47 真宗教証興片州 選択本願弘悪世 還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入

↑ 練習した音源(約33分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


《 法然(ほうねん)上人(七高僧 第七祖(そ))》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より


前回の《 法然(ほうねん)上人(しょうにん)物語(ものがたり) 》に 出てこなかった正信偈の お言葉

〈 原文 〉
真宗教証(きょうしょう)興(こう)片州(へんしゅう) 選択(せんじゃく)本願弘(ぐ)悪世(あくせ)

〈 書き下し文 〉
真宗の教証(きょうしょう)、片州(へんしゅう)に興(おこ)す。選択(せんじゃく)本願、悪世(あくせ)に弘(ひろ)む。

〈 言葉の意味 〉
「真宗」‐
 「真(しん)」は「真実」。「宗(しゅう)」は「もっとも中心になる 肝心(かんじん)要(かなめ)のこと」。
 お釈迦様の教えの全体の中で、たった一つの真実であり、肝心(かんじん)要(かなめ)であること。
 そして、仏教の最も大切なところ ということは、とりもなおさず、私達の日々の生活の中で最も大切なこと。
 お釈迦様は、
 「人は、なぜ悩まなければならないのか・・」
 「人は、どうして悲しまなければならないのか・・」
 と、人の日常のありさま を問い続けられ、その答えに目覚められ、
 そして、その答えを私達に教えられた。

「教証(きょうしょう)」‐「教(きょう)・行(ぎょう)・証(しょう)」を短く表したもの。

「教(きょう)」‐
 教法(きょうぼう)‐ここでは、お釈迦様が『仏説(ぶっせつ)無量寿経』に お説きになられた
 「一切の人々を漏(も)れなく救いたい」と願っておられる阿弥陀様 の 本願の教え。

「行(ぎょう)」‐
 ここでは、一切を救うために阿弥陀様が施(ほどこ)し与(あた)えておられる「念仏」のこと。
 その他力の念仏を素直に受け取ることが、私達に残されている たった一つの「行(ぎょう)」。

「証(しょう)」‐
 「教(きょう)」に基(もと)づく「行(ぎょう)」によって生(しょう)ずる結果。
 浄土の教えでは、他力の念仏による「浄土往生」のこと。

ー1ー


「片州(へんしゅう)」‐片隅(かたすみ)の国。日本のこと。

 ↓

仏教が興(おこ)ったインド。その仏教が大きく発展した中国。
これらの国々からすれば、日本は、片隅(かたすみ)の国。
ところが、「真宗」を明らかにされたのは、世界の片隅である日本の法然上人であった!
法然上人に至(いた)って、ようやく、阿弥陀様が選び取られた願い、「往生するはずのない人を往生させたい」と願われた本願が、法然上人が、「真宗」の「教え」と、私達に残されている たった一つの「行(ぎょう)」と、その結果である「浄土往生」とを誰にも わかるように、教えてくださった!
と 親鸞聖人が喜んでおられる お言葉。


「選択(せんじゃく)本願」‐阿弥陀様が選び取られた願い。
  ↓
 浄土の教えの根本となる お経 は『仏説(ぶっせつ)無量寿経』。
 「仏(ぶつ)(お釈迦様)が無量寿(阿弥陀様)について お説きになられた お経」。

  ↓ その『仏説(ぶっせつ)無量寿経』に、「選択(せんじゃく)本願」が説かれている

 阿弥陀様が仏(ぶつ)になられる前、法蔵という名の菩薩であられた時、
 世自在王仏(せじざいおうぶつ)から 教え を受けて、
 「人類すべてを救うための浄土を開きたい」という大きな願いを発(おこ)された、
 そして、そのような浄土を実現するための教え を 師の世自在王仏(せじざいおうぶつ)に乞(こ)い求められたのです。

ー2ー


  世自在王仏(せじざいおうぶつ)は、法蔵菩薩の この深い願いに お応(こた)えになって、
 何(なん)と二百十億もの仏方(ほとけがた)の浄土の ありさま と、
 それらの浄土に生きる人々の様子をお示しになったのです。
 法蔵菩薩は、これら二百十億の仏方(ほとけがた)の浄土の様子を詳しく見せていただいた上で、
 他(ほか)の仏方(ほとけがた)の浄土とは違った、
 殊(こと)のほか勝(すぐ)れた願いを発(おこ)され、特別な浄土を実現したい と願われたのでした。
  ↑
 これが「選び取られた願い(選択(せんじゃく)本願)」。
 助かるはずのない凡夫を助けたい と願われた「本願」。
 真実に無知であり、教えに背を向けている どうにもならない 凡夫 をこそ、
 迎え入れる浄土を実現したい という願い。
  ↓
 法蔵菩薩は、仏(ぶつ)に成(な)ろう としておられましたが、
 「もし、この願いが成就しないのであれば、自分は仏(ぶつ)には成(な)らない」という
 誓いを立てられました。
 その法蔵菩薩が、すでに阿弥陀仏に成(な)られているのです。
 つまり それは、往生するはずのない凡夫を往生させたい と願われた「本願」が、
 すでに実現している、ということなのです。


「悪世(あくせ)」‐
 私達が生きている この世界 のこと。私達が生きている この世間は「五濁(ごじょく)悪世(あくせ)」であり、
 私達が生きている この時代は「五濁(ごじょく)悪時(あくじ)」。
  ↓ 
 「劫濁(こうじょく)」‐
  「劫(こう)」は、「時代」のこと。時代の汚(よご)れ。
  疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)、動乱(どうらん)や戦争が続けて起こる など、
  時代 そのものが汚(よご)れている状態。
 「見濁(けんじょく)」‐
  「見(けん)」は、「見解(けんかい)(物事に対する考え方や価値判断)」のこと。
  邪悪(じゃあく)で汚(よご)れた 考え方 や 思想(しそう) が、常識 となって はびこる状態。

ー3-


 「煩悩濁(ぼんのうじょく)」‐
  煩悩による汚れ。ひっきりなしに、欲望や憎(にく)しみ など、
  煩悩による 悪(わる)い行(おこな)い が 起(お)こる状態。
 「衆生濁(しゅじょうじょく)」‐
  衆生の汚れ。人々のあり方 そのものが汚(よご)れている。
  心身ともに、人々の資質(ししつ)が衰(おとろ)えた状態。
 「命濁(みょうじょく)」‐
  命(いのち)の汚(よご)れ。自他(じた)の命(いのち)が軽(かろ)んじられる状態。
  また、「生きていくことの意味」が見失(みうしな)われ、「生(い)かされてある」という
  「有(あ)り難(がた)さ」が実感できなくなり、満足のない、むなしい生涯(しょうがい)を送(おく)る。



〈 正信偈の原文 〉
還来(げんらい)生死(しょうじ)輪転(りんでん)家(げ) 決(けっ)以(ち)疑情(ぎじょう)為(い)所止(しょし)

〈 書き下し文 〉
生死(しょうじ)輪転(りんでん)の家に還来(かえ)ることは、決(けっ)するに疑情(ぎじょう)をもって所止(しょし)とす。

〈 言葉の意味 〉
「生死(しょうじ)」‐仏教用語の時は、「迷っている状態」のこと。
  ↓
 人は、日頃、目先の出来事に気を取られて、かけがえのない人生 の最も大切な 真実 を見失っている。
 真実を見失ったまま生きている ということは、迷っている ということ。
 人が苦悩を背負うのは、その人の資質や能力、生(お)い立(た)ちや実績に問題があるのではない。

 ↓

「生死(しょうじ)輪転(りんでん)」‐
 迷っていることにも気づかずに、道理に従わず、道理に逆らって、迷ったまま生きて、さらに次々と迷いを重ねていく。
 幾重(いくえ)にも重(かさ)なる深(ふか)い迷(まよ)いの中を転(ころ)がり回(まわ)る。

-4-


 悩み苦しみ からの 本当の解放 を教えるのが 仏教 なのですが、私達は、
 目の前の快適(かいてき)さ に気を奪(うば)われて、愚(おろ)かにも「生死(しょうじ)」(迷いの状態)を頼りに
 してしまう。このため、表面的な、形ばかりの安楽(あんらく)に酔(よ)い痴(し)れて、結果として
 苦悩に苦悩を重ねることになる。

 ↓

「生死(しょうじ)輪転(りんでん)の家に還来(かえ)る」‐
 まるで、故郷の家を懐(なつ)かしむ かのように、私達は、
 「生死(しょうじ)」(迷いの状態)が 自分の帰(かえ)るべき所 であるかのように錯覚(さっかく)して、
 すぐに迷いに立ち戻ってしまう。

 ↓ どうして、生死(しょうじ)に輪転(りんでん)して苦悩を重ねることになるのか?

「疑情(ぎじょう)」‐
 「疑(うたが)う心(こころ)」に止(とど)まっている。人が「生死(しょうじ)」から離れることができず、
 悩(なや)みに悩(なや)みを重(かさ)ねなければならないのは、仏(ぶつ)の教(おし)えを疑(うたが)うから。
 お釈迦様は、私達のために『仏説(ぶっせつ)無量寿経』を お説きになって、
 「阿弥陀様が、苦悩する人々を すべて 本当の安楽(あんらく)に導(みちび)きたい と願って
 おられるのだから、その阿弥陀様の本願に お任せしなさい。」
 と、教えておられる。ところが、私達は、その教え を 疑(うたが)ってしまう。
 それはなぜか、というと、仏(ぶつ)の教え よりも、自分の考えを尊重(そんちょう)しているから。
 「自分が思っていること」と「事実」は、まったく関係がないはずなのに、
 「自分は それなりに わかっている」と思い、自分を信用する。
 愚(おろ)かであるのに、愚(おろ)かだ とは思っていない。
 自分の考え を 無条件に信用したままで 教え に接すると、教え を 素直に
 受け取れなくなる。また、自分の考え と、教え との間に 食い違い が
 起こると、自分の方を信用しているので、教え が信用できなくなる。
 「自分の考え を 無条件に信頼している」ということが「疑い」の原因と
 なっている。「信(しん)」の反対の言葉が「疑(ぎ)」ということになる。

-5-


  また、私達は、常に 善悪を選ぶ世界 の中で、恐れ を抱(いだ)きながら生活を
 している。社会では、秩序を守らせるために、「しなければならない善」と、
 「してはならない悪」を分けている。そのうえで、「してはならない悪」をして
 しまえば、必ず、悪人として罰(ばっ)せられ、居場所を奪(うば)われ、「社会的 死(し)」に
 追いやられ、実際に殺されてしまう場合もある。
 仲間という共同体は、「してはならないこと」を禁忌(きんき)として、それを守ることに
 よって協力し合い、結束(けっそく)している。
 誰もが、そのような 恐怖に縛(しば)られた原体験(げんたいけん) を持っている。
 実は、「浄土往生」ということも、その 禁忌(きんき)を侵(おか)す恐怖 が徹底して
 私たちの身(み)に染(し)みついているため、
 「善悪を えらばない阿弥陀様の本願 は 確かに尊(とうと)く、
 そこにこそ 真実 がある」と、思えるのだけれど、自分の原体験によって、
 「やはり、善人が助かって、悪人は助からない」となってしまい、
 また、「生死(しょうじ)輪転(りんでん)の家に還来(かえ)」ってしまう。
 仏教では「阿弥陀様の本願を疑(うたが)う罪」が、「一番 重い罪」。本願を疑(うたが)ったら、
 助かるはずもないのに、私たちは 自分の考え を 無条件に信頼してしまう。



「所止(しょし)」‐迷いの状態に止(とど)まる理由。

 ↓

本願を疑う心を断(た)ち切(き)るのが諸仏(しょぶつ)善知識(ぜんちしき)です。諸仏(しょぶつ)善知識(ぜんちしき)が私達の その疑(うたが)いを知らせて、除(のぞ)いてくださる。これが「唯除(ゆいじょ)の文(もん) という問題」です。

 ↓ 例えば

-6-


〈 第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん)成就(じょうじゅ)の文(もん)(『仏説 無量寿経』下巻の始め)意訳 〉
 あらゆる衆生は、その名号を聞いて、信心を獲(え)た 歓喜(よろこび) が あふれて
一念(いちねん)(疑(うたが)いなく仏(ぶつ)を信じる心)となるであろう。阿弥陀如来は 心から、その一念(いちねん)を
回向(えこう)してくださるのである。
「彼(か)の国に生まれよう」と願(ねが)えば、たちどころに往生を得(え)て、不退転(ふたいてん)に住(じゅう)する。
〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉
ただ、五逆(ごぎゃく)の罪(つみ)(私を お育てくださるものに背(そむ)く(逆(さか)らう)重い罪)を犯(おか)した者と、
仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る者だけは除(のぞ)かれる。

 ↓

〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉は、
「私は 五逆(ごぎゃく)の者 である・・ 仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る者 である・・
 本来ならば、助からない者なんだ・・」と、
「罪の深さ・自力の限界」を徹底的に知らせて、
「だからこそ、私は、阿弥陀様から与えられている「他力 の お念仏」を
 頼り としなければ、救われることは ないんだ」という
「信心為本(いほん)(信心を本(ほん)と為(な)す)」を知らせてくださる お言葉なのです。

 ↓

法然上人は「諸仏(しょぶつ)善知識(ぜんちしき)の護念(ごねん)」を第十七願(がん)と示されました。
〈 第十七願 大悲の願(がん) 〉
私が仏(ぶつ)になるとき、すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、
皆(みな) 私の名 を ほめたたえるでしょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。

 ↓

すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、阿弥陀様の名号「南無阿弥陀仏」 を
ほめたたえている。だからこそ、私達に 名号 が 届けられ、名号 をいただくことができる。

-7-


 ↓

そして、親鸞聖人は、本願を疑う心を第二十願(がん)と示されました。
『浄土和讃 六四』親鸞聖人 著
至心(ししん)・回向・欲生(よくしょう)と 十方衆生を方便(ほうべん)し
名号の真門(しんもん)ひらきてぞ 不果遂者(ふかすいしゃ)と願(がん)じける
 〈 意訳 〉
 阿弥陀様は、第十八願 他力念仏に入れない者のために、
 第二十願を起こし、
 「自力(じりき)真実心(しんじつしん)から、称名念仏して 唱(とな)えた念仏 を 往生の行(ぎょう) として
  ふり向け、わが国に生まれたい と 欲(おも)え」と、自力念仏の道を開き、
 十方衆生を誘(さそ)い、ついには、「真実の浄土の往生を遂(と)げさせる」
 と お誓(ちか)いくだされた。

 ↓

親鸞聖人は、「常に本願を疑う私である・・」と、深く知らされて、
「私は、いつまでも法然上人の弟子でしかないんだ」と、法然上人との関係を
保たれて、常(つね)に法然上人を憶(おも)い起(お)こされ、本願を疑う心から離れよう と
努(つと)めておられた。

 ↓

『歎異抄(たんにしょう)』第六章 親鸞聖人の直(じき)弟子 唯円(ゆいえん) 著(ちょ) 意訳
この親鸞は、一人の弟子も ありません。なぜなら、私が教えて みなさんが
阿弥陀様に救われたのならば、私の弟子 とも いえるかもしれません。
しかし、みなさんが仏法を聞き始められたのも、求められたのも、阿弥陀様に
救われたのも、まったく阿弥陀様の お力によって なのですから、
みなさんを「私の弟子だ」などというのは とんでもない傲慢(ごうまん)なことです。

 ↓

-8-


『末燈鈔(まっとうしょう)』六 親鸞聖人 最晩年(さいばんねん)八十八歳 著
けっして学者振(ぶ)った議論をなさらないで、浄土に生まれることをなし遂(と)げて下さい。
亡くなった法然聖人が「浄土の教えを信ずる人は愚(おろ)か者(もの)となって浄土に生まれる」
と仰(おお)せられたことを、確かに承(うけたまわ)りました ばかりでなく、
何の弁(わきま)えもない あさましい人々が訪ねてくるのをご覧になっては
「かならず浄土に生まれるに違いない」と、微笑(ほほえ)まれるのを見たことでした。
学問をした いかにも賢(さか)しい人(愚者(ぐしゃ)になりきれないで善悪を議論する者)が
訪ねてきたときは「浄土に生まれることは どうであろうか・・」と、
仰(おお)せられるのを確かに承(うけたまわ)りました。今になって思い合わせられます。

 ↓

『正像末(しょうぞうまつ)和讃』一一五首(最後から二番目) 親鸞聖人 晩年(ばんねん) 八十五歳 著
よしあしの文字をも しらぬひとはみな まことのこころなりけるを
善悪(ぜんまく)の字(じ)しりがお は おおそらごとのかたちなり
 〈 意訳 〉
 善悪の区別も しらないばかりでなく、善悪の文字さえも知らない人は
 却(かえ)って嘘(うそ)のない まことの心であったのに、
 善悪の字を知った顔をして物を書くのは大虚言(だいきょげん)の姿である。
 (賢(かし)こぶって和讃を書いているのです と自(みずか)らを愧(はじ)じておられる。)   

 ↓ 正信偈では、どうすれば、生死(しょうじ)輪転(りんでん)の家を離れて、
   本当の安楽(あんらく)に到(いた)ることができる といわれているのか?

〈 原文 〉
速(そく)入(にゅう)寂静(じゃくじょう)無為(むい)楽(らく) 必(ひっ)以(ち)信心為(い)能入(のうにゅう)

〈 書き下し文 〉
速(すみ)やかに寂静(じゃくじょう)無為(むい)の楽(みやこ)に入(い)ることは、必ず信心をもって能入(のうにゅう)とす、と いえり。

-9-


〈 言葉の意味 〉
「寂静(じゃくじょう)」‐
 「無為(むい)」‐いずれも「涅槃(ねはん)」と同じ意味の言葉。
 人が悩んだり苦しんだりするのは、自我への こだわり や、飽(あ)くことのない欲望
 など、さまざまな煩悩が原因。その煩悩から離れて、
 もはや煩悩に乱(みだ)されなくなった静寂(せいじゃく)な境地が「涅槃(ねはん)」。
 このため「涅槃(ねはん)」は「寂静(じゃくじょう)」と訳された。
 また、煩悩を離れた まったく静かな「涅槃(ねはん)」の境地は、
 凡夫が 日頃 為(な)していること、また 為(な)し得(え)ること を はるかに越(こ)えた世界で
 あることから、「無為(むい)」と訳されている。

 ↓

「寂静(じゃくじょう)無為(むい)の楽(みやこ)」‐
 自我への こだわり などを離れた、「寂静(じゃくじょう)」であり「無為(むい)」
 である「涅槃(ねはん)」こそが、本当の安楽(あんらく)である、ということ。

 ↓

「楽(みやこ)」‐
 法然上人は『選択(せんじゃく)本願念仏集』に
 「涅槃(ねはん)の城(みやこ)には信(しん)を以(もっ)て能入(のうにゅう)と為(な)す」
 と述べておられ、そのことから親鸞聖人は「涅槃(ねはん)の城(みやこ)」に対して
 「寂静(じゃくじょう)無為(むい)の楽(みやこ)(安楽(あんらく))」と いわれたのではないか、
 と推測(すいそく)される。

「能入(のうにゅう)」‐浄土に入ることのできる因(いん)のこと。


〈 前の正信偈の言葉 〉
疑情(ぎじょう)をもって所止(しょし)とす。

 ↓↑ 対照となっている

信心をもって能入(のうにゅう)とす

 ↓

「疑情(ぎじょう)」の反対が「信心」。
真実よりも、自我を優先させることによって、真実を疑(うたが)う情(こころ)が生じる。
その疑(うたが)いの情(こころ)がないことが、信(まこと)の心(こころ)。

-10-


 ↓

信心をいただいて、「寂静(じゃくじょう)無為(むい)の楽(みやこ)に入(い)る」ことが決定すれば、
「生死(しょうじ)輪転(りんでん)の家(世間の真(ま)っ只中(ただなか))」に いながら、心 に 浄土の世界 が開かれ、
阿弥陀様の お心 を憶念(おくねん)しながら生きる ことができるのです。
そこに、即(そく)得(とく)往生(生きている今、信心が決定(けつじょう)し、心に浄土が開かれ、新しい人生
が始まる)ということがあり、それは同時に、
「生死(しょうじ)輪転(りんでん)の家(世間の真(ま)っ只中(ただなか))」に還来(かえ)り、
阿弥陀様の お心 に目覚めた者 として、今ここにおいて、浄土を荘厳(しょうごん)し、
浄土を映し出していく という新しい生活が始まっていくのです。

 ↓ 往相(おうそう)・還相(げんそう)回向(えこう)が与えられてくる

私達 凡夫が、阿弥陀様 の お心 に触(ふ)れる ご縁 に恵(めぐ)まれれば、
・「お浄土に往(ゆ)きたい と願(ねが)い、お浄土に向かって 歩み 助けられていく‐往相(おうそう)」
という相(すがた)が、阿弥陀様から回向(えこう)されるのです。
・そうして、私自身が助けられた からこそ、
「周りの人達も、阿弥陀様に助けられてほしい」という 熱(あつ)い想(おも)い に
突(つ)き動(うご)かされて、「助からない 迷い 苦労のつきまとう世界 に、明るく
身を投げ出して、喜んで、苦労ができる者へ と お育ていただく‐還相(げんそう)」
という相(すがた)が、阿弥陀様から回向(えこう)されるのです。



《 依釈段(いしゃくだん) 源空章(げんくうしょう) 》
〈 原文 〉
本師(ほんじ)源空(げんくう)明(みょう)仏教 憐愍(れんみん)善悪(ぜんまく)凡夫人(ぼんぶにん)
真宗教証(きょうしょう)興(こう)片州(へんしゅう) 選択(せんじゃく)本願弘(ぐ)悪世(あくせ)
還来(げんらい)生死(しょうじ)輪転(りんでん)家(げ) 決(けっ)以(ち)疑情(ぎじょう)為(い)所止(しょし) 
速(そく)入(にゅう)寂静(じゃくじょう)無為(むい)楽(らく) 必(ひっ)以(ち)信心為(い)能入(のうにゅう)

-11-


〈 書き下し文 〉
本師(ほんじ)・源空(げんくう)は、仏教に明らかにして、善悪(ぜんまく)の凡夫人(ぼんぶにん)を憐愍(れんみん)せしむ。
真宗の教証(きょうしょう)、片州(へんしゅう)に興(おこ)す。選択(せんじゃく)本願、悪世(あくせ)に弘(ひろ)む。
生死(しょうじ)輪転(りんでん)の家に還来(かえ)ることは、決(けっ)するに疑情(ぎじょう)をもって所止(しょし)とす。
速(すみ)やかに寂静(じゃくじょう)無為(むい)の楽(みやこ)に入(い)ることは、必ず信心をもって能入(のうにゅう)とす、と いえり。

〈 意訳 〉
 法然上人は、比叡山ばかりではなく、南都(なんと)(奈良)の法相宗(ほっそうしゅう)をはじめ、
諸宗(しょしゅう)の方々からも一目(いちもく)も二目(にもく)も置かれ、当時、日本に伝わっていた仏教の教義(きょうぎ)の
最も深いところを究(きわ)められたのですが、
「人は、どのようにしたら、次々に襲(おそ)ってくる 悩み や 悲しみ から、
 解(と)き放(はな)たれるのだろうか・・」という 人生の答え を見出(みいだ)すことができず、
お釈迦様の教え である お経 を すべて読まれ、仏教の全体 を解明され、
「ただ念仏して」という教え こそが、お釈迦様の本当の お心 であり、
 阿弥陀様の願(ねが)いに順(したが)うことである!」
と、お気づきになられたのでした。
 そして、純粋な宗教を実現するために、比叡山から下りられ、京都の吉水(よしみず)において、貧富(ひんぷ)・貴賎(きせん)・老若(ろうにゃく)・男女・善悪を問わず、濁(にご)った世を生きなければならない人々、
真(まこと)の仏教を求める人々に、専修(せんじゅ)念仏(専(もっぱ)ら念仏を修(おさ)める)の教え を勧(すす)められ、
その教えを広められたのでした。
 世界の片隅(かたすみ)である日本 の 法然上人こそが、お釈迦様の教えの中で
たった一つの真実である
・「教(きょう)」‐「真宗」の教え(私達の日々の生活の中で最も大切なこと)。
・「行(ぎょう)」‐他力の念仏を素直に受け取ることが、私達に残されているたった一つの「行(ぎょう)」。
・「証(しょう)」‐他力の念仏によって「浄土往生」できる。
このことを、初めて、誰にでも わかるように、明らかにしてくださったのです。

ー12-


そして、浄土往生の因となる念仏 を、末法(まっぽう)(教え のみがあって、悟る者がいない)であり、五濁(ごじょく)悪世(あくせ)(五つの汚れに満ちた悪い世の中)に生きて、悩み 不安を抱えた人達が、素直に受け取ることこそが、阿弥陀様の
「真実に無知であり、教えに背を向けている どうにもならない 凡夫 をこそ、
 浄土に迎え入れて助けたい」と願われ、選び取られた願い(選択(せんじゃく)本願)に
従(したが)うことである、と教えてくださったのでした。
また、
「社会という共同体の善悪に縛(しば)られ、恐れ を抱(いだ)きながら生活をする私達は、
 「善悪を えらばない阿弥陀様の本願 は 確かに尊(とうと)く、そこにこそ 真実 がある」
 と、思えるのだけれど、自分の原体験によって、
 「やはり、善人が助かって、悪人は助からない・・」と、「阿弥陀様の本願を疑う」
 という「仏教では最も 重い罪」を犯してしまい、迷ったまま生きて、次々と迷い
 を重ねて転(ころ)がり回(まわ)っているのです。
 しかし、疑いの情(こころ)がない「信(まこと)の心(こころ)」をいただければ、自我への こだわり など
 を離れた 本当の安楽(あんらく)(浄土)に、必ず速(すみ)やかに入ることができるのです。
 そこに、世間の真(ま)っ只中(ただなか)に いながら、心 に 浄土の世界 が開かれ、
 阿弥陀様の お心 を憶念(おくねん)しながら生き、今ここにおいて、浄土を荘厳(しょうごん)し、
 浄土を映し出していく という新しい生活が始まるのです。」
と、法然上人は仰(おお)せになりました。
 もし法然上人が居(お)られなかったならば、迷いの世界を離れる強縁(ごうえん)である
「阿弥陀様の本願」を知らずに、この生涯も空(むな)しく過(す)ぎていたことでしょう。
法然上人が現れてくださったからこそ、やっと、私達が、真実 に生きることが
始まっていくのです。やっと、空(むな)しく過(す)ぎることのない、そういう一日一日を大切に
生き切れる 真宗の道 が明らかになったのです。

 ↓ 平成二十九年 六月 に見ました「第三段 依釈段(いしゃくだん) 結(むす)びの言葉」

ー13-


〈 原文 〉
弘経(ぐきょう)大士(だいじ)宗師(しゅうし)等(とう) 拯済(じょうさい)無辺極濁悪(ごくじょくあく) 道俗(どうぞく)時衆(じしゅう)共(ぐ)同心(どうしん) 唯(ゆい)可(か)信(しん)斯(し)高僧説(せつ) 

〈 書き下し文 〉
弘経(ぐきょう)の大士(だいじ)・宗師(しゅうし)等(とう)、無辺(むへん)の極濁悪(ごくじょくあく)を拯済(じょうさい)したまう。
道俗(どうぞく)時衆(じしゅう)、共(とも)に同心(どうしん)に、ただ この高僧の説(せつ)を信ずべし、と。

〈 意訳 〉
数多くある お経 の 中から、「阿弥陀様の ご本願」を、「大乗仏教の教え」を
深く汲み取られ、身をもって本願を生きられて、
世に弘(ひろ)めてくださった七人の高僧方が、
民族 や 時代の異なり をも 超えて、
極(きわ)めて濁(にご)りきった悪世(あくせ)に苦しむ あらゆる人々に、
「お浄土へ往生して、救われて行ってほしい」と、働きかけてくださっています。
その ご恩 に 報(むく)いるためにも、
僧侶であろう と、僧侶でなかろう と、すべての時代の、すべての人々は、
心を一つにして、他の教え ではない、「この高僧方の教え」によって、
正しい お念仏をいただいて、信心をいただいてほしい、と願っております。

ー14-