44 行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽

↑ 練習した音源(約29分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


《 善導大師(ぜんどうだいし)(七高僧 第五祖) 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

《 浄土真宗の構造「仏性(ぶっしょう)・光明・名号・信心 の関係」 》

 ↓ 花の種(原因)・芽が出て育つ環境(条件)・開花(結果)に例えると

花の種(原因)‐光明と仏性(ぶっしょう)(仏になる種(たね))。
 『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』意訳 親鸞聖人 著
 「仏性(ぶっしょう)」とは、すなわち「阿弥陀如来」である。
 (今から十劫(じゅっこう)の昔(むかし) 法蔵菩薩が阿弥陀如来になられた時に、「何ものにも妨(さまた)げられることのない、すべての世界を照(て)らす光明」を放(はな)たれて、すべての世界の隅(すみ)から隅(すみ)まで照(て)らし抜(ぬ)いた。その光明を受けたもの の 心(こころ) に仏性(ぶっしょう)が宿(やど)った。)
 阿弥陀如来は、数限りない世界のすみずみにまで満ちわたっておられ、すべての命あるものの「心」にまで なっておられる。
 その「命あるもの すべての「心」に宿(やど)る阿弥陀如来」を「仏性(ぶっしょう)」と呼ぶのである。
 「草や木、山や河や大地がことごとく成仏する」と『涅槃経(ねはんぎょう)』に説(と)かれてあるのは、その「仏性(ぶっしょう)」によって「阿弥陀如来の四十八の願い」を信じることができるからである。

芽が出て育つ環境(条件)‐光明と名号。「光明」によって 衆生を摂(おさ)め取(と)り、その摂(おさ)め取(と)った衆生を、「名号」によって 造(つく)り変(か)える。

開花(結果)‐信心をいただくこと。
 私達の人生において、信心をいただくことが、一番 素晴らしいこと。
 それ以上のことは何もない。

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 ↓ すでに私達は救われている!

『専修(せんじゅ)念仏の人』信國(のぶくに) 淳(あつし) 意訳
ところで諸君(しょくん)が ここ(大谷専修(せんしゅう)学院)で学ばねばならぬ仏教 とは 何かというと、諸君(しょくん)自身の内(うち)に見出(みいだ)すべき教え である。その教え は仏陀(ぶっだ)釈尊(しゃくそん)を代表とし、また 私どもにしてみると、特に親鸞聖人を代表とする教え(浄土真宗)である。しかし、その教えは、すでに諸君(しょくん)自身のいのちの内(うち)に、諸君(しょくん)の内(うち)に隠(かく)されている仏法なのである。私は まず最初に 以上のことをはっきりさせて、諸君(しょくん)の注意を喚起(かんき)しておかねばならぬと思う。
仏法とは諸君(しょくん)から仏(ぶつ)を生み出す法(ほう)、諸君(しょくん)を仏(ぶつ)たらしめる法(ほう)である。
そういう仏法が、人間に生まれたことにより、人間としての いのち に、すでに諸君(しょくん)と共にあるのだ と 私は あえて言おう。〈 中略 〉
人間 誰(だれ)も持っている仏法の宝(たから)も、自覚にならぬ以上、誰(だれ)も宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れに終(お)わらざるをえぬ。
そのように人間 誰もが持ちながら、それと気付かずにいた仏法の宝(たから)を、いち早く自己自身の内(うち)に見出(みだ)し、仏(ぶつ)に成(な)る という 自己(じこ)成就(じょうじゅ)を 美事(みごと)に なしとげた人間の歴史、それが仏教の具体的な内容である。


前回 の お言葉

〈 善導章(ぜんどうしょう) 原文 〉
善導(ぜんどう)独(どく)明(みょう)仏(ぶつ)正意(しょうい) 矜哀(こうあい)定散(じょうさん)与(よ)逆悪(ぎゃくあく) 
光明(こうみょう)名号顕(けん)因縁(いんねん)  開入(かいにゅう)本願大智海(だいちかい)

〈 書き下し文 〉
善導(ぜんどう)独(ひと)り、仏(ぶつ)の正意(しょうい)を明(あ)かせり。
定散(じょうさん)と逆悪(ぎゃくあく)とを矜哀(こうあい)して、光明(こうみょう)名号、因縁(いんねん)(であることを)を顕(あらわ)す。
本願の大智海(だいちかい)に開入(かいにゅう)(せしめてくださった。)

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〈 意訳 〉
中国には大変すぐれた学僧(がくそう)が たくさんおられたのだけれども、善導大師(ぜんどうだいし)だけが、ただ独(ひと)り、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』を しっかりと読み込まれて、『観経(かんぎょう)』の お釈迦様の本当の お心 を はっきりと明らかにしてくださいました。
その内容は、次のようです。
「・定善(じょうぜん)(雑念(ざつねん)を除(のぞ)き、精神を一点に集中する 安定した修行 によって行(おこな)う善(ぜん))
 ・散善(さんぜん)(日常の散乱(さんらん)した心のままで修(おさ)める善(ぜん))
 という 善行(ぜんぎょう)を積(つ)むことのできる「善人」と呼ばれる者 も、
 ・五逆(ごぎゃく)(お育てくださるもの に 背(そむ)く 重い罪)
 ・十悪(じゅうあく)(人間関係を壊(こわ)す罪)
 という 悪を犯(おか)し 善行(ぜんぎょう)も積(つ)むことのできない「悪人」と呼ばれる者 も、実は、どちらも 阿弥陀様の願いに背(そむ)いていることに気づかず、「自力(じりき) という 深(ふか)い迷(まよ)いにいる者」である。自力(じりき)では 浄土に生まれることはできない。
 私達が、浄土に生まれる唯一の道は・・
 ・阿弥陀様 の 父のように温(あたた)かく厳(きび)しい「名号」に お育ていただく。
 ・阿弥陀様 の 母のように温(あたた)かく厳(きび)しい「光明」に摂(おさ)め取られ お育ていただく。
 そのことが因縁(いんねん)となって、自分自身のことを本当に思い知る 信心(結果)をいただく。
 そして、海のように広く深い阿弥陀様の智慧の中に迎え入れられ、真実に背を向ける「自分の計らい」「自分の思い」にこだわり続ける心を捨て去り、心の奥底にある
 「意味のあること なら、損をしてもいい!」
 「やりがいのあること なら、苦労をしてもいい!」
 という 生(い)き生(い)きとした大きな願い「仏性(ぶっしょう)」に生かされていた「本来の自分」に 立ち戻る。
 それが、私達が、浄土に生まれる唯一の道なのです。」

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このような『観経(かんぎょう)』の お釈迦様の本当の お心 を、善導大師(ぜんどうだいし)が顕(あらわ)してくださいました。

 ↓

ここで、一度、善導大師 の ご功績 が締(し)め括(くく)られるのですが、次の 正信偈 の お言葉 を招(まね)き寄(よ)せて来(き)た。

 ↓ 私達が本願の大智海(だいちかい)に開入(かいにゅう)すれば、どうなるか?

今日 の お言葉

〈 原文 〉
行者(ぎょうじゃ)正(しょう)受(じゅ)金剛心(こんごうしん) 慶喜(きょうき)一念(いちねん)相応(そうおう)後(ご) 与(よ)韋提(いだい)等(とう)獲(ぎゃく)三忍(さんにん) 即(そく)証(しょう)法性(ほっしょう)之(し)常楽(じょうらく)

〈 書き下し文 〉
行者(ぎょうじゃ)、正(まさ)しく金剛心(こんごうしん)を受けしめ、慶喜(きょうき)の一念(いちねん) 相応(そうおう)して後(のち)、韋提(いだい)と等(ひと)しく三忍(さんにん)を獲(え)、すなわち法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証(しょう)せしむ、といえり。

〈 言葉の意味 〉
「行者(ぎょうじゃ)」
 本願の行者(ぎょうじゃ)。人間が本願に目覚め、その人の上に 本願が働き、本願に行(ぎょう)ぜられて生きる人。その人が働いている のではなく、阿弥陀様が その人の上に働いて、動かされている人。
  ↓
 「信者(しんじゃ)」と言わずに「行者(ぎょうじゃ)」といわれた。ほかの宗教では「信者(しんじゃ)」という。
 「信者(しんじゃ)」は、理解者のこと。例えば、「念仏」が どのようなものなのかわかっている人。念仏が わかっている人 と 念仏を称(とな)えている人 とでは、大分(だいぶん)違う。念仏が わかる とは、念仏を向こうへ置いて 眺(なが)めているようなもの。
 親鸞聖人は「信心の行者(ぎょうじゃ)」とも いわれた。
  ↓

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 『歎異抄(たんにしょう)』第七章 意訳  親鸞聖人の直弟子(じきでし) 唯円(ゆいえん) 著
 念仏は、「無碍(むげ)の一道(いちどう)」である。その理由(わけ)は、信心の行者(ぎょうじゃ)に対しては、天(てん)の神(かみ)・地(ち)の神(かみ)も敬(うやま)って ひれ伏(ふ)し、また、人間の生活を脅(おびや)かすもの や、人間の理性を誘惑するもの など にも 引きずられることは ないからである。
  自分の犯(おか)してきた罪(つみ)の結果 も、自分を脅迫(きょうはく)するもの として感ずることはない。また、人間の造(つく)る どのような善 も、阿弥陀様の大悲の働き には及(およ)ぶものではない。だから、念仏は「無碍(むげ)の一道(いちどう)」なのである。

 ↓ 阿弥陀様の心 が 働いているから、金剛心(こんごうしん)といえる

「金剛心(こんごうしん)」
 信心のこと。もっとも硬(かた)く、壊(こわ)れることのない ダイアモンドに喩(たと)えている。どういう現状(げんじょう)になっても動かない心。
 絶望も しないけれども、また有頂天(うちょうてん)にも ならない、状況の変化に一喜一憂しない 静かな心。それは、もはや 人間の心 ではなく、仏(ぶつ)の心。そのような「金剛心(こんごうしん)」という 非常に大きな功徳 をいただく。
  ↓
 自分の思いによって起こす自力の信(しん)は、脆(もろ)くて、壊(こわ)れやすい。
 信心のない人は、すぐに慌(あわ)てる。ちょっと調子が悪ければ すぐ悲観(ひかん)する。
 そういう人に限って、ちょっと調子がよければ有頂天(うちょうてん)になる。
 人間の心は危(あぶ)ない。
  ↓
 「たのむ」という浄土真宗においても大切な言葉があるが、親鸞聖人は「恃(たの)む」という字を使っておられる。この字は「何々を立脚地(りっきゃくち)にする」という意味がある。「心(こころ)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶっち)に樹(た)て(心を仏法の大地に しっかりと立て)」と『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』にいわれている所があるが、これは「阿弥陀様がおられる大地を私の立脚地にする」ということになり、もう少し言うと、

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 「自分の心を自分の立場にしない」ということになる。
 よく使う「頼(たの)む」という字は、「自分を立場にして、他(た)を求める」という意味がある。「頼むから、助けてください」と言うのでしたら、「私は救われたい、私を助けてください」と依頼をしている。
 「他力」ということが 「他力本願‐他人任(まか)せにする」と、よく誤解(ごかい)されるのは、「他力を頼(たの)む」「他力に依頼する」と思われているから。
 そうではなくて、「他力を恃(たの)む」と、「他力を私の心(こころ)の立脚地(りっきゃくち)にする、私の心を頼りにしない」という「恃(たの)む」という漢字を使えば、「他力本願」の誤解(ごかい)も解ける。
 また、私の心が、「頼(たの)む」から「恃(たの)む」に変わる ということは、百八十度、心がガラリと変わったことを言い表す。自力を頼(たの)むこと を止(や)めて、他力を恃(たの)む(他力を私の心(こころ)の立脚地(りっきゃくち)にする)ということになる。

  ↓
 『歎異抄(たんにしょう)』第三章 意訳  親鸞聖人の直弟子(じきでし) 唯円(ゆいえん) 著
 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因(しょういん)なり。
 (他力を心(こころ)の立脚地(りっきゃくち)にする 悪人の自覚 こそ、真実の自己(じこ)になる根本的要因(よういん)なのである。)

 ↓
「正(まさ)しく金剛心(こんごうしん)を受けしめ」
 阿弥陀様 と 人間 とが 一つになった時(とき)の心(こころ)という。
 阿弥陀様の悟り が、煩悩具足(ぐそく)の凡夫 の上に 信心 として成就した(本願成就(じょうじゅ))。
  ↓
 本願は「十方衆生」に呼びかけられている。
 その全人類に呼びかけている本願の心を、「私一人のため」と受け取った。
 みんなに言われた話 を 自分のこと として受け止めた。
  ↓

