 涅槃(ねはん)なり と 証知(しょうち)せしむ。

〈 言葉の意味 〉
「惑染(わくぜん)」
 「惑(わく)」も「染(ぜん)」も「煩悩(ぼんのう)」の別名。私達は、真実を見失っているために、道理に迷い惑(まど)っていて、また そのために、心が純粋でなく汚染されている。
 ↓
「惑染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)」
 「ただの凡夫」ということではない。煩悩を抱え、煩悩に しっかりと汚く汚く染め上げられ、煩悩に縛(しば)られ、煩悩に振り回され、罪を作り続け、そこから抜け出すこともできずに、苦悩しながら生きている凡夫。
 どうやってみても 信心を起こすことのできない私 のこと。
 「煩悩成就の凡夫」も 同じ意味の言葉。

 ↓
正信偈では、曇鸞大師から「お念仏をいただく人間」について、はっきりとした言い表し方がされてくる。
第四祖(そ) 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の所では「一生造悪(いっしょうぞうあく)‐一生涯 ろくなことをしない人間」
第五祖 善導大師(ぜんどうだいし)の所では「定散(じょうさん)‐正しい心になろう と思うのだけれども、その 心がけ が続かない者」と「逆悪(ぎゃくあく)‐とんでもない罪を作っている者」
第六祖 源信僧都(げんしんそうず)の所では「極重(ごくじゅう)の悪人‐極めて重大な悪をはたらく人」
第七祖 法然上人(ほうねんしょうにん)の所では「善悪の凡夫‐善であろうと、悪であろうと、どちらにしても、愚(おろ)かで悲(かな)しい存在」

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 ↓
「そのような者 こそが、阿弥陀様 の ご本願 の お目当て なんだ!」
ということが、だんだんと はっきりしてくる。
教学(きょうがく)とは、「難しい勉強をする」というわけではなく、教(おし)え に 照らされて、私自身のことを、掘り下げて、知らされていくこと。

 ↓
『高僧和讃』 曇鸞讃 親鸞聖人 著
論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには
 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたまふ
〈 言葉の意味 〉
論主(ろんじゅ)‐『浄土論』を お書きになられた天親菩薩。
〈 意訳 〉
第二祖(そ) 天親菩薩(てんじんぼさつ)が『浄土論』の初めに「世尊(せそん)我(が)一心(いっしん)(世尊(せそん)よ 私は一心(いっしん)に)」と説かれたその「一心(いっしん)」とは、第三祖(そ) 曇鸞大師の『浄土論註(ちゅう)』の解釈によれば、煩悩具足の私達が救われる 他力の信心 である
と いわれる。
 ↓
曇鸞大師が
「阿弥陀様 の ご本願 の お目当てになる者が、惑染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)‐煩悩成就の私達 なのだ!」
ということを明らかにしてくださったおかげで、
「天親菩薩が 一心(いっしん) と言われたのは、煩悩成就の私達 の 他力の信心 のことを一心(いっしん) と教えてくださっているのだ!一心(いっしん) とは、他力の信心 を表している お言葉 なのだ!」
と、はっきり わかることができ、親鸞聖人は曇鸞大師に大変 感謝しておられる。
  ↓

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第一祖(そ) 龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)、第二祖 天親菩薩の所では、
「阿弥陀様 の ご本願 の お目当てになる者」
「信心をいただく人間が どのような者であるのか?」
ということが、まだ はっきりと していなかった。
 ↓
〈 言葉の意味 〉
「信心発(ほっ)すれば」
 「他力の信心」は、凡夫が発(おこ)すものではなくて、阿弥陀様の大慈悲の本願力によって、凡夫の身の上に発(おこ)る。

 ↓「惑染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)」に「信心が発(おこ)れば」どうなるのか?

「生死(しょうじ) 即(そく) 涅槃(ねはん)なり と 証知(しょうち)せしむ。」
〈 言葉の意味 〉
「生死(しょうじ)」‐自分の煩悩によって迷い 苦悩している状態。
 ↓
「涅槃(ねはん)」
 「生死(しょうじ)」の反対の言葉。「生死(しょうじ)」の迷いが解消し 苦悩が滅(めっ)した状態。
 「悟り」「往生」も 同じ意味の言葉。

 ↓ この全(まった)く反対な「生死(しょうじ)」と「涅槃(ねはん)」が「即(そく)」という言葉で結びつけられている。

「即(そく)」‐ただちに。そのまま。

 ↓
「生死(しょうじ) 即(そく) 涅槃(ねはん)なり」
 生死(しょうじ)(迷いの状態)が そのまま 涅槃(ねはん)(悟り)である。
 生死(しょうじ)(迷いの状態)そのままで 往生する。

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 ↓ よく似た言葉

「正信偈」第二段 依経段(えきょうだん)「釈迦章(しゃかしょう)」の初め(平成二十九年八月十日に見ました)
如来所(しょ)以(い)興出(こうしゅっ)世(せ) 唯(ゆい)説(せつ)弥陀本願海(かい) 五濁(ごじょく)悪時(あくじ)群生海(ぐんじょうかい) 応(おう)信(しん)如来如実(にょじつ)言(ごん)能(のう)発(ほつ)一念喜愛(きあい)心(しん) 不(ふ)断(だん)煩悩得(とく)涅槃
〈 書き下し文 〉
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かんとなり。
五濁(ごじょく)悪時(あくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
一念喜愛(きあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、煩悩を断(だん)ぜずして涅槃を得(う)るなり。
〈 意訳 〉
「五濁悪世」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
だからこそ 五濁の悪時に生きる私達は、その お釈迦様 の ご恩 に 報(むく)いるためにも、『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願」の 教え を、信じるべきである。 

 ↓
『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願」の 教え を信じる と、私達は どうなって いくのか?

 ↓ 5つの「信心の利益(りやく)」

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1、大乗(だいじょう)の利益(りやく)
 『大無量寿経』に示されている お釈迦様 の お言葉に従(したが)い、阿弥陀様の願い に 気づかされ、信心を賜(たまわ)り、暗い我執(がしゅう)から はじめて 逃(のが)れて、「本当に求めるべきもの」がはっきりしたならば、阿弥陀様の眼(まなこ)を賜(たまわ)り、煩悩 を 生きる力 に 転(てん)じて、煩悩の支配を離れた「涅槃(ねはん)」の境地に いたることができる。

〈 言葉の意味 〉
「証知(しょうち)せしむ」
 はっきりと思い知らされる。(「証(しょう)」は「明らかにする。はっきりさせる。」という意味がある。)


まとめ

今日 の お言葉
〈 原文 〉
天親菩薩論(ろん)註解(ちゅうげ) 報土(ほうど)因果(いんが)顕(けん)誓願(せいがん) 往(おう)還(げん)回向(えこう)由(ゆ)他力 正定(しょうじょう)之(し)因(いん)唯(ゆい)信心 惑染(わくぜん)凡夫(ぼんぶ)信心発(ほつ) 証知(しょうち)生死(しょうじ)即(そく)涅槃(ねはん)
〈 書き下し文 〉
天親菩薩の論(ろん)、註解(ちゅうげ)して、報土(ほうど)の因果(いんが)、誓願(せいがん)に顕(あらわ)す。
往(おう)・還(げん)の回向(えこう)は他力に由(よ)る。正定(しょうじょう)の因(いん)は ただ信心なり。
惑染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)、信心発(ほっ)すれば、生死(しょうじ)即(そく)涅槃(ねはん)なり と 証知(しょうち)せしむ。

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〈 意訳 〉
曇鸞大師(どんらんだいし)は、天親(てんじん)菩薩の『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』の解説書『浄土論(ろん)』を、「もっと、わかりやすいように」と、今一度『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』に『浄土論(ろん)』を照らし合わせながら、註釈(ちゅうしゃく)を施(ほどこ)し解説をされた『浄土論註(ちゅう)』を記してくださった。
そして、『浄土論』で記されていなかった お心 を『浄土論註(ちゅう)』に明らかにしてくださっている。その一つが、
「阿弥陀様の お浄土 は、法蔵菩薩であられたときに立てられた 四十八の誓願(せいがん) とその誓願(せいがん)を実現するための修行 によって現(あらわ)れた世界であり、阿弥陀様の十劫(じっこう)という果(は)てしなく長い ご苦労 があって 現れた、ご本願 が 報(むく)いられた国(こく)土(ど)(報土(ほうど))なのです。だから、
 ・「因(いん)(原因)‐お浄土が現れる原因となった出来事」も、
 ・「果(か)(結果)‐現れた お浄土の姿・お働き」も、
 ・「お浄土に往生する因(いん)(原因)‐お念仏」も、
 ・「お浄土に往生する という果(か)(結果)‐成仏(じょうぶつ)」も、
 その すべて が、ご本願 の お働き、完全な「他力」なのです。」
ということでした。

