6 五劫思惟之摂受~一切群生蒙光照

↑ 練習した音源(約26 分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


《 原文 》
法蔵菩薩因位(いんに)時  在(ざい)世自在王仏(せじざいおうぶつ)所(しょ)  覩見(とけん)諸仏浄土因 
国土人天(にんでん)之(し)善悪(ぜんまく)  建立無上殊勝(しゅしょう)願  超発(ちょうほつ)希有(けう)大弘誓(だいぐぜい)

《 書き下し文 》
法蔵菩薩の因位(いんに)の時、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所(みもと)にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天(にんでん)の善悪を覩見(とけん)して、 
無上(むじょう)殊勝(しゅしょう)の願を建立し、希有(けう)の大弘(だいぐ)誓(ぜい)を超(ちょう)発(ほつ)せり。

《 意訳 》
阿弥陀様が、法蔵菩薩という修行者になられる前、
一国の国王であられた時、
世自在王仏の「教え」に、深く感動し、国も、財宝や妻子も、すべてを捨て、出家をし、法蔵菩薩という修行者になられたのでした。
そして、法蔵菩薩は、世自在王仏の所へ 行かれて、二百一十億のさまざまな仏方(ほとけがた)の国々の成り立ちと、
迷える人々が住む国々の「因‐原因」「縁‐条件」「果‐結果」の善悪を、はっきりと見究められ、
他の仏を はるかに超え勝れた「諸仏の浄土に往生できていない すべての人々を救う!」という「広大な お誓い」を たてられたのでした。

 ↓

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五劫(ごこう)思惟(しゆい)之(し)摂受(しょうじゅ) 重(じゅう)誓(せい)名声(みょうしょう)聞(もん)十方

五劫(ごこう)、これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。

 五劫‐「一劫」は、二十キロ四方の岩山に、天女が百年に一度降りて来て、その羽衣で岩山をなでて、
岩山が消える時間 → 五劫は「二百十六億年」
   ↓
  それほど、法蔵菩薩がご苦労くださり、果てしなく長い時間、考えをめぐらせてくださった。「それほど、人間は救われない存在なんだ!」ということを表している。

 思惟‐考えをめぐらすこと
 摂受‐(お念仏を)摂(おさ)め受ける → 行き着く、落ち着く
   ↓
  お念仏に行き着く、落ち着く

 重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。
  ↓
  五劫の間、「救われない私たち」を助けとげるために、法蔵菩薩は、考え を めぐらせ、ついに、「私たちを救うお念仏」を、発見されました。
  そのことを世自在王仏に申し上げたところ、
  「そなたの「その願い」を、ここで述べるがよい。」と、世自在王仏はおっしゃられ、法蔵菩薩は「念仏往生を中心とした四十八の願い」を申し上げられるのでした。
  そして、さらに、その四十八願を はっきり と させるために、重ねて「三誓偈」を説かれました。

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  その「三誓偈」の始めには、「三つのお誓い」が述べられています。
  第一に、「私の願いが、すべて成しとげられないことがあれば、私は仏に成りません」という お誓いです。
  第二に、「悩み苦しむ あらゆる人々を救えないのであれば、私は仏に成りません」という お誓いです。
  第三に、「私の名声を、あらゆるところに行き渡らせたい。もし、私の名が聞こえないことがあるならば、私は仏に成りません」という お誓いです。
  この「第三のお誓い」こそが、四十八願の中心である、ということから、「重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと」と いわれています。

 名声‐名号「南無阿弥陀仏」のこと
  ↓
 「三誓偈」の「第三のお誓い」こそが、「四十八願の中心」、「私の名声を、あらゆるところに行き渡らせたい。もし、私の名が聞こえないことがあるならば、私は仏に成りません」

  ↓ 四十八願の中心は、第十八願の「念仏往生の願」では?