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 『歎異抄(たんにしょう)』後序(ごじょ) 意訳  親鸞聖人の直弟子(じきでし) 唯円(ゆいえん) 著
 親鸞聖人が つねづね おおせになっていた お言葉 に
 「阿弥陀様が五劫(ごこう)という長い時間をかけて、すべての存在を救おう という深い思い から建(た)てられた誓願(せいがん) を、よくよく この身に引き当ててみると、それはひとえに この親鸞(しんらん)一人(ひとり)を救うためであったのだ。思えば、はかり知れない罪業(ざいごう)をもった この身 であるのに、たすけよう と思い立ってくださった本願の、なんと もったいないことか・・」
 と、しみじみと ご述懐(じゅっかい)されたことを、あらためて考えてみると、善導大師(ぜんどうだいし)の
 「わが身は、現(げん)にこれ、罪(つみ)深(ぶか)く迷(まよ)いの多い凡夫であり、永遠の昔から、つねに苦悩の海に沈(しず)み、つねに生死(しょうじ)の迷いに流転(るてん)して、ついに この闇(やみ)から抜け出る手がかりのない身である、と知れ」
 という、あの尊(とうと)い不滅(ふめつ)の言葉 と 少しも異(こと)なったところがない。

 ↓

慶喜(きょうき)の一念(いちねん) 相応(そうおう)して後(のち)、

〈 言葉の意味 〉
「慶喜(きょうき)の一念」‐信心 のこと。
  ↓
 『仏説無量寿経』 第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん) 成就(じょうじゅ)の文(もん)の一部 意訳
 苦悩する すべての凡夫は、本願の名号を聞いて、信心 を えた歓喜(よろこび) があふれて一念(いちねん)となるであろう。
  ↓
 このことが「慶喜(きょうき)の一念」といわれている。
 名号をいただき、本願に出遇(であ)った人の喜び。
 その内容を三つに分けていうと、
 ・初めて、本当の意味で、外道(げどう)(仏教以外の教え)を捨て離(はな)れて、仏(ぶつ)・法(ほう)・僧(そう)(教団)という三宝(さんぽう)を拠(よ)り所(どころ)とする身(み)になれた。

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 ・そうして、私の 善(よ)し悪(あ)し という思い を捨てて、真理を求める身になれた。
 ・しかも、私の出遇(であ)った仏法が、他ならない、
 「いかなる人間をも間違いなく仏(ぶつ)にする」という尊(とうと)い教えであった。
 そういう 大変 大きな喜び。
  ↓
 信心 には 必ず「慶喜(きょうき)」という 喜び がある。「私は信心をいただいた・・」と言いながら、浮かない顔をしているのは偽者(にせもの)。信心は明るくなる、スカッとする。

「相応(そうおう)」‐因(いん)(名号)と 結果(信心)が合致(がっち)すること。

「後(のち)」‐次へかかる言葉。

 ↓ 慶喜(きょうき)の一念(いちねん) 相応(そうおう)して後(のち)、どうなるのか?

韋提(いだい)と等しく三忍(さんにん)を獲(え)、すなわち法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証(しょう)せしむ、といえり。

 ↓

『仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』 意訳
(お釈迦様の)教えを聞き、韋提希(いだいけ)は、
“今まさに、私を救うために、私のそば で、まばゆく輝(かがや)いて、空中(くうちゅう)に立って、手を差し伸べてくださっている阿弥陀様の お姿”を拝見(はいけん)し、
心に歓喜(かんぎ)をおぼえ、「三忍(さんにん)」を獲(え)て、立ち直ることができたのです。

 ↓

「三忍(さんにん)」
 信忍(しんにん)(自分の本当の姿を知り、本願を疑(うたが)うことなく信ずる心喜忍(きにん)(信心によって生(しょう)じる喜びの心)・悟忍(ごにん)(智慧の光明によって目覚めさせられた心)」。
 「慶喜(きょうき)の一念」を獲(え)ると、この三つの心が、現在の私の上に、同時に働いてくる。

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余談(よだん)

「本尊(ほんぞん)」とは、私達に「本当に尊(とうと)い事実を あきらかにしなさい」と教(おし)え示(しめ)してくださる おはたらき 。
浄土真宗では、南無阿弥陀仏が本尊(ほんぞん)なのですが、浄土を映(うつ)し出す儀式を行(おこな)うため、「阿弥陀様の絵像(えぞう)・木像(もくぞう)の本尊(ほんぞん)」も現(あらわ)された。

 ↓

浄土真宗本願寺派(お西)では、『仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の中で韋提希(いだいけ)が拝見(はいけん)した
“今まさに、私を救うために、私のそば で、まばゆく輝(かがや)いて、空中(くうちゅう)に立って、手を差し伸べてくださっている阿弥陀様の お姿(住立空中尊(じゅうりゅうくうちゅうそん)) ”
 を「本尊(ほんぞん)の阿弥陀様の姿」と確定(かくてい)しているが、
 真宗大谷派(お東)では、「二つの説がある」としている。

 ↓ 二つ目の説(せつ)

『仏説(ぶっせつ)無量寿経』上巻(じょうかん)の終わり 意訳
また(浄土には)いろいろな宝(たから)でできた蓮(はす)の花(はな)がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億(ひゃくせんおく)の花びらがある。その花の放(はな)つ光(ひかり)には無数の色がある。
青い色、白い色と それぞれに光(ひか)り輝(かがや)き、同じように黒(くろ)・黄(き)・赤・紫(むらさき)の色に光(ひか)り輝(かがや)くのである。それらは鮮(あざ)やかに輝(かがや)いて、太陽や月よりも なお明るい。
それぞれの花の中から三十六百千億(ぴゃくせんおく)の光(ひかり)が放(はな)たれ、その それぞれの光(ひかり)の中(なか)から三十六百千億(ぴゃくせんおく)の仏(ほとけ)がた が現れる。
その お体(からだ) は金色(こんじき)に輝(かがや)いて、お姿(すがた)はことのほか すぐれておいでになる。
この仏(ほとけ)がた が また それぞれ百千の光(ひかり)を放(はな)ち、ひろく すべてのもの のためにすぐれた教えを お説きになり、数限(かずかぎ)りない人々に仏(ぶつ)のさとりの道を歩ませてくださるのである。

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〈 言葉の意味 〉
「すなわち(即(そく))」
 現在獲(え)た ご利益(りやく) によって、未来に得(え)る ご利益 が約束され、開けてくる。
 韋提(いだい)と等しく三忍(さんにん)を獲(え)る と、法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証(しょう)せしむ という未来 が、すでに開けている。

「法性(ほっしょう)」‐すべての存在 は「実体的なもの は 存在しない」という 真理そのもの。

「常(じょう)」‐一定していて変わらない。

「楽(らく)」
 苦(く)に対(たい)する 楽(らく) ではなくて、私達が認識(にんしき)する苦(く)と楽(らく) を ともに超えた安楽(あんらく)のこと。

「法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)」‐悟りの世界の幸せ。

「証(しょう)せしむ」‐会得(えとく)することになる。


まとめ

《 依釈段(いしゃくだん) 善導(ぜんどう)章(しょう) 》

〈 原文 〉
善導(ぜんどう)独(どく)明(みょう)仏(ぶつ)正意(しょうい) 矜哀(こうあい)定散(じょうさん)与(よ)逆悪(ぎゃくあく) 
光明(こうみょう)名号顕(けん)因縁(いんねん) 開入(かいにゅう)本願大智海(だいちかい)
行者(ぎょうじゃ)正(しょう)受(じゅ)金剛心(こんごうしん) 慶喜(きょうき)一念(いちねん)相応(そうおう)後(ご) 与(よ)韋提(いだい)等(とう)獲(ぎゃく)三忍(さんにん) 即(そく)証(しょう)法性(ほっしょう)之(し)常楽(じょうらく)


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〈 書き下し文 〉
善導(ぜんどう)独(ひと)り、仏(ぶつ)の正意(しょうい)を明(あ)かせり。
定散(じょうさん)と逆悪(ぎゃくあく)とを矜哀(こうあい)して、光明(こうみょう)名号、因縁(いんねん)(であることを)を顕(あらわ)す。
本願の大智海(だいちかい)に開入(かいにゅう)(せしめてくださった。)
すれば、行者(ぎょうじゃ)、正(まさ)しく金剛心(こんごうしん)を受けしめ、慶喜(きょうき)の一念(いちねん) 相応(そうおう)して後(のち)、韋提(いだい)と等(ひと)しく三忍(さんにん)を獲(え)、すなわち法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証(しょう)せしむ、といえり。

〈 意訳 〉
中国には大変すぐれた学僧(がくそう)が たくさんおられたのだけれども、善導大師(ぜんどうだいし)だけが、ただ独(ひと)り、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』を しっかりと読み込まれて、『観経(かんぎょう)』の お釈迦様の本当の お心 を はっきりと明らかにしてくださいました。
その内容は、次のようです。
「・定善(じょうぜん)(雑念(ざつねん)を除(のぞ)き、精神を一点に集中する 安定した修行 によって行(おこな)う善(ぜん))
 ・散善(さんぜん)(日常の散乱(さんらん)した心のままで修(おさ)める善(ぜん))
 という 善行(ぜんぎょう)を積(つ)むことのできる「善人」と呼ばれる者 も、
 ・五逆(ごぎゃく)(お育てくださるもの に 背(そむ)く 重い罪)
 ・十悪(じゅうあく)(人間関係を壊(こわ)す罪)
 という 悪を犯(おか)し 善行(ぜんぎょう)も積(つ)むことのできない「悪人」と呼ばれる者 も、実は、どちらも 阿弥陀様の願いに背(そむ)いていることに気づかず、「自力(じりき) という 深(ふか)い迷(まよ)いにいる者」である。自力(じりき)では 浄土に生まれることはできない。
 私達が、浄土に生まれる唯一の道は・・
 ・阿弥陀様 の 父のように温(あたた)かく厳(きび)しい「名号」に お育ていただく。
 ・阿弥陀様 の 母のように温(あたた)かく厳(きび)しい「光明」に摂(おさ)め取られ お育ていただく。
 そのことが因縁(いんねん)となって、自分自身のことを本当に思い知る 信心(結果)をいただく。

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 そして、海のように広く深い阿弥陀様の智慧の中に迎え入れられ、真実に背を向ける「自分の計らい」「自分の思い」に
こだわり続ける心を捨て去り、心の奥底にある
 「意味のあること なら、損をしてもいい!」
 「やりがいのあること なら、苦労をしてもいい!」
 という 生(い)き生(い)きとした大きな願い「仏性(ぶっしょう)」に生かされていた「本来の自分」に 立ち戻る。
 それが、私達が、浄土に生まれる唯一の道なのです。」
このような『観経(かんぎょう)』の お釈迦様の本当の お心 を、善導大師(ぜんどうだいし)が顕(あらわ)して
くださいました。
 そうして、本願の大智海(だいちかい)に入ることができれば、本願に目覚め、本願に行(ぎょう)ぜられて生きる人の上には、本願が成就(じょうじゅ)し、まさしく金剛(こんごう)のように硬(かた)く崩(くず)れない 他力の信心 を受け取らせてもらえるのです。
真実の信心に目覚め、本願を発(おこ)された阿弥陀様 の お心 に合致(がっち)したならば、大変 大きな喜び が・・
・初めて、本当の意味で、外道(げどう)(仏教以外の教え)を捨て離れて、仏(ぶつ)・法(ほう)・僧(そう)(教団)という三宝(さんぽう)を拠(よ)り所(どころ)とする身(み)になれた。
・そうして、私の 善(よ)し悪(あ)し という思い を捨てて、真理を求める身になれた。
・しかも、私の出遇(であ)った仏法が、他ならない、
 「いかなる人間をも間違いなく仏(ぶつ)にする」という尊(とうと)い教えであった。
そういう 大きな喜び が 湧(わ)き起(おこ)って来るのです。
また、その人は、韋提希夫人(いだいけぶにん)が獲(え)たのと同じ「三忍(さんにん)‐信忍(しんにん)(自分の本当の姿を知り、本願を疑うことなく信ずる心・喜忍(きにん)(信心によって生(しょう)じる喜びの心)・悟忍(ごにん)(智慧の光明によって目覚めさせられた心)」を、受け取ることになり、そして、ただちに、「悟りの世界の幸せ」を会得(えとく)する未来 が 約束され、開けてくるのです。

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