40 道綽決聖道難証 唯明浄土可通入

↑ 練習した音源(約39分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/』


《 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(七高僧 第四祖(そ)) 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

七高僧 第一祖(そ) 龍樹(りゅうじゅ)菩薩が「仏教には難行(なんぎょう)と易行(いぎょう)の二つの道がある」と
明らかにされた(難行(なんぎょう)・易行(いぎょう)の二道(にどう))。
 〈 正信偈 原文 〉
 顕示(けんじ)難行(なんぎょう)陸路(ろくろ)苦(く) 信楽(しんぎょう)易行(いぎょう)水道(しいどう)楽(らく)
 〈 書き下し文 〉
 難行(なんぎょう)の陸路(ろくろ)、苦しきことを顕示(けんじ)して、易行(いぎょう)の水道(しいどう)、楽(たの)しきことを信楽(しんぎょう)せしむ。
 〈 意訳 〉
 龍樹(りゅうじゅ)菩薩は、
 「「自分の力」を頼りにして、「困難な修行」に励(はげ)む「聖道門(しょうどうもん)の教え」は、
  苦しみに耐(た)えながら けわしい陸路(りくろ)を進むようなものでしかない」
 と、明らかに教え示され、
 「それに対して、「阿弥陀様 の ご本願」に おまかせしきって、お浄土に導いていただく「浄土門(じょうどもん)の教え」は、船に身をゆだねて水路を進むようなもので楽しいことである」
 と、明らかに教え示してくださり、
 「阿弥陀様 の ご本願 を疑わずに、「お念仏」を素直に喜んで 受け取るように」と、人々に お勧(すす)めくださった。

 ↓

このことを受けて、七高僧 第三祖(そ) 曇鸞大師(どんらんだいし)は、
「難行道(なんぎょうどう) は、自力の教え。人間の力のみ で覚(さと)りへの歩み を 進める教え。
 他力(阿弥陀様 の ご本願 の お力)に依(よ)らないから難行(なんぎょう)となる。」
「易行道(いぎょうどう) は、他力の教え。
 阿弥陀様 の ご本願 の お力 に 依(よ)って 悟(さと)りへ向かう教え なので、易行(いぎょう)である。」
と明らかにされた(自力(じりき)・他力(たりき)の教判(きょうはん))。

ー1-


 ↓

そのことを受けて、七高僧 第四祖(そ) 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が「聖道(しょうどう)・浄土二門(にもん)の決判(けっぱん)」をされた。

 ↓

今日 の お言葉

〈 原
道綽(どうしゃく)決(けッ)聖道(しょうどう)難(なん)証(しょう) 唯(ゆい)明(みょう)浄土可(か)通入(つうにゅう)

〈 書き下文 〉
道綽(どうしゃく)、聖道(しょうどう)の証(しょう)しがたきことを決(けっ)して、ただ浄土の通入(つうにゅう)すべきことを明(あ)かす。

〈 意
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、自力によって修行しようとする 聖道門(しょうどうもん)の教え では覚(さと)りが得(え)られないことを明らかにされ、そして、阿弥陀様の願い として凡夫に差し向けられている他力の念仏 によって浄土に往生する 浄土門(じょうどもん)の教え こそが 私達の通(とお)るべき道であることを明らかにされた。

 ↓ そのことを明らかにしなくてはならなかった道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の背景にあること

 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(生年(せいねん) 五六二年 ~ 没年(ぼつねん) 六四五年)が誕生された中国の「北斉(ほくせい)」は、内紛(ないふん)が絶(た)えず 隣国(りんこく)から攻められ たくさんの死者 や けが人が出たり、飢饉(ききん)が起こって飢(う)えに苦しんだり、大洪水(だいこうずい)が起こったりして、苦しい生活を余儀(よぎ)なくされていた。そのため「北斉(ほくせい)」の朝廷(ちょうてい) は、国民に「できるだけ大寺院(だいじいん)を 頼(たよ)り とし、なんとか飢(う)えをしのぎ、生(い)き延(の)びてもらいたい・・」というような指令(しれい)まで出していた。
 そのような 生きることが困難(こんなん)な状況の中で、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は十四才で得度をしておられ、自らの意志ではなく、親から口減(くちべ)らしのために お寺へ入られたのではないか という説もあり、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が どのような経緯(けいい)で得度をされたのか は はっきりとわかっていない。

ー2-


 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が得度(とくど)をした翌年(五七七年)、隣国(りんごく)「北周(ほくしゅう)」の武帝(ぶてい)が、「北斉(ほくせい)」を攻め滅ぼし、中国北部地域が統一され、悪いことに、武帝(ぶてい)は、厳(きび)しい仏教弾圧(だんあつ)の政策をとり、仏像や経典は焼(や)き払(はら)われ、僧侶は殺され、強制的に還俗(げんぞく)させられ、ますます混迷(こんめい)を極(きわ)め、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)も僧侶の身分を失ってしまわれた。
 しかし翌年(五七八年)、武帝(ぶてい)の死 とともに厳しい仏教弾圧は終わり、仏教は復興(ふっこう)し始め、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は再(ふたた)び出家され、厳(きび)しく過酷(かこく)な修行に励(はげ)んでいかれた。
 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の幼少(ようしょう)の頃、インドから『大集月蔵経(だいしゅうがつぞうきょう)』という お経が伝わって来た。この お経には、お釈迦様が亡くなられた後、仏教は、正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法(まっぽう)という三つの時期を経(へ)て、正しく 教え が伝わらなくなり、やがて 仏教が衰(おとろ)え滅(ほろ)びる、と説かれていた。
(お釈迦様の説法 を 文字にして残したのが、お経。
 なので、お釈迦様 自(みずか)ら「やがて 仏教が衰(おとろ)え滅(ほろ)びる」と お話しになっていた。)

 ↓ 親鸞聖人が しっかりと まとめられた「末法(まっぽう)思想(しそう)」

「正法(しょうぼう)」
 お釈迦様が亡くなられてから五百年の間。「教(きょう)‐教え」「信(しん)‐信頼」「行(ぎょう)‐修行」「証(しょう)‐覚(さと)り」が成り立っている時代。
 お釈迦様 の お姿 が、まだ 生き生きと 人々の心の中に浮かんでくるので、教え が、信頼され、正しく伝わり、その教え によって正しい修行ができるので、正しい証(さとり)が得られる時代。
 事実、お釈迦様の滅後(めつご)三百年頃、アショーカ王が仏教を興隆(こうりゅう)させ、全インドに広がり、仏教が非常に栄(さか)えた。
 (紀元前(きげんぜん) 九四九年 ~ 紀元前(きげんぜん) 四四九年

 ※ お釈迦様は、紀元前(きげんぜん) 四八五年に亡(な)くなられているのですが、中国では、仏教と道教(どうきょう)との権力争い が起こり、道教(どうきょう)の開祖 老子(ろうし)(紀元前六世紀頃を生きられた と される)よりもお釈迦様の方が 先に 教え を説いておられた と主張するために「お釈迦様は 紀元前九四九年に亡くなられた」と 中国仏教徒が捏造(ねつぞう)した。)

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「像法(ぞうぼう)」
 正法(しょうぼう)五百年の後の千年間。「教(きょう)‐教え」「信(しん)‐信頼」「行(ぎょう)‐修行」は成り立っている。像(かたち)ばかりの教え が伝わり、その教え を信頼して、像(かたち)ばかりの修行 をしているが、証(さとり)が得られない時代。
 (紀元前(きげんぜん) 四四九年 ~ 紀元後(きげんご) 五五二年)。

「末法(まっぽう)」
 像法(ぞうぼう)の後の一万年間。「教(きょう)‐教え」だけが残っている。かろうじて教え は伝わっているが、伝わり方も不十分で、自分の信念や努力を頼りにして厳しい修行を重ねても、証(さとり)に近づくことは不可能 とされる時代。
 (紀元後(きげんご) 五五二年 ~ 一〇五五二年 

 ※ 日本は、正法(しょうぼう)千年・像法(ぞうほう)千年とし、一〇五二年を末法(まっぽう)元年(がんねん)としている)。

「法滅(ほうめつ)」
 仏教が完全に衰(おとろ)え滅(ほろ)びる。しかし、「法滅(ほうめつ)」の後(あと)、遠い未来に、次(つぎ)の仏(ぶつ) が 世に出られて、また「正法(しょうぼう)」の時代に入る と説かれている。
 (西暦 一〇五五二年 ~)

 ↓

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の時代、末法(まっぽう)思想の他に、『法華経(ほけきょう)』や『仏説(ぶっせつ) 阿弥陀経』に説かれていた「五濁(ごじょく)の悪世(あくせ)」という危機意識も高まっていた。

 ↓「五濁悪時(ごじょくあくじ)群生海(ぐんじょうかい) 応(おう)信(しん)如来如実(にょらいにょじつ)言(ごん)」の所で見ました。

『仏説(ぶっせつ) 阿弥陀経』の終わりの方では、「五濁悪世(ごじょくあくせ)」と いわれている。
私達が生きている この世間は「五濁悪世(ごじょくあくせ)」であり、
私達が生きている この時代は「五濁悪時(ごじょくあくじ)」。
お釈迦様の 澄(す)みきった眼(まなこ) から見ると、「お釈迦様が生きられた当時」も
「五つの濁(にご)り に、ひどく濁(にご)りきった 悪(わる)い世の中」だった。

 ↓ 五つの濁(にご)りのある 悪(わる)い 世の中

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「劫濁(こうじょく)」
 「劫(こう)」は、「時代」のこと。時代の汚(よご)れ。疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)、動乱(どうらん)や戦争が続けて起こる など、時代 そのもの が 汚(よご)れている状態。

「見濁(けんじょく)」
 「見(けん)」は、「見解(けんかい)(物事に対する考え方や価値判断)」のこと。
 邪悪(じゃあく)で汚(よご)れた 考え方 や 思想(しそう) が、常識 となって はびこる状態。

「煩悩濁(ぼんのうじょく)」
 煩悩による汚れ。ひっきりなしに、欲望や憎(にく)しみ など、煩悩による 悪(わる)い行(おこな)い が 起(お)こる状態。

「衆生濁(しゅじょうじょく)」
 衆生の汚れ。人々のあり方 そのもの が 汚(よご)れている。
 心身ともに、人々の資質(ししつ)が衰(おとろ)えた状態。

「命濁(みょうじょく)」
 命(いのち)の汚(よご)れ。自他(じた)の命(いのち)が軽(かろ)んじられる状態。
 また、「生きていくことの意味」が見失(みうしな)われ、「生(い)かされてある」という「有(あ)り難(がた)さ」が実感できなくなり、満足のない、むなしい生涯(しょうがい)を送(おく)る。

 ↓

 道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 四十八歳の時、旅の途中(とちゅう)で、かつて曇鸞大師(どんらんだいし)が おられた汾州(ふんしゅう)の玄中寺(げんちゅうじ)に たまたま立(た)ち寄(よ)られた。
玄中寺(げんちゅうじ)に 曇鸞大師(どんらんだいし)は 長く住んでおられて、大勢(おおぜい)の方々と縁(えん)を結(むす)び 仏道(ぶつどう)に導(みちび)いていかれた。その ご功績(こうせき)を讃(たた)えて、曇鸞大師(どんらんだいし)のことを事細(ことこま)かに書き記した大きな石碑(せきひ)が建てられていた。(現在も、その石碑(せきひ)が玄中寺(げんちゅうじ)に残っている。)
偶然では あったが、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、玄中寺(げんちゅうじ)に立(た)ち寄(よ)られて、その石碑(せきひ)の文章を読(よ)まれ、大変 驚(おどろ)き、また 深く感銘(かんめい)を受けられた。
「なんと、曇鸞大師(どんらんだいし)は 偉(えら)い方(かた)で あられたのだろうか・・
 私も もう少し早く この世に生まれて 曇鸞大師(どんらんだいし)に お遇(あ)い したかった・・」
と、たいそう残念がられ、そして、同時に、「曇鸞大師(どんらんだいし)が お念仏 で助かっていかれた」と書き記された文章を ご覧(らん)になられて、
「曇鸞大師(どんらんだいし)のような 偉(えら)い お方(かた) でも、念仏でなければ 助(たす)からなかった・・
 ましてや 私のような愚(おろ)かな者(もの)が、念仏以外に助かる道があろうか・・」

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と、これまでの思いを翻(ひるがえ)して、聖道門(しょうどうもん)(自力・難行道(なんぎょうどう))を捨(す)てて、深く 浄土門(じょうどもん)(他力・易行道(いぎょうどう))に、念仏の道へ と入っていかれたのでした。
 そして、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、曇鸞大師(どんらんだいし)の徳(とく) を慕(した)って、そのまま玄中寺(げんちゅうじ)に、八十四歳で亡くなるまで、住(す)まれた。そして、玄中寺(げんちゅうじ)で、お念仏 を称えることに専念(せんねん)し、さかんに『観(かん)無量寿経』の講説(こうせつ)をし、『安楽集(あんらくしゅう)』を記(しる)す などをされて、人々に 称名(しょうみょう)念仏 を勧(すす)められた。

 ↓

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が記された ご書物 は、唯一『安楽集(あんらくしゅう)』だけ。
浄土を「安楽浄土」ともいい、お浄土への道を明らかにされた ご書物 なので、『安楽集(あんらくしゅう)』と名づけられた。この『安楽集(あんらくしゅう)』の中に、
「なぜ、聖道門(しょうどうもん)の教え では覚(さと)りが得(え)られないのか。
 なぜ、浄土門(じょうどもん)の教え こそが 私達の通(とお)るべき道であるのか。」
が、はっきりと示されているので、そのことから親鸞聖人は

道綽(どうしゃく)、聖道(しょうどう)の証(しょう)しがたきことを決(けっ)して、ただ浄土の通入(つうにゅう)すべきことを明(あ)かす。

と「正信偈」に記された。

 ↓

『安楽集(あんらくしゅう)』道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 著(ちょ)
『正法念経(しょうぼうねんぎょう)』によれば、行者(ぎょうじゃ)が一心(いっしん)に さとりを求める場合には、いつも
時(今の時代)と 方法(手がかり)とを よく考えなければならない。
もし 時を得なければ 方法も失われる。時を間違えると、いかに努力しても何の効果も無くなる。どのようなことか というと、たとえば湿(しめ)った木(き)を擦(こす)り合せて 火を出そう としても 火を得ることは できない。
それは 時を得ていない、時に背いているからである。
つまり、何事も 時代を よく考えなければいけない。

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また、たとえば乾(かわ)いた薪(まき)を折(お)って 水を搾(しぼ)り出そうとしても水を得ることはできない。
それは智慧がないからである。時代認識(にんしき)がなくては だめなのだ、と説かれている。
また、『大集月蔵経(だいしゅうがつぞうきょう)』に説かれてある。
「私(お釈迦様)が入滅(にゅうめつ)した後の第一の五百年(紀元前 九四九年~)は、多くの仏教徒は、智慧(ちえ)(仏(ぶつ)の覚(さと)り)を学び、確実に 覚(さと)りへの歩み を進めることができるであろう。
 第二の五百年(紀元前 四四九年~)には、だんだんと智慧(ちえ)を学びにくくはなるが、禅定(ぜんじょう)(心を集中して 心が安定した状態に入ること)を身につけ、歩んでいくことができるであろう。
 第三の五百年(西暦 五二年~)には、智慧(ちえ)を学び 禅定(ぜんじょう)を身につけることはできないが、多く 仏教の話を聞いたり お経(きょう)を読んだりして 歩んでいくことはできるであろう。
 第四の五百年(西暦 五五二年~)は、塔(とう)や寺を建(た)て 功徳を修(おさ)め、罪(つみ)を懺悔(さんげ)する(罪過 (ざいか)を悔(く)いて許(ゆる)しを請(こ)う)、そのような仏道の歩み になるであろう。
 第五の五百年(西暦 一〇五二年~)は、仏教は隠(かく)れて諍(あらそ)い は 多くなるが、わずかに 念仏 があり、なんとか歩んでいくことができるであろう。」
(道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が)よくよく今の時の衆生を考えてみると、ちょうど、仏(ぶつ)が世(よ)を
去(さ)られてから第四の五百年に当たっている。これは まさしく懺悔(さんげ)し 功徳を修(おさ)めて
仏(ぶつ)の名号を称(とな)えるべき時である。私達は、そういう時 に 生まれ合わせているのだ。
『観(かん)無量寿経』に、
「一声(ひとこえ) 阿弥陀仏の名号を称(とな)えるところに、よく八十億劫(こう)の迷いの罪が除(のぞ)かれる」と説かれている。一声(ひとこえ) が すでに そうであるから、まして いつも仏(ぶつ)を念(ねん)じている人は、念仏を通(とお)して、つねに懺悔(さんげ)する人である。
時代が下(くだ)ってきた今の時に おいては、もはや 人間の努力 だけでは、仏道(ぶつどう)が成り立たない。念仏を称(とな)えよ、必ず そこに 助かる道 がある。

 ↓

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『安楽集(あんらくしゅう)』道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 著(ちょ)
『大集月蔵経(だいしゅうがつぞうきょう)』に
「末法(まっぽう)の世 には、多くの衆生が、一生懸命 修行をし、覚(さと)りへの歩み を進めても、一人として覚(さと)りを得(え)る者(もの)は いない。」
と 説かれている。今は、末法(まっぽう)の時であり、現(げん)に、五濁悪世(ごじょくあくせ)である。
ただ 往生浄土の一門(いちもん)だけ が、私達の通るべき道である。

 ↓

 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)が誕生された時には(生年(せいねん) 五六二年)「末法(まっぽう)の時代」に入って、十年が経(た)ち、武帝(ぶてい)による過酷(かこく)な仏教弾圧(だんあつ)もあり、まさに 仏教が衰(おとろ)え滅(ほろ)びていくことが強い危機の意識 としてあり、『仏説(ぶっせつ) 阿弥陀経』などに説かれる「五濁(ごじょく)の悪世(あくせ)」が実感として現れ、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、「末法の世を生きているからこそ、仏教を学び、仏教を守っていかなければ
ならない」という自覚が、私達が想像する以上に強かった。

 ↓

親鸞聖人の時代も、「お念仏の道」が はっきりと現れ出て来た その背景 には、時代的危機があった。もちろん 末法に入ってしまっていた ということもあったが、平家(へいけ)の栄華(えいが)を築(きず)いた平清盛(たいらのきよもり)が、源平合戦で、源頼朝(みなもとのよりとも)に敗れ、公家(くげ)社会が滅び、鎌倉幕府が開かれ 武家(ぶけ)社会へ と 移っていく 激動(げきどう)の時代 を 親鸞聖人は生きられ、
「このような時代では、お念仏 以外に 救われる道はない・・」
という 親鸞聖人の想い があった。

 ↓

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『正像末(しょうぞうまつ)和讃』一 親鸞聖人 著
釈迦如来かくれましまして 二千余(よ)年に なりたまう
正像(しょうぞう)の二時(にじ)は おわりにき 如来の遺弟(ゆいてい)悲泣(ひきゅう)せよ

〈 言葉の意味 〉
正像(しょうぞう)の二時(にじ)
 お釈迦様が亡くなられてから五百年(又(また)は千年)を正法(しょうぼう)。
 次の千年を像法(ぞうぼう)。次の万年を末法(まっぽう)という。正法(しょうぼう)には「教え」「修行」「覚(さと)り」が備(そな)わり、像法(ぞうぼう)には「教え」「修行」があって 正法(しょうぼう)に似ているが「覚(さと)り」を得る者がなく、末法(まっぽう)には「教え」のみがあって「修行」「覚(さと)り」を欠(か)く。

如来の遺弟(ゆいてい)‐お釈迦様が亡くなられてから の お弟子。

悲泣(ひきゅう)せよ‐悲しみ泣(な)くこと。

〈 意訳 〉
お釈迦様が お亡くなりになられてから二千余(よ)年が経過した。正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)の時代は既(すで)に終わって、時代は末法(まっぽう)に入っている。末世(まっせ)に生まれた仏教を学ぶ者達は、
悲しみ 涙を流すべきである。(末法(まっぽう)の時機(じき)への覚醒(かくせい)を促(うなが)す。)

 ↓

『正像末(しょうぞうまつ)和讃』四 親鸞聖人 著
大集経(だいじっきょう)に ときたもう この世は第五の五百年
闘諍堅固(とうじょうけんご)なるゆえに 白法(びゃくほう)隠滞(おんたい)したまえり

〈 言葉の意味 〉
大集経(だいじっきょう)
 『大集月蔵経(だいしゅうがつぞうきょう)』。お釈迦様が亡くなられた後、仏教は 正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法(まっぽう)という三つの時期を経(へ)て、正しく 教え が伝わらなくなり、やがて 衰(おとろ)え滅(ほろ)びる、と説かれる。

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第五の五百年
 大集経(だいじっきょう)に お釈迦様が亡くなられてから五百年ごとに修道(しゅうどう)の根機(こんき)の衰(おとろ)えることを説く。第一 解脱堅固(げだつけんご)(仏道修行する多くの人々が解脱(げだつ)する時代)・第二 禅定堅固(ぜんじょうけんご)(人々が瞑想(めいそう)修行に励(はげ)む時代)・第三 多聞堅固(たもんけんご)(多くの経典の読誦(どくじゅ)と それを聞くことが盛(さか)んに行われる時代)・第四 造寺堅固(ぞうじけんご)(多くの塔(とう)や寺院が造営(ぞうえい)される時代)・第五 闘諍堅固(とうじょうけんご)(自法(じほう)を是(ぜ)とし他法(たほう)を非(ひ)として、互いに諍(あらそ)うことが堅(かた)く盛(さか)んな時代)。

白法(びゃくほう)‐正しく、よい仏(ぶつ)の教え。

隠滞(おんたい)‐隠(かく)れ滞(とどこお)る。

〈 意訳 〉
大集経(だいじっきょう)の 五個の五百年の説(せつ) によれば、今の時代 は 第五の五百年 に当(あた)り、闘争(とうそう)を事とする時代 であるから、お釈迦様の 清浄で 正しい教え は隠(かく)れ滞(とどこお)ってしまわれた。

 ↓

『安楽集(あんらくしゅう)』で、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、「時代認識(にんしき)」の次に、
「聖道門(しょうどうもん)・浄土門(じょうどもん)は、菩提心(ぼだいしん) が 退転(たいてん)する(だんだん悪い方へ移りかわる)危機 の中を くぐり抜けて、菩提心(ぼだいしん)を徹底していくことができるのか?」
ということを問題にされた。
(菩提心(ぼだいしん)‐悟りを求める と ともに 世の人を救おうとする心。
 「菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)す」とは「特別なこと」ではなく、誰にでもあること。
 「苦しんでいる人達がいれば 助けたい」
 「悲しんでいる人がいれば なんとかしてあげたい」という 想い の中 から菩提心(ぼだいしん)は生まれてくる。
 仏道 という時には、その気持ち に どこまで一途(いちず)になれるかどう具体化するか が 厳(きび)しく問われる。)

 ↓

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『高僧和讃』道綽禅師(どうしゃくぜんじ)和讃 四  親鸞聖人 著
鸞師(らんし)のおしえ を うけつたえ 紳和尚(しゃっかしょう)は もろともに 
在此起心立行(ざいしきしんりゅうぎょう)は 此是自力(しぜじりき)と さだめたり

〈 言葉の意味 〉
在此起心立行(ざいしきしんりゅうぎょう)
 此(ここ)に在(あ)りて心(しん)を起(お)こし行(ぎょう)を立(た)つ。娑婆(しゃば)世界で菩提心(ぼだいしん)を起こして修行をする。

此是自力(しぜじりき)‐此(こ)れ は 是(こ)れ みな 自力である。

〈 意訳 〉
曇鸞大師(どんらんだいし)の教えを伝承して、曇鸞大師(どんらんだいし)と共に道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は この世で菩提心(ぼだいしん)を起こして修行をするのは、此(こ)れ は 是(こ)れ 自力聖道門(しょうどうもん)である と決定せられた。

 ↓

「聖道門(しょうどうもん)」
 お釈迦様は、
 「人間は、さまざまな苦しみ 悩み を 経験しなければならない。
  その苦悩が、なぜ起こるのか。それは、真実について無知(むち)であり、
  欲望のために、こだわるべきでない物事 に こだわる からだ。
  苦悩から逃(のが)れるためには、その原因である さまざまな煩悩から離(はな)れなければならない」
 と、語(かた)られた。この教え を忠実(ちゅうじつ)に受け止めて、
 「煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地(きょうち)」を目指し、命懸(いのちが)けの修行 に励(はげ)んで、懸命(けんめい)な努力 が積(つ)み重(かさ)ねられてきた。

 ↓

自力聖道門(しょうどうもん)の教えは、「お釈迦様の教え を信頼し、修行を重ね、証(さとり)を得ていく、修行 が 中心となる教え。
しかし、その修行に行き詰まって悲しむ者、報(むく)われない修行に苦しむ者の姿を道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は ご覧になられて、「修行者達を なんとかして 助け遂(と)げたい」という菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)された。

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 ↓

しかし、修行を中心に考えていては、末法では証(さとり)が得る者が現れないので、「これでよし」という 終わり が見えてこない。しかも なにか問題が起これば、それを言い訳にして、修行を止めてしまう者 も いた。
自力 では 徹底していくことができない、完結(かんけつ)していかない、そのような 退転(たいてん)(だんだん悪い方へ移りかわる)の危機 があった。

 ↓

『安楽集(あんらくしゅう)』に、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、次のようなことを記されている。
「凡夫が、菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)し、苦悩する衆生を救済(きゅうさい)し助けとげよう と願っても、諸仏(しょぶつ)が それを許してくださらない。
 それは なぜか というと、私達は、凡夫であり、煩悩という問題を抱えているから内から崩れていく。菩提心を発(おこ)しても、なかなか徹底(てってい)できない。何か一つ 問題にぶつかると、助けようとした者も 自分自身も一緒に滅んでしまう。
 そして、今は、末法(まっぽう)の時であり、現(げん)に、五濁悪世(ごじょくあくせ)であるから、外からも、常に菩提心(ぼだいしん)が つぶされてしまう。」

 ↓ 一升(いっしょう)の熱湯(ねっとう)の喩(たとえ)

『安楽集(あんらくしゅう)』道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 著(ちょ)
たとえば、ある人が、四十里(り)四方(しほう)の氷の山に、一升(いっしょう)の熱湯 をかけたら、その時は 少し 氷が解けるのだけれども、夜になり、明け方になると、他の所よりも、その かけた熱湯の分だけ 氷のかさ が増えている、というようなものである。
凡夫が、この穢土(えど)で菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)して、迷いの苦しみを救おう と思うのも、また この通りである。貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)は、心にかなったり かなわなかったりすることが多いから、自ら 煩悩を起こして、かえって悪道(あくどう)に堕(お)ちることになる。

-12-


 ↓
私達は 世間の中で生活している。世間の中で生活しながら「仏法」という時に、
「仏法と私達自身との関係」が どうなっているのか、が非常に厳(きび)しく問われてくる。
「仏法を主(あるじ)と為(な)し、世間を客(きゃく)とせよ」「仏法を立場として世間を生きる」
そのことが どれだけ徹底しているのか。
親鸞聖人でも蓮如上人でも、繰り返し 繰り返し そのことを問題にされ、言い続けておられた。

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「世間」とは、共同体。現代の「世間」は、世界全体の共同体 ということになる。
その「世間のしくみ」は、政治権力を中心に、秩序を保(たも)つため、「しなければならないこと」「してはならないこと」を、はっきり と 立てていく。
そして、「しなければならないこと」をすれば「賞(しょう)」を与え、「してはならないこと」をすれば「罰(ばつ)」が与えられる。
罰とは「社会的な死」を与えること。仲間外れ にし、生活権や生存権を奪っていく。だから 非常に 恐怖 となる。
世間の中で生きよう とすれば、いつも賞(しょう)罰(ばつ)を気にしながら、自分の居場所を得るための生活 を余儀(よぎ)なくされる。

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だから、世間を立場にして 仏法を語ろうとすれば、いつでも 自分の居場所を得るために、自分のあり方 や 世間のしくみ を正当化し 絶対化するために、仏法を「権威(けんい)」として利用してしまう。
そのような者が、「仏法」のことを語れば語るほど、世間に害毒(がいどく)を流すことになる。
「仏法を主(あるじ)として」と思って生活していても、状況の中で、いつのまにか「世間が主(あるじ)」になっていることが、現実問題として起きている。

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自力 では 退転(たいてん)する(だんだん悪い方へ移りかわる)という問題を抱えている。
だから、凡夫が菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)し 人々を救おうとする ことを、諸仏(しょぶつ)が許してくださらない。

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『安楽集(あんらくしゅう)』道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 著(ちょ)
 また問うていう。時代が悪いから かもしれないが、「すべての衆生には みな 仏性(ぶっしょう)がある」と、お釈迦様は言われている。遠い昔から、生まれ変わり 死に変わり、さまよいながらも、「これが本当の私の姿ではないだろうか」と思えるものに出会ってきた。それなのに、なんの 実(みの)り も 無く、今に至るまで 迷いの世界 を ぐるぐると回り続けて出られない。これは いったい どういうわけなのだろうか。
(仏性(ぶっしょう)
  仏(ぶつ)になる原因。仏種(ぶっしゅ)。仏性(ぶっしょう)とは、人間の中に きれいな心 がある ということではない。人間は、迷いながら、とんでもないことを 言ったり、したりする。起こさなくてもいい煩悩 を 起こしたりして、ウロウロしている。
  ふと、そんな自分 を 顧(かえり)みて「こんなことをしていていいのだろうか? このままでいいのだろうか?」と、気になって心配になることがある。そのことが、仏法を開く ご縁になってくる。
  「自分の生き方は、これでいいんだ」と、自分に言い聞かせている人は、  「仏法を聞きたい」とは思わない。
  自分が問題になる心、その心だけが、仏様を感じることのできる心であり、その心 を 仏性(ぶっしょう) という。)
答えていう。大乗(だいじょう)の教え(誰でもが、真実に出会い救われていく この上なく勝(すぐ)れた教え)には、二種の教え がある。その教え に出会っていないから、迷いの世界を抜けられないのである。

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仏(ぶつ)の教(おし)え には 二つある。一つには聖道門(しょうどうもん)、二つには往生 浄土門である。しかし、聖道門(しょうどうもん)の教え は、今の時代に そぐわず、証(さと)ることはできない。その理由は 二つある。一つの理由は、聖道門(しょうどうもん)の教え は、お釈迦様が おられたからこそ、お釈迦様の人格 に支えられて、多くの仏教徒は、一生懸命 覚(さと)りへの歩み を進めることができていた。しかし、今は もう お釈迦様が お亡くなりになってから、遥(はる)かに時間が経(た)ってしまい、お釈迦様の影(かげ) が薄(うす)くなってきてしまっている。
もう一つの理由は、たしかに いろいろの お経があり、非常に深い道理が説かれているけれども、具体的で なくなり、ただ理屈でわかる というような、単なる 学問 になってしまっている。

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「浄土門(じょうどもん)」
 この世では悟(さと)りを開くこと は できないが、「阿弥陀様 の ご本願」によって お浄土に生まれて、悟(さと)りを開く道。

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「聖道門(しょうどうもん)の教え は、今の時代に そぐわず、証(さと)ることができない」、その問題に応(こた)えて、諸仏の大慈悲 は、ただ ひたすら 浄土 を勧(すす)め、浄土に帰らせよう としてくださっている、と教えてくださった。

「正信偈」
至(し)安養界(あんにょうかい)証(しょう)妙果(みょうか)(安養界(あんにょうかい)に至(いた)りて妙果(みょうか)を証(しょう)せしむ と、いえり。)
 〈 現代語訳 〉
 安(やす)らかな世界に至(いた)って すばらしい悟りが開かれることとなるのです、と教えてくださいました。

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『正像末(しょうぞうまつ)和讃』十七 親鸞聖人 著
像末(ぞうまつ)五濁(ごじょく)の世となりて、釈迦の遺教(ゆいきょう)かくれしむ
弥陀の悲願(ひがん)ひろまりて 念仏往生さかりなり

〈 意訳 〉
像法(ぞうぼう)末法(まっぽう)の五濁(ごじょく)の世 となって、お釈迦様の遺(のこ)された聖道門(しょうどうもん)の諸教(しょきょう)は隠れてしまわれた。阿弥陀様の大悲の本願のみ が弘(ひろ)まって、この本願に誓(ちか)われた 念仏往生 が 盛(さか)りである。

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今日 の お言葉

原文
道綽(どうしゃく)決(けッ)聖道(しょうどう)難(なん)証(しょう) 唯(ゆい)明(みょう)浄土可(か)通入(つうにゅう)

〈 書下し文 〉
道綽(どうしゃく)、聖道(しょうどう)の証(しょう)しがたきことを決(けっ)して、ただ浄土の通入(つうにゅう)すべきことを明(あ)かす。

〈 意
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、自力によって修行しようとする 聖道門(しょうどうもん)の教え では覚(さと)りが得(え)られないことを明らかにされ、そして、阿弥陀様の願い として凡夫に差し向けられている他力の念仏 によって浄土に往生する 浄土門(じょうどもん)の教え こそが 私達の通(とお)るべき道であることを明らかにされた。(聖道(しょうどう)・浄土二門(にもん)の決判(けっぱん))

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