↑ 練習した音源(約32分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2019/01/16/snowy_village/』
《 曇鸞大師(どんらんだいし)(七高僧 第三祖(そ)) 》
『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より
今日 の 要点
『浄土論(ろん)註(ちゅう)』曇鸞大師(どんらんだいし) 著(ちょ)‐
七高僧 第二祖(そ) 天親菩薩が記された『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』の解説書『浄土論(ろん)』を、「もっと、わかりやすいように」と、今一度『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』に照らし
合わせながら『浄土論』に註釈(ちゅうしゃく)を施(ほどこ)し 解説された ご書物。
その主旨(しゅし)(最も中心となる事柄)は、「三願的証(さんがんてきしょう)」で あった。
↓
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「三願的証(さんがんてきしょう)」
第十八願・第十一願(往相(おうそう)回向) 第二十二願(還相(げんそう)回向)この三つの誓願(せいがん)を的(ただ)しく あげて、私達が お浄土に往生する因(いん) も 果(か) も阿弥陀様の ご本願 の お働き によることを証明する。
(阿弥陀様の四十八願の中で「衆生往生の因果」となっているのがこの三願である、ということも 明らかにされている。)
↓
その「三願的証(さんがんてきしょう)」が、「正信偈」の《 曇鸞章(どんらんしょう) 》に簡潔(かんけつ)に示されていた。
第十八願 ・・・・・ 惑染(わくぜん)凡夫(ぼんぶ)信心発(ほつ) 証知(しょうち)生死(しょうじ)即(そく)涅槃(ねはん) ・・・ 往相(おうそう)回向
↓「惑染(わくぜん)の凡夫のまま で 助けられる」という無碍(むげ)(何ものにも妨(さまた)げられない)の救い が成就(じょうじゅ)し、その誓願(せいがん)の不思議によって、惑染(わくぜん)の凡夫 に 無碍(むげ)の世界(何ものにも妨(さまた)げられない世界)が開かれてくる。
第十一願 ・・・・・ 必(ひっ)至(し)無量光明土(ど) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 往相(おうそう)回向
↓「惑染の凡夫 に 他力の信心 が 宿(やど)り、無量光明土(お浄土)で成仏(じょうぶつ)することが約束され、また同時に、お浄土に 行き着く のではないが、ただちに お浄土 と 直接 結びつく ことになる。
そうして、お浄土と直接つながり、お浄土へ向かって歩む行者(ぎょうじゃ)の上 には、お浄土の光 が 降(ふ)り注(そそ)ぎ、お浄土の功徳 が 与えられていく(浄土に往生する)。
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第二十二願 ・・・ 諸有(しょう)衆生皆(かい)普(ふ)化(け) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 還相(げんそう)回向
↓ お浄土と直接つながり、「あらゆる世界は 阿弥陀様の光を受けて輝いている、あらゆる世界が そのまま 阿弥陀様の世界である、すべての世界 が お浄土なんだ!(無量光明土)」と受け取られ、今度は、喜んで、迷いの世間 に 立ち戻り、苦労ができる者へ とお育ていただく。
この「三願的証(さんがんてきしょう)」によって、往(おう)還(げん)回向由(ゆ)他力 正定(しょうじょう)之(し)因(いん)唯(ゆい)信心 が証明される。
↓ 詳しく 見ていきますと
第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん) 往相(おうそう)信心の願(がん) の ご和讃 『浄土和讃』親鸞聖人 著
至心信楽(しんぎょう)欲生(よくしょう)と 十方諸有をすすめてぞ 不思議の誓願あらわして 真実報土の因とする
〈 言葉の意味 〉
至心(ししん)信楽(しんぎょう)欲生(よくしょう)‐第十八願の三心(さんしん)。至心(ししん)は如来の真実心、信楽(しんぎょう)は深く信じて疑いのない心、欲生(よくしょう)は浄土へ生またい と思う心。
十方諸有(しょう)‐あらゆる衆生。
すすめて‐阿弥陀様が呼びかけられている。
-5-
〈 意訳 〉
第十八願に、
「私の誓願(せいがん)の真実を深く信じて、お浄土へ生まれたい と思ってください」と、
阿弥陀様が あらゆる衆生に呼びかけられ、誓願(せいがん)の不思議を現(あら)わして、
(その阿弥陀様の呼びかけ に 素直に頷(うなず)いて おまかせする信心を)
真実 の お浄土に往生する因(いん) と される。
↓ そのことが「正信偈」の《 曇鸞章(どんらんしょう) 》では、
前回 の お言葉
〈 原文 〉
惑染(わくぜん)凡夫(ぼんぶ)信心発(ほつ) 証知(しょうち)生死(しょうじ)即(そく)涅槃(ねはん)
〈 書き下し文 〉
惑染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)、信心発(ほっ)すれば、生死(しょうじ) 即(そく) 涅槃(ねはん)なり と 証知(しょうち)せしむ。
〈 意訳 〉
「煩悩を抱え、煩悩に しっかりと 汚く 汚く 染め上げられ、煩悩に縛(しば)られ、煩悩に振り回され、罪を作り続け、そこから抜け出すことも できずに、苦悩しながら生きている‐惑染(わくぜん)の凡夫 に、他力の信心 が 発(おこ)れば、迷いのまま で 往生させていただくことが、はっきり と 思い知らされ、無碍(むげ)の世界(何ものにも妨げられない世界)が開かれてくる。」
と、曇鸞大師(どんらんだいし)は『浄土論註(ちゅう)』に お示しくださいました。
↓
第十八願によって「惑染(わくぜん)の凡夫のまま で 助けられる」という無碍(むげ)(何ものにも妨げられない)の救い が成就し、その誓願(せいがん)の不思議によって、惑染(わくぜん)の凡夫 に 無碍(むげ)の世界(何ものにも妨げられない世界)が開かれてくる。
↓ そのことによって、
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第十一願 必至滅度(ひっしめつど)の願(がん) の ご和讃 『浄土和讃』親鸞聖人 著
真実信心うるひとは すなわち定聚(じょうじゅ)のかずにいる 不退のくらいにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ
〈 言葉の意味 〉
真実信心‐第十八願の和讃を承(う)けて いわれている言葉。
定聚(じょうじゅ)のかず‐正定聚(しょうじょうしゅ)のこと。お浄土に往生すべき身になる。
不退(ふたい)のくらい‐不退転(ふたいてん)のこと。仏道修行において、すでに得た 境地 や 信心 を 失わない。
滅度(めつど)‐「涅槃(ねはん)」を訳した言葉。無量光明土(ど)(浄土)も同じ意味の言葉。生死(しょうじ)(迷い)の因果を滅(めっ)した境地。
かならず滅度(めつど)にいたらしむ‐「私達が、この世の命 終われば、お浄土に生まれて、滅度(めつど)にいたることは、阿弥陀様が お約束してくださっている」という意味に受け取ることができるが、
「阿弥陀様 の ご本願 に 素直に従(したが)いおまかせする 他力の信心 が、私の心に宿(やど)ったならば、浄土に 行き着く のではなく、ただちに 浄土と直結(ちょっけつ)する、直接つながる」というようにも受け取ることができる。
「浄土と直結(ちょっけつ)する」ことを「往生」という。
浄土と直接つながり、浄土へ向かって歩(あゆ)むから、浄土の光 や 浄土の功徳が その人の上に与えられてくる。
〈 意訳 〉
他力真実の信心を獲(え)る人は、ただちに正定聚(しょうじょうしゅ) 不退(ふたい)の位(くらい)に入(はい)る。
不退(ふたい)の位(くらい)に入ってしまえば、必然的に滅度(めつど)に いたらしめられる。
また、このことは「往生」ということも表現していて、信心を獲(え)れば、浄土に 行き着く のではなく、ただちに 浄土と直接 結びつく。
浄土と直接つながり、浄土へ向かって歩む行者の上に、浄土の光 や 浄土の功徳が与えられてくる。それを「浄土に往生する」という。
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↓ そのことが「正信偈」の《 曇鸞章(どんらんしょう) 》では、
今日 の お言葉
〈 原文 〉
必(ひっ)至(し)無量光明土(ど)
〈 書き下し文 〉
必ず無量光明土(ど)に至(いた)れば、
〈 言葉の意味 〉
「無量光明土(ど)」‐限りのない光が輝いている国土‐阿弥陀様の極楽浄土のこと。
また、曇鸞大師は「第十一願 必至滅度(ひっしめつど)の願(がん)」を念頭(ねんとう)に置いて、お浄土のこと を「無量光明土」と いわれているので、涅槃(ねはん)(あらゆる煩悩が消滅(しょうめつ)し、苦しみを離(はな)れた安(やす)らぎの境地)・滅度(めつど)(生死(しょうじ)の迷いを超越(ちょうえつ)した さとりの境地)は 同じ意味の言葉になる。
↓
阿弥陀様が仏(ぶつ)に成(な)られる前、法蔵(ほうぞう)という名の菩薩であられた時、四十八の願い と 誓(ちか)い を お立てになられ、その第十二願が「光明無量の願(がん)」と 呼ばれている。
↓
第十二願 光明無量の願(がん)
私が仏(ぶつ)になるとき、私の光明には 限り が無く、数限りない仏方(ほとけがた)の国々の すべて を照らすでしょう。
そうでなければ、私は決して 悟り を 開きません。
↓
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「たとえ 仏(ぶつ)に成(な)る としても、その浄土の光明の輝き に 限りがあって、途方(とほう)もなく数多い仏方(ほとけがた)の国々を すべて 照らさないのであれば、私は 仏(ぶつ)には成(な)らない。」という 誓い を、法蔵菩薩は 立てられた。
↓
そして、その誓い が 実(みの)り、願い が 報(むく)いられ、法蔵菩薩 は、阿弥陀仏 に成(な)られた。
このために、阿弥陀仏の浄土 は「無量光明土(ど)」と呼ばれている。
(お経に出てくる「無量光明土」は「あらゆる仏方(ほとけがた)の光ある世界」ということを表現している お言葉なのですが、親鸞聖人は「仏方(ほとけがた)の世界は、阿弥陀様の光を受けて輝いている」と受け取られて、「諸仏の世界が、そのまま、阿弥陀様の世界である」という思いで「無量光明土」といっておられる。)
〈 意訳 〉
「惑染の凡夫 に 他力の信心 が 宿(やど)ったならば、無量光明土(お浄土)で成仏(じょうぶつ)することが約束され、また同時に、「お浄土に 行き着く」のではないが、ただちに お浄土と直接 結びつく。
そうして、お浄土と直接つながり、お浄土へ向かって歩む行者(ぎょうじゃ)の上には、お浄土の光 が 降(ふ)り注(そそ)ぎ、お浄土の功徳 が 与えられてくる(浄土に往生する)
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↓ そのことによって、
第二十二願 還相(げんそう)回向の願(がん) の ご和讃 『高僧和讃』親鸞聖人 著
還相の回向ととくことは 利他教化(りたきょうけ)の果をえしめ すなわち諸有(しょう)に回入(えにゅう)して 普賢(ふげん)の徳を修(しゅ)するなり
〈 言葉の意味 〉
利他(りた)‐他を救済(きゅうさい)する。
諸有(しょう)‐十方のすべての衆生。
廻入(えにゅう)‐自力(じりき)の心(こころ)を ひるがえして他力に帰(き)し真実の世界に入る。
普賢(ふげん)の徳(とく)‐仏(ぶつ)の至極(しごく)の慈悲(じひ)。浄土に往生した者に与えられる還相(げんそう)回向の徳。
〈 意訳 〉
「還相(げんそう)回向」とは、浄土に往生し すぐれた悟りの境地を えた者 が、
生死(しょうじ)の迷(まよ)いの世界 に 引き返して来て、
他の衆生を教化し救済(きゅうさい)する「仏(ぶつ)の至極(しごく)の慈悲」を行(おこな)う力(ちから)を えさせることを
いう。
↓ そのことが「正信偈」の《 曇鸞章(どんらんしょう) 》では、
今日 の お言葉
〈 原文 〉
諸有(しょう)衆生皆(かい)普(ふ)化(け)
〈 書き下し文 〉
諸有(しょう)の衆生、みな あまねく化(け)す と いえり。
〈 言葉の意味 〉
「諸有(しょう)の衆生」‐あらゆる人々。
「化(け)す」‐教化する。人々を教え導いて仏道に入(はい)らせる。
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〈 意訳 〉
(「惑染(わくぜん)の凡夫が、他力の信心 を獲(え)て、無量光明土(お浄土)への往生 を果(は)たすならば、)
「阿弥陀様 の ご本願 によって、迷いの世間 に 立ち戻り、あらゆる人々を教化することになる。」
と、曇鸞大師(どんらんだいし)は教えておられるのです。
↓
穢土(えど) から 浄土へ向かう のが 往相(おうそう)回向。「自力で浄土に生まれよう」とすれば、越えられない大きな壁 が現れる。
ところが、第十八願 と 第十一願 によって、他力の信心 が 宿(やど)り、ひとたび浄土と直接つながれば、「無碍(むげ)(何ものにも妨げられない)の救い が身に付き、浄土の光 と 功徳 が 与えられる。
そのことを通して、今度は逆に、第二十二願によって、「あらゆる世界は 阿弥陀様の光を受けて輝いている、
あらゆる世界が、そのまま、阿弥陀様の世界である。(無量光明土)」と受け取られて、穢土(えど) が 浄土の中 に 入(はい)り込(こ)んでくる。
「穢土(えど)から浄土へ生まれよう」とすれば、越(こ)えられない大きな壁が現れるが、ひとたび、大きな壁を超えて、浄土と直接つながれば、「すべての世界 は 浄土なんだ!(無量光明土)」と受け取られ、今度は、喜んで、穢土(えど) に 立ち戻り、苦労ができる者へ と お育ていただく。
これが還相(げんそう)回向。
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《 依釈段(いしゃくだん) 曇鸞(どんらん)章(しょう) 》
〈 原文 〉
本師(ほんじ)曇鸞(どんらん)梁(りょう)天子(てんし) 常(じょう)向(こう)鸞(らん)処(しょ)菩薩礼(らい) 三蔵(さんぞう)流支(るし)授(じゅ)浄教(じょうきょう) 焚焼(ぼんしょう)仙経(せんぎょう)帰(き)楽邦(らくほう) 天親菩薩論(ろん)註解(ちゅうげ) 報土(ほうど)因果(いんが)顕(けん)誓願(せいがん) 往(おう)還(げん)回向由(ゆ)他力 正定(しょうじょう)之(し)因(いん)唯(ゆい)信心 惑染(わくぜん)凡夫(ぼんぶ)信心発(ほつ) 証知(しょうち)生死(しょうじ)即(そく)涅槃(ねはん) 必(ひっ)至(し)無量光明土(ど) 諸有(しょう)衆生皆(かい)普(ふ)化(け)
〈 書き下し文 〉
本師(ほんじ)、曇鸞(どんらん)は、梁(りょう)の天子(てんし) 常(つね)に鸞(らん)のところに向(む)こうて 菩薩 と 礼(らい)したてまつる。
三蔵(さんぞう)流支(るし)、浄教(じょうきょう)を授(さず)けしかば、仙経(せんぎょう)を焚焼(ぼんしょう)して楽邦(らくほう)に帰(き)したまいき。
天親菩薩の論(ろん)、註解(ちゅうげ)して、報土(ほうど)の因果(いんが)、誓願(せいがん)に顕(あらわ)す。
往(おう)・還(げん)の回向 は 他力 に 由(よ)る。正定(しょうじょう)の因(いん) は ただ 信心 なり。
惑染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)、信心発(ほっ)すれば、生死(しょうじ) 即(そく) 涅槃(ねはん) なり と 証知(しょうち)せしむ。
必ず無量光明土(ど)に至(いた)れば、諸有(しょう)の衆生、みな あまねく化(け)す と いえり。
〈 意訳 〉
私達の師である曇鸞大師(どんらんだいし)は、龍樹(りゅうじゅ)菩薩が書き残された『中論(ちゅうろん)』『十二門論(じゅうにもんろん)』『大智度論(だいちどろん)』と 龍樹菩薩の直弟子の聖提婆(しょうだいば)が書かれた『百論(ひゃくろん)』を 依(よ)りどころとして 仏教を学ぶ「四論宗(しろんしゅう)」に属(ぞく)して、大変すぐれた学僧 として 広く尊敬され、人々から「菩薩」と仰(あお)がれていた。事実、南方(なんぽう)の梁(りょう)という国の皇帝(こうてい) 武帝(ぶてい)は、いつも、曇鸞大師がおられる遠い北方(ほっぽう)の北魏(ほくぎ)という国に向かって、曇鸞大師を「菩薩」と深く敬(うやま)って拝(おが)んでおられた。
曇鸞大師(どんらんだいし)は 五十歳を越えてから『大集経(だいじっきょう)』という 難解(なんかい)で 六十巻もある お経の註釈(ちゅうしゃく)に、厳(きび)しく打ち込まれた ためか、病(やまい)に かかられ、
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「広大な仏法を極(きわ)め、また『大集経(だいじっきょう)』の註釈(ちゅうしゃく)を完成させるには、健康な心身(しんしん) と 長寿(ちょうじゅ) を得なければならない・・
途中で死んでしまえば、結局 なんにもならない・・
まずは、長生き できる工夫 を しなければならない!」
と、迷われ、南方(なんぽう)おられた陶弘景(とうこうけい)という道教(どうきょう)の指導者に、長生(ちょうせい)不老(ふろう)の術(じゅつ)を一生懸命 学ばれ、長生(ちょうせい)不老(ふろう)の術(じゅつ)を説(と)いた道教(どうきょう)の経典(きょうてん) 十巻 を授(さず)けられたのでした。
曇鸞大師(どんらんだいし)は 喜び 勇(いさ)んで 北魏(ほくぎ)へ帰られた途中(とちゅう)、洛陽(らくよう)の都(みやこ)に立ち寄られる と、ちょうど インドから 三蔵法師(さんぞうほうし)の菩提流支(ぼだいるし)という僧(そう) が来(き)ていて、お経の翻訳(ほんやく)をしながら、中国の僧侶 を教導(きょうどう)していたのです。曇鸞大師は、秘伝(ひでん)の道教(どうきょう)の経典(きょうてん) を授(さず)けられたばかりで、鼻息(はないき)が荒(あら)く、菩提流支(ぼだいるし)に、誇(ほこ)らしげに、「自分は長生(ちょうせい)不老(ふろう)の術(じゅつ)を学んできたばかりである。インドには このような術(じゅつ)はあるのか?」
と、尋ねてしまわれた。途端(とたん)に、菩提流支(ぼだいるし)は、唾(つば)を吐(は)き捨てて、目から火が出るほど、叱(しか)りつけたのです。
「何という愚(おろ)かなことだ・・仏法以外に長生不死(ちょうせいふし)があるものか!
君は『大集経(だいじっきょう)』の勉強 をしている と 聞いていたが、なんという根性だ。
仏法とは、智慧の道だ。悟りの道だ。いつ死んでもいい と言えるのが、仏法だ。
長生きしなければいけない と、君 は 言うが、本当に 永遠の命 と呼べるものは、仏道にしか 無いんだ(無量寿のこと)。
仏法の勉強をしながら、それが わからなかったのか!
せいぜい 長生き すればいい。そんな根性の君に、仏法は もったいない!」
と、本当に、ものすごく叱(しか)られたのです。
曇鸞大師は、まっ正直に、菩提流支(ぼだいるし)の言葉 を 受け取られて、
「ああ、そうであった・・私は、間違っていた・・
長生(ちょうせい)不老(ふろう)などというものは、愚(おろ)かな欲(よく)望(ぼう)に過(す)ぎなかったのだ・・」
と、気が付かれたのです。
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そして、菩提流支(ぼだいるし)は、ただ叱(しか)るだけ ではなくて、曇鸞大師に「これを読むように」と浄教(じょうきょう)(菩提流支(ぼだいるし) ご自身が翻訳(ほんやく)された 七高僧 第二祖(そ)天親菩薩が記された『浄土論』)を授(さず)けられたのでした。
そして、曇鸞大師は、
「こんな仙経(せんぎょう)があるから、人は 愚(おろ)かな迷(まよ)い を 繰り返すのだ・・
これを残しておくことは できない・・」
と、大切にしておられた仙経(せんぎょう)を惜(お)しげもなく焼き捨て、また、自分の迷い も 共に焼き捨てられて、「楽邦(らくほう)」(阿弥陀様の安楽浄土に往生する教え)に 帰(き)依(え)(拠(よ)り所(どころ)にする)されたのでした。
曇鸞大師は、菩提流支(ぼだいるし)から授(さず)けられた 天親菩薩の『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』の解説書『浄土論(ろん)』を、「もっと、わかりやすいように」と、今一度『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』に『浄土論(ろん)』を照らし合わせながら、註釈(ちゅうしゃく)を施(ほどこ)し解説をされた『浄土論註(ちゅう)』を記してくださった。そして、『浄土論』で記されていなかった お心 を『浄土論註(ちゅう)』に明らかにしてくださっている。その一つが、
「阿弥陀様の お浄土 は、法蔵菩薩であられたときに立てられた 四十八の誓願(せいがん) と
その誓願(せいがん)を実現するための修行 によって現(あらわ)れた世界であり、
阿弥陀様の十劫(じっこう)という果(は)てしなく長い ご苦労 があって 現れた、
ご本願 が 報(むく)いられた国(こく)土(ど)(報土(ほうど))なのです。だから、
・「因(いん)(原因)‐お浄土が現れる原因となった出来事」も、
・「果(か)(結果)‐現れた お浄土の姿・お働き」も、
・「お浄土に往生する因(いん)(原因)‐お念仏」も、
・「お浄土に往生する という果(か)(結果)‐成仏(じょうぶつ)」も、
その すべて が、ご本願 の お働き、完全な「他力」なのです。」
ということでした。
また、天親(てんじん)菩薩と曇鸞大師(どんらんだいし)は、次のような「回向(えこう)の相(すがた)」を明らかにしよう としてくださいました。
ー14-
「私達 凡夫が、阿弥陀様 の お心 に触(ふ)れる ご縁 に恵(めぐ)まれれば、
・「お浄土に往(ゆ)きたい と願(ねが)い、お浄土に向かって 歩み 助けられていく‐往相(おうそう)」
という相(すがた)が、阿弥陀様から回向(えこう)される。
・そうして、私自身が助けられた からこそ、
「周りの人達も、阿弥陀様に助けられてほしい」という 熱(あつ)い想(おも)い に
突(つ)き動(うご)かされて、「助からない 迷い 苦労のつきまとう世界 に、明るく
身を投げ出して、喜んで、苦労ができる者へ と お育ていただく‐還相(げんそう)」
という相(すがた)が、阿弥陀様から回向(えこう)される。
そうなってこそ、初めて、私自身が「本当に助かっている」と 実感が わき、幸せな心 になれる。」
そして、曇鸞大師(どんらんだいし)の『浄土論註(ちゅう)』は、その「回向(えこう)の相(すがた)」を「三願的証(さんがんてきしょう)」として記すことを主旨(しゅし)(最も中心となる事柄)とした ご書物でした。
(「三願的証(さんがんてきしょう)」‐阿弥陀様の四十八願の中の三願 を 的(ただ)しく あげて、
「衆生往生の因果」は 阿弥陀様の ご本願 の お働き によることを証明する。
その内容は、第十八願の往相(おうそう)回向 により 第十一願の往相(おうそう)回向 が成就し、
第十一願の往相(おうそう)回向 により、第二十二願の還相(げんそう)回向 が成就していることを明らかにする。)
その 曇鸞大師(どんらんだいし)の「三願的証(さんがんてきしょう)」を簡潔(かんけつ)に示せば、次の通りです。
「第十八願 往相(おうそう)信心の願(がん) により、
「煩悩を抱え、煩悩に しっかりと 汚く 汚く 染め上げられ、煩悩に縛(しば)られ、
煩悩に振り回され、罪を作り続け、そこから抜け出すこともできずに、
苦悩しながら生きている‐惑染(わくぜん)の凡夫」
に、他力の信心 が発(おこ)れば、
「惑染(わくぜん)の凡夫のまま で 助けられる」という
無碍(むげ)(何ものにも妨げられない)の救い が成就(じょうじゅ)し、その誓願(せいがん)の不思議によって、
惑染(わくぜん)の凡夫 に 無碍(むげ)の世界(何ものにも妨げられない世界)が開かれてくる。
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この 第十八願の往相回向 によって、第十一願 必至滅度(ひっしめつど)の願(がん)が成就し、
無量光明土(お浄土)で成仏(じょうぶつ)することが約束され、また同時に、
お浄土に 行き着く のではないが、ただちに お浄土と直接 結びつく ことになる。
そうして、お浄土 と 直接つながり、お浄土へ向かって歩む行者 の 上 には、
お浄土の光 が 降り注ぎ、お浄土の功徳 が 与えられていく(浄土に往生する)。
この 第十一願の往相回向 によって、第二十二願 還相(げんそう)回向の願(がん) が成就し、お浄土 と 直接つながり、
「あらゆる世界は 阿弥陀様の光を受けて輝いている、
あらゆる世界が そのまま 阿弥陀様の世界である、
すべての世界が お浄土なんだ!(無量光明土)」と 受け取られ、
今度は、喜んで、迷いの世間 に 立ち戻り、苦労ができる者 へと お育てくださる
還相(げんそう)回向 が 与えられてくる。」
この「三願的証(さんがんてきしょう)」によって、いよいよ曇鸞大師(どんらんだいし)は、
「この往相回向(おうそうえこう)も還相回向(げんそうえこう)も、私達の努力 で 成(な)し得(え)るものではなく、
すべては「阿弥陀様 の お力‐他力」に由(よ)る。」
という「回向(えこう)の相(すがた)」を明らかにしようとしてくださったのです。また、曇鸞大師(どんらんだいし)は、
「 ただし、私達 凡夫は、
「阿弥陀様に育(そだ)てられて、叱(しか)られて、自分に厳(きび)しく生きていく‐往相(おうそう)の歩み」に
徹底(てってい)していくこと しか できない。
なぜならば、還相回向(げんそうえこう)とは、私達が意識をして励(はげ)むもの ではなく、
お浄土へ向かって歩む行者(ぎょうじゃ)の 後(うし)ろ姿(すがた) が、計(はか)らずも、周りの人々に
何(なん)らかの影響 を 与(あた)え、突(つ)き動(うご)かしていく、という相(すがた)だからである。
阿弥陀様が、このように 私達の救われる道 を ご用意してくださっていても、
阿弥陀様 の ご本願 に 素直に従(したが)い おまかせする 他力の信心 が、
私達の心に宿(やど)らなければ、阿弥陀様の救いの道が、全(まった)く 私とは関係のないこと になってしまう。」
と、ご指摘(してき)してくださっています。
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