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また、天親(てんじん)菩薩と曇鸞大師(どんらんだいし)は、次のような「回向(えこう)の相(すがた)」を明らかにしようとしてくださいました。
「私達 凡夫が、阿弥陀様 の お心 に触(ふ)れる ご縁 に恵(めぐ)まれれば、
 ・「お浄土に往(ゆ)きたい と願(ねが)い、お浄土に向かって 歩み 助けられていく‐往相(おうそう)」
  という相(すがた)が、阿弥陀様から回向(えこう)される。
 ・そうして、私自身が助けられた からこそ、
  「周りの人達も、阿弥陀様に助けられてほしい」という 熱(あつ)い想(おも)い に突(つ)き動(うご)かされて、「助からない 迷い 苦労のつきまとう世界 に、明るく身を投げ出して、喜んで、苦労ができる者へ と お育ていただく‐還相(げんそう)」
  という相(すがた)が、阿弥陀様から回向(えこう)される。
 そうなってこそ、初めて、私自身が「本当に助かっている」と実感がわき、幸せな心 になれる。
 ただし、私達 凡夫は、「阿弥陀様に育(そだ)てられて、叱(しか)られて、自分に厳(きび)しく生きていく‐往相(おうそう)の歩み」に徹底(てってい)していくことしかできない。
 なぜならば、還相回向(げんそうえこう)とは、私達が意識をして励(はげ)むもの ではなく、浄土へ向かって歩む行者(ぎょうじゃ)の後(うし)ろ姿(すがた) が、計(はか)らずも、周りの人々に何(なん)らかの影響を与(あた)え、突(つ)き動(うご)かしていく、という相(すがた)だからである。
 そして、この往相回向(おうそうえこう)も還相回向(げんそうえこう)も、私達の努力 で 成(な)し得(え)るものではなく、すべては「阿弥陀様 の お力‐他力」に由(よ)る。
 ただし、阿弥陀様が、このように 私達の救われる道 をご用意してくださっていても、阿弥陀様 の ご本願 に 素直に従(したが)い おまかせする 他力の信心 が、私達の心に宿(やど)らなければ、阿弥陀様の救いの道が、全(まった)く 私とは関係のないこと になってしまう。」

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そして、
「煩悩を抱え、煩悩にしっかりと汚く汚く染め上げられ、煩悩に縛(しば)られ、煩悩に振り回され、罪を作り続け、そこから抜け出すこともできずに、苦悩しながら生きている‐惑染(わくぜん)の凡夫 に、他力の信心 が発(おこ)れば、迷いのまま で 往生させていただくことが、はっきりと思い知らされ、無碍(むげ)の世界(何ものにも妨げられない世界)が開かれてくる。」
と、曇鸞大師(どんらんだいし)は『浄土論註(ちゅう)』に お示しくださいました。

 ↓ 親鸞聖人は、七高僧 第三祖 曇鸞大師から「他力」を学ばれた。

親鸞聖人が七高僧を定められた基準(平成三十年五月十日に見ました)
一、七高僧には、それぞれに すばらしい著書がある。
 「著書が後世(こうせい)に残っている」ということは、七高僧は その時代 その時代の仏教界を代表する大学者であった、ということ。
二、七高僧は、それぞれ「大学者」ではあるが、著書を通して、自らを省みて、信仰を告白しておられる。私達と同じ「凡夫」という立場に身を置いて、愚かな私達 民衆の代表 として、念仏の教え を、本願のいわれ を明らかにしてくださっている。
三、七高僧それぞれが、浄土真宗の「ある一面」の 大事なこと を見つけられて、明らかにしてくださっている。

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