  (十七)私が仏になるとき、すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、皆 私の名をほめたたえるでしょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
  (十八)私が仏になるとき、すべての人々が、心から私の言葉を信じ、「私の国に生れたい」と、わずか十回でも念仏を称えたならば、必ず、私の国に生れさせよう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗ったりする者だけは、除かれる。

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   ↓ 曽我量深先生いわく「第十七願と第十八願は、元々 一つであった」

  第十八願の「わずか十回でも念仏を称えたならば、必ず、私の国に生れさせよう。」という「念仏往生の願い」を、
  第十七願の「すべての世界の数限りない仏方が、皆 私の名をほめたたえる」ことで実現されていく。
  「南無阿弥陀仏をあらゆる所に行き渡らせて、すべての人々を救いたい」という「第十七願と第十八願のお心」

 ↓

 そして、五劫という果てしなく長い時間、考えをめぐらせて、ついに、「すべての人々を救うことができるのは、お念仏である」ということを発見されたのでした。
 法蔵菩薩は、世自在王仏に、その「念仏往生を中心とした四十八の願い」をお説きになられると、重ねて、「この南無阿弥陀仏のお念仏を、すべての人々に伝える!」と、誓われたのでした。

 ↓

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〈 浄土和讃 〉
弥陀成仏の このかたは  いまに十劫をへたまへり  法身の光輪きわもなく 世の盲冥(もうみょう)をてらすなり

 〈 言葉の意味 〉
 弥陀成仏‐弥陀が、本願を成就し、仏になる
 十劫‐時間の最大の単位
 法身の光輪‐法身は、生死の苦を離れた清浄の仏身。光輪は、光明を車輪に譬える。
 盲冥‐愚かで智慧に明るくない者

 〈 意訳 〉
 永遠の仏(みほとけ)の願いが成就して、すでに はるかな時(十劫)を経て来た。
 清らかな仏(みほとけ)の光の輪は、限りなく広がり、今なお世の闇を照らしている。

 ↓

法蔵菩薩は、「五劫」という果てしなく長い時間、考えをめぐらせて、「すべての人々を救うことができる お念仏」を発見され、さらに、「五劫」という果てしなく長い時間、功徳を積み、修行に励み、「世を超えた 深い悟り」を願い求められた。
そして、ついに、法蔵菩薩と なられてから十劫という時を経て、阿弥陀如来となられ、極楽浄土が現れたのでした。
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《 原文 》
普(ふ)放(ほう)無量無辺光 無碍無対光炎王(こうえんのう) 清浄歓喜(かんぎ)智慧光 不断難思無称光

超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

《 書き下し文 》
あまねく、無量・無辺光・無碍、無対・光炎王(こうえんのう)、清浄・歓喜・智慧光、不断、難思・無称光、超日月光(ちょうにちがっこう)を放って、塵刹(じんせつ)を照らす。一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。

《 意訳 》
阿弥陀如来は、十二種類の光を放って、どんなに細かい所でも、無数の世界を どこまで でも、照らし尽し、一切の衆生は、この光の輝きを 常に蒙(こうむ)っているのです。

〈 言葉の意味 〉
 塵刹を照らす‐どんな細かい所でも、どこでも照らしている
 光照‐仏の光明が あまねく照らすこと

十二種類の光の分類
「無量光(無量)」「無辺光」「無碍光(無碍)」は、仲間
「無対光(無対)」「炎王光(光炎王)」は、仲間
「清浄光(清浄)」「歓喜光(歓喜)」「智慧光」は、仲間
「不断光(不断)」は、単独
「難思光(難思)」「無称光」は、仲間
「超日月光」は、光全体を表現している お言葉

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仏性(『唯信鈔文意』より 親鸞聖人著)
 仏性は、すなわち阿弥陀如来である。
 この阿弥陀如来は、数限りない世界のすみずみにまで満ちわたっておられる。すなわち、すべての命あるものの「心」なのです。
「草や木、山や河や大地が ことごとく成仏する」と『涅槃経』に説かれてあるのは、生きとし生けるもの、すべての心に「阿弥陀如来の四十八の願い」を信じることができるからなのです。

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人間の根性「欲望」「煩悩」
 「損」が嫌いで、「得」が好き。「苦労」が嫌いで、「楽」が欲しい。「自分」さえよければ、「他人」は どうでもいい。
 
 ↓

「如来のお心」
 「人間の根性」の深いところには、もはや「人間の心」とは いえないほど 深い慈悲のお心「如来のお心」がある。
 「意味のあることならば、損をしてもいい。やりがいのあることならば、苦労をしても かまわない。自分さえよければいい のではなく、みんなと幸せになりたい」

 ↓

如来は、遠い所にいるのではない。「人間の根性」のもっと深い所で、いつも「如来の命に帰れ」と私を促し、私を揺さぶり、働きかけてくださっている。

 ↓

「私の内」からは、「如来の命に帰れ!」と呼びかけてくださっている如来の招喚(しょうかん)の声(如来の本願)

 ↓

「私の外」からは、「阿弥陀如来を信じて行け!」と呼びかけてくださっているