↑ 練習した音源(約32分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2019/01/10/otogi2/』
《 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(七高僧 第四祖(そ)) 》
『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より
正信偈 の お心
「南無阿弥陀仏という お念仏 が、この世の中に生まれる土台(どだい)となった出来事」と
「その お念仏 が この世の中に広まっていった歴史」に感謝をして、合掌をしている。
その 正信偈の内容 は「浄土真宗の全体 が ここに言い尽くされている」
と いっても過言(かごん)ではない。
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正信偈の前の文章の要約(ようやく)(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』行巻(ぎょうのまき) の 終わり)
「阿弥陀様 の ご恩 が、はかりしれないほど深いことを知り、阿弥陀様に身をゆだねて生きる菩薩」が、「正信偈」を作り、申し上げておられる。
その「正信偈」とは、お釈迦様 の 真実 の お言葉 に従(したが)い、大(おお)いなる祖師方(そしがた)の説き明かされた言葉 を 一つ一つ確かめている偈(うた)である。
(正信偈は、親鸞聖人が記(しる)された偈(うた) なのですが、親鸞聖人の「個人的な感情」は、一切 含まれていない ということが ここで いわれている。
親鸞聖人は、当然 昔からあったはずの「菩薩が阿弥陀様を讃(たた)える偈(うた)」を、「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」(正式名称)と称(しょう)して、文字にして記(しる)しただけ と思っておられる。)
↓「正信偈」は、大きく三つの段落に分けて見ることができる。
第一段 総(そう)讃(さん)「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「心の底から阿弥陀様を敬(うやま)い、日々の拠り所として生きていきます」という お心の表明(ひょうめい)。
(「総讃(そうさん)」は、独立している お言葉 だが、正信偈全体を包んでいる お言葉 でも ある。)
第二段 依経段(えきょうだん)
「弥陀章(みだしょう)」法蔵菩薩因位(いんに)時(じ) ~ 必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就
「釈迦章(しゃかしょう)」如来所以(しょい)興出(こうしゅつ)世(せ) ~ 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)
『大(だい)無量寿経』に依(よ)り、
・「弥陀章(みだしょう)」で 現に今 私達に働きかけ続けてくださっている 阿弥陀様 と阿弥陀様の ご本願 の いわれ を 述べ、
・「釈迦章(しゃかしょう)」で 阿弥陀様 の ご本願 を 私達に伝えるためにわざわざ この世に お出(で)ましくださった お釈迦様 を 讃(たた)え、その お釈迦様の教え を いただく「私達の心構え」が述べられている。
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( 結誡(けっかい) )弥陀仏本願念仏 ~ 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)
改めて、阿弥陀様 の ご本願 を 振り返り、自(みずか)らを省(かえり)みて、深い懺悔(さんげ)と、得難(えがた)い信心を獲(え)た喜び とをもって、「第二段 依経段(いきょうだん)」と 次の「第三段 依釈段(いしゃくだん)」とを つなぐ。
↓
第三段 依釈段(えしゃくだん)
( 総讃(そうさん) )印度(いんど)西天(さいてん)之(し)論家(ろんげ) ~ 明(みょう)如来本誓(ほんぜい)応(おう)機(き)
七高僧が、お釈迦様の お心 を 明らかにし、阿弥陀様 の ご本願 が民族や時代の異(こと)なりをも超えた「本当の救い」であることを証明している。
釈迦如来楞伽山(りょうがせん) ~ 必(ひっ)以(ち)信心為(い)能入(のうにゅう)
七高僧が出られて、本願念仏の教え を 正しく伝え、本願の働(はたら)き に 目覚めるよう 促(うなが)してくださった からこそ、「大乗(だいじょう)の中の至極(しごく)」と いえる 浄土の真実の教え が 誤(あやま)りなく島国である日本にまで 伝えられたことを、感銘深く 述べられている。
↓ 今日から見ていきます所は、
七高僧 第一祖(そ) 龍樹(りゅうじゅ)菩薩が「仏教には難行(なんぎょう)と易行(いぎょう)の二つの道がある」と明らかにされた(難行(なんぎょう)・易行(いぎょう)の二道(にどう))。
〈 正信偈 原文 〉
顕示(けんじ)難行(なんぎょう)陸路(ろくろ)苦(く) 信楽(しんぎょう)易行(いぎょう)水道(しいどう)楽(らく)
〈 書き下し文 〉
難行(なんぎょう)の陸路(ろくろ)、苦しきことを顕示(けんじ)して、易行(いぎょう)の水道(しいどう)、楽(たの)しきことを信楽(しんぎょう)せしむ。
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〈 意訳 〉
龍樹(りゅうじゅ)菩薩は、
「「自分の力」を頼りにして、「困難な修行」に励(はげ)む「聖道門(しょうどうもん)の教え」は、苦しみに耐(た)えながら けわしい陸路(りくろ)を進むようなものでしかない」
と、明らかに教え示され、
「それに対して、「阿弥陀様 の ご本願」に おまかせしきって、お浄土に導いていただく「浄土門(じょうどもん)の教え」は、船に身をゆだねて水路を進むようなもので楽しいことである」
と、明らかに教え示してくださり、
「阿弥陀様 の ご本願 を疑わずに、「お念仏」を素直に喜んで 受け取るように」と、人々に お勧(すす)めくださった。
↓
このことを受けて、七高僧 第三祖(そ) 曇鸞大師(どんらんだいし)は、
「難行道(なんぎょうどう) は、自力の教え。人間の力のみ で覚(さと)りへの歩みを進める教え。
他力(阿弥陀様 の ご本願 の お力)に依(よ)らないから難行(なんぎょう)となる。」
「易行道(いぎょうどう) は、他力の教え。
阿弥陀様 の ご本願 の お力 に 依(よ)って 悟(さと)りへ向かう教え なので、易行(いぎょう)である。」
と明らかにされた(自力(じりき)・他力(たりき)の教判(きょうはん))。
↓
そのことを受けて、七高僧 第四祖(そ) 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が、「聖道(しょうどう)・浄土二門(にもん)の決判(けっぱん)」を された。
〈 正信偈 原文 〉
道綽(どうしゃく)決(けッ)聖道(しょうどう)難(なん)証(しょう) 唯(ゆい)明(みょう)浄土可(か)通入(つうにゅう)
〈 書き下し文 〉
道綽(どうしゃく)、聖道(しょうどう)の証(しょう)しがたきことを決(けっ)して、ただ浄土の通入(つうにゅう)すべきことを明(あ)かす。
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〈 意訳 〉
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、自力によって修行しようとする 聖道門(しょうどうもん)の教え では覚(さと)りが得(え)られないことを明らかにされ、そして、阿弥陀様の願い として凡夫に差し向けられている他力の念仏 によって浄土に往生する 浄土門(じょうどもん)の教え こそが 私達の通(とお)るべき道であることを明らかにされた。
↓
《 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(七高僧 第四祖(そ)) 》
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、七高僧 第三祖(そ) 曇鸞大師(どんらんだいし) が お亡くなりになられてから二十年後、中国の「北斉(ほくせい)」に誕生された。(生年(せいねん) 五六二年 ~ 没年(ぼつねん) 六四五年)
曇鸞大師(どんらんだいし)の時代の中国は、北から侵入してきた異民族(いみんぞく)が支配した「北魏(ほくぎ)」と、南に逃(のが)れた漢民族(かんみんぞく)が建(た)てた王朝(おうちょう)「梁(りょう)」の二つに分かれていたが、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が誕生した時には、「北魏(ほくぎ)」が滅(ほろ)んで「北周(ほくしゅう)」と「北斉(ほくせい)」という二つの国に分裂し、南の「梁(りょう)」も滅(ほろ)んで「陳(ちん)」という国になり、中国大陸が三つの国に分かれていた。
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の幼少(ようしょう)の頃の「北斉(ほくせい)」は、内紛(ないふん)が絶(た)えず 隣国(りんこく)から攻められたくさんの死者 や けが人が出たり、飢饉(ききん)が起こって飢(う)えに苦しんだり、大洪水(だいこうずい)が起こったりして、苦しい生活を余儀(よぎ)なくされていた。
そのため「北斉(ほくせい)」の朝廷(ちょうてい) は、国民に「できるだけ大寺院(だいじいん)を 頼(たよ)り とし、なんとか飢(う)えをしのぎ、生(い)き延(の)びてもらいたい・・」というような指令(しれい)まで出していた。
そのような 生きることが困難(こんなん)な状況の中で、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は十四才で得度をしておられ、自らの意志ではなく、親から口減(くちべ)らしのために お寺へ入られたのではないか という説もあり、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が どのような経緯(けいい)で得度をされたのか は はっきりとわかっていない。
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道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が得度をした翌年(五七七年)、隣国(りんごく)「北周(ほくしゅう)」の武帝(ぶてい)が、「北斉(ほくせい)」を攻め滅ぼし、中国北部地域が統一され、悪いことに、武帝(ぶてい)は、厳(きび)しい仏教弾圧(だんあつ)の政策をとり、仏像や経典は焼(や)き払(はら)われ、僧侶は殺され、強制的に還俗(げんぞく)させられ、ますます混迷(こんめい)を極(きわ)め、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)も僧侶の身分を失ってしまわれた。
しかし翌年(五七八年)、武帝(ぶてい)の死 とともに厳しい仏教弾圧は終わり、仏教は復興(ふっこう)し始め、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は再(ふたた)び出家され、厳(きび)しく過酷(かこく)な修行に励(はげ)んでいかれた。
(親鸞聖人が、七高僧として崇(あが)められた方々の中で、中国から出られたのは、曇鸞大師(どんらんだいし)と道綽禅師(どうしゃくぜんじ)と善導大師(ぜんどうだいし)の三名。その中で、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)だけが「禅師(ぜんじ)」と
呼ばれ、他(ほか)の お二人は「大師(だいし)」と呼ばれている。当時の僧侶は、誰(だれ)もが皆(みな)、仏教の真実を探求(たんきゅう)し、戒律(かいりつ)を厳(きび)しく守り、実践的な修行に励(はげ)んでおられたが、次のような 呼(よ)び名(な) があった。
「法師(ほっし)」‐特に 仏教の真実を探求(たんきゅう)された方。
「律師(りっし)」‐特に 戒律(かいりつ)に詳しく 厳(きび)しく守られた方。
「禅師(ぜんじ)」‐特に 座禅(ざぜん)などの実践修行に励(はげ)まれた方。
(「禅宗(ぜんしゅう)の僧」をいう言葉ではなかった。)
「大師(だいし)」‐前者(ぜんしゃ)に当てはまらない僧侶を、尊敬(そんけい) と 親(した)しみの心 で 呼(よ)ぶ 名(な)。)
また、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、『涅槃経(ねはんぎょう)』を深く学ばれ、やがて『涅槃経(ねはんぎょう)』研究の大家(たいか) という名声(めいせい)を得(え)るようにも なっていかれた。
(『涅槃経(ねはんぎょう)』は 人間の本性(ほんしょう)を徹底(てってい)して見極(みきわ)め、生きとし生けるもの に例外なく「仏性(ぶっしょう)」(仏(ぶつ)になる種(たね))が具(そな)わっている と説いている。)
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道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の幼少(ようしょう)の頃、インドから『大集月蔵経(だいしゅうがつぞうきょう)』(『大集経月蔵分(だいしっきょうがつぞうぶん)』ともいう)という お経が伝わって来た。この お経には、お釈迦様が亡くなられた後、仏教は、正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法(まっぽう)という三つの時期を経(へ)て、正しく 教え が伝わらなくなり、やがて 仏教が衰(おとろ)え滅(ほろ)びる、と説かれていた。
(お釈迦様の説法 を 文字にして残したのが、お経。ですので、お釈迦様 自(みずか)ら「やがて 仏教が衰(おとろ)え滅(ほろ)びる」と お話しになっていた。)
↓
「正法(しょうぼう)」
お釈迦様が亡くなられてから五百年の間。「教(きょう)‐教え」「信(しん)‐信頼」「行(ぎょう)‐修行」「証(しょう)‐覚(さと)り」が成り立っている時代。
お釈迦様 の お姿 が、まだ 生き生きと 人々の心の中に浮かんでくるので、教え が、信頼され、正しく伝わり、その教え によって正しい修行ができるので、正しい証(さとり)が得られる時代。
事実、お釈迦様の滅後(めつご)三百年頃、アショーカ王が仏教を興隆(こうりゅう)させ、全インドに広がり、仏教が非常に栄(さか)えた。
(紀元前(きげんぜん) 九四九年 ~ 紀元前(きげんぜん) 四四九年
※ お釈迦様は、紀元前(きげんぜん) 四八五年に亡(な)くなられているのですが、中国では、仏教と道教(どうきょう)との権力争い が起こり、道教(どうきょう)の開祖 老子(ろうし)(紀元前六世紀頃を生きられた と される)よりもお釈迦様の方が 先に 教え を説いておられた と主張するために「お釈迦様は 紀元前九四九年に亡くなられた」と 中国仏教徒が捏造(ねつぞう)した。)
「像法(ぞうぼう)」
正法(しょうぼう)五百年の後の千年間。「教(きょう)‐教え」「信(しん)‐信頼」「行(ぎょう)‐修行」は成り立っている。像(かたち)ばかりの教え が伝わり、その教え を信頼して、像(かたち)ばかりの修行 をしているが、証(さとり)が得られない時代。
(紀元前(きげんぜん) 四四九年 ~ 紀元後(きげんご) 五五二年)。
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「末法(まっぽう)」
像法(ぞうぼう)の後の一万年間。「教(きょう)‐教え」だけが残っている。かろうじて教え は伝わっているが、伝わり方も不十分で、自分の信念や努力を頼りにして厳しい修行を重ねても、証(さとり)に近づくことは不可能 とされる時代。
(紀元後(きげんご) 五五二年 ~ 一〇五五二年
※ 日本は、正法(しょうぼう)千年・像法(ぞうほう)千年とし、一〇五二年を末法(まっぽう)元年(がんねん)としている)。
「法滅(ほうめつ)」
仏教が完全に衰(おとろ)え滅(ほろ)びる。しかし、「法滅(ほうめつ)」の後、遠い未来に、次(つぎ)の仏(ぶつ) が 世に出られて、また「正法(しょうぼう)」の時代に入る と説かれている。
(西暦 一〇五五二年 ~)
↓
『安楽集(あんらくしゅう)』道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 著(ちょ)
『大集月蔵経(だいしゅうがつぞうきょう)』に説かれてある。
「私(お釈迦様)が入滅(にゅうめつ)した後の
第一の五百年(紀元前 九四九年~)は、多くの仏教徒は、智慧(ちえ)(仏(ぶつ)の覚(さと)り)を学び、確実に 覚(さと)りへの歩み を進めることができるであろう。
第二の五百年(紀元前 四四九年~)には、だんだんと智慧(ちえ)を学びにくくはなるが、禅定(ぜんじょう)(心を集中して 心が安定した状態に入ること)を身につけ、歩んでいくことができるであろう。
第三の五百年(西暦 五二年~)には、智慧(ちえ)を学び 禅定(ぜんじょう)を身につけることはできないが、多く 仏教の話を聞いたり お経(きょう)を読んだりして 歩んでいくことはできるであろう。
第四の五百年(西暦 五五二年~)は、塔(とう)や寺を建(た)て功徳を修(おさ)め、罪(つみ)を懺悔(さんげ)する(罪過(ざいか)を悔(く)いて許(ゆる)しを請(こ)う)、そのような仏道の歩み になるであろう。
第五の五百年(西暦 一〇五二年~)は、仏教は隠(かく)れて諍(あらそ)い は 多くなるが、わずかに 念仏 があり、なんとか歩んでいくことができるであろう。」
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(道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が)よくよく今の時の衆生を考えてみると、ちょうど、仏(ぶつ)が世(よ)を去(さ)られてから第四の五百年に当たっている。これは まさしく懺悔(さんげ)し功徳を修(おさ)めて 仏(ぶつ)の名号を称(とな)えるべき時である。私達は、そういう時に生まれ合わせているのだ。
『観(かん)無量寿経』に、
「一声(ひとこえ) 阿弥陀仏の名号を称えるところに、よく八十億劫(こう)の迷いの罪が除(のぞ)かれる」と説かれている。一声(ひとこえ) が すでに そうであるから、まして いつも仏(ぶつ)を念(ねん)じている人は、念仏を通(とお)して、つねに懺悔(さんげ)する人である。
時代が下(くだ)ってきた今の時においては、もはや 人間の努力 だけでは、仏道(ぶつどう)が成り立たない。念仏を称(とな)えよ、必ず そこに 助かる道 がある。
↓
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が誕生された時には(生年(せいねん) 五六二年)「末法(まっぽう)の時代」に入って、十年が経(た)っていた。武帝(ぶてい)による過酷(かこく)な仏教弾圧(だんあつ)もあり、まさに 仏教が衰(おとろ)え滅(ほろ)びていくことが 強い危機の意識 として実感される時を道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は生きておられ、
「自分の力 で 人生の苦悩 を解決する とか、自分の努力 を 信じて 修行して 覚(さと)りに近づく などということは、もはや不可能なのではないだろうか・・」
という 自覚 が 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)には あった。
↓
『安楽集(あんらくしゅう)』道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 著(ちょ)
『大集月蔵経(だいしゅうがつぞうきょう)』に
「末法(まっぽう)の世 には、多くの衆生が、一生懸命 修行をし、覚(さと)りへの歩み を進めても、一人として覚(さと)りを得(え)る者(もの)は いない。」
と 説かれている。今は、末法(まっぽう)の時であり、現(げん)に、五濁悪世(ごじょくあくせ)である。
ただ往生浄土の一門(いちもん)だけが、私達の通るべき道である。
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↓「五濁悪時(ごじょくあくじ)群生海(ぐんじょうかい) 応(おう)信(しん)如来如実(にょらいにょじつ)言(ごん)」の所で見ました。
『仏説(ぶっせつ) 阿弥陀経』の終わりの方では、「五濁悪世(ごじょくあくせ)」と いわれている。
私達が生きている この世間は「五濁悪世(ごじょくあくせ)」であり、私達が生きている この時代は「五濁悪時(ごじょくあくじ)」。
お釈迦様の 澄(す)みきった眼(まなこ) から見ると、「お釈迦様が生きられた当時」も「五つの濁(にご)り に、ひどく濁(にご)りきった 悪(わる)い世の中」だった。
↓ 五つの濁(にご)りのある 悪(わる)い 世の中
「劫濁(こうじょく)」‐「劫(こう)」は、「時代」のこと。時代の汚(よご)れ。
疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)、動乱(どうらん)や戦争が続けて起こる など、時代 そのものが汚(よご)れている状態。
「見濁(けんじょく)」‐「見(けん)」は、「見解(けんかい)(物事に対する考え方や価値判断)」のこと。
邪悪(じゃあく)で汚(よご)れた 考え方 や 思想(しそう) が、常識 となって はびこる状態。
「煩悩濁(ぼんのうじょく)」‐煩悩による汚れ。
ひっきりなしに、欲望や憎(にく)しみ など、煩悩による 悪(わる)い行(おこな)い が 起(お)こる状態。
「衆生濁(しゅじょうじょく)」‐衆生の汚れ。人々のあり方 そのものが汚(よご)れている。
心身ともに、人々の資質(ししつ)が衰(おとろ)えた状態。
「命濁(みょうじょく)」‐命(いのち)の汚(よご)れ。自他(じた)の命(いのち)が軽(かろ)んじられる状態。
また、「生きていくことの意味」が見失(みうしな)われ、「生(い)かされてある」という「有(あ)り難(がた)さ」が実感できなくなり、満足のない、むなしい生涯(しょうがい)を送(おく)る。
↓
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道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 四十八歳の時、旅の途中(とちゅう)で、かつて曇鸞大師(どんらんだいし)が おられた汾州(ふんしゅう)の玄中寺(げんちゅうじ)に たまたま立(た)ち寄(よ)られた。
玄中寺(げんちゅうじ)に 曇鸞大師(どんらんだいし)は 長く住んでおられて、大勢(おおぜい)の方々と縁(えん)を結(むす)び 仏道(ぶつどう)に導(みちび)いていかれた。その ご功績(こうせき)を讃(たた)えて、曇鸞大師(どんらんだいし)のことを事細(ことこま)かに書き記した大きな石碑(せきひ)が建てられていた。(現在も、その石碑(せきひ)が玄中寺(げんちゅうじ)に残っている。)
偶然では あったが、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、玄中寺(げんちゅうじ)に立(た)ち寄(よ)られて、その石碑(せきひ)の文章を読(よ)まれ、大変 驚(おどろ)き、また 深く感銘(かんめい)を受けられた。
「なんと、曇鸞大師(どんらんだいし)は 偉(えら)い方(かた)で あられたのだろうか・・
私も もう少し早く この世に生まれて 曇鸞大師(どんらんだいし)に お遇(あ)い したかった・・」
と、たいそう残念がられ、そして、同時に、「曇鸞大師が お念仏 で助かっていかれた」と書き記された文章を ご覧(らん)になられて、
「曇鸞大師(どんらんだいし)のような 偉(えら)い お方(かた) でも、念仏でなければ 助(たす)からなかった・・
ましてや 私のような愚(おろ)かな者(もの)が、念仏以外に助かる道があろうか・・」
と、これまでの思いを翻(ひるがえ)して、聖道門(しょうどうもん)(自力・難行道(なんぎょうどう))を捨(す)てて、深く 浄土門(じょうどもん)(他力・易行道(いぎょうどう))に、念仏の道へ と入っていかれたのでした。
↓
「聖道門(しょうどうもん)」
お釈迦様は、
「人間は、さまざまな苦しみ 悩み を 経験しなければならない。
その苦悩が、なぜ起こるのか。それは、真実について無知(むち)であり、欲望のために、こだわるべきでない物事 に こだわる からだ。
苦悩から逃(のが)れるためには、その原因である さまざまな煩悩から離(はな)れなければならない」
と、語(かた)られた。この教え を忠実(ちゅうじつ)に受け止めて、「煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地(きょうち)」を目指し、命懸(いのちが)けの修行 に励(はげ)んで、懸命(けんめい)な努力 が積(つ)み重(かさ)ねられてきた。
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「浄土門(じょうどもん)」
この世では悟(さと)りを開くこと は できないが、「阿弥陀様 の ご本願」によって お浄土に生まれて、悟(さと)りを開く道。
↓
『安楽集(あんらくしゅう)』道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 著(ちょ)
仏(ぶつ)の教(おし)え には 二つある。一つには聖道門(しょうどうもん)、二つには往生 浄土門である。
しかし、聖道門(しょうどうもん)の教え は、今の時代に そぐわず、証(さと)ることはできない。
その理由は 二つある。
一つの理由は、聖道門(しょうどうもん)の教え は、お釈迦様がおられたからこそ、お釈迦様の人格 に支えられて、多くの仏教徒は、一生懸命 覚(さと)りへの歩み を進めることができていた。しかし、今は もう お釈迦様が お亡くなりになってから、遥(はる)かに時間が経(た)ってしまい、お釈迦様の影(かげ) が薄(うす)くなってきてしまっている。
もう一つの理由は、たしかに いろいろの お経があり、非常に深い道理が説かれているけれども、具体的で なくなり、ただ理屈でわかる というような、単なる 学問 になってしまっている。
↓
そして、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、曇鸞大師(どんらんだいし)の徳(とく)を慕(した)って、そのまま玄中寺(げんちゅうじ)に、八十四歳で亡くなるまで、住(す)まれた。そして、玄中寺(げんちゅうじ)で、お念仏 を称えることに専念(せんねん)され、さかんに『観(かん)無量寿経』の講説(こうせつ)をされ、『安楽集(あんらくしゅう)』を著(あらわ)される などされて、人々に 称名(しょうみょう)念仏 を勧(すす)められた。
この頃、分裂していた中国大陸が、「北周(ほくしゅう)」の文帝(ぶんてい)によって、およそ三百年ぶりに統一され、隋(ずい)(五八一年 ~ 六一八年)という大国となっていた。
(日本は、聖徳太子(しょうとくたいし)が、推古天皇(すいこてんのう)の摂政(せっしょう)(天皇に代わって政治を執(と)り行(おこな)う職(しょく))となり、隋(ずい)の技術や制度を学ぶため 遣隋使(けんずいし) を派遣(はけん)している。)
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その後、唐(とう)(六一八年 ~ 九〇七年)の時代になり、「唐(とう)は、世界で最も強大で豊かな国」と描(えが)かれるほどの大国(たいこく)となり、中国仏教も全盛期(ぜんせいき)となっていき、道綽禅師の最晩年(さいばんねん)の弟子であった善導大師(ぜんどうだいし)(七高僧 第五祖(そ) 六一三年 ~ 六八一年)が「中国浄土教の大成者(たいせいしゃ)」といわれる時代へと移っていった。
(比叡山(ひえいざん) 天台宗(てんだいしゅう)の開祖(かいそ) 最澄(さいちょう)と 高野山(こうやさん) 真言宗(しんごんしゅう)の開祖(かいそ) 空海(くうかい)は、八〇四年に第十六回の 遣唐使(けんとうし) として、唐(とう)に留学(りゅうがく)し 仏教を学び、日本へ帰って来てから、それぞれ天台宗(てんだいしゅう)と真言宗(しんごんしゅう)を開かれている。
当時の日本仏教界は、「唐に行かなければ、本当の仏教がわからない!」という雰囲気があり、唐への留学に憧(あこが)れる僧侶 が たくさんおられた。)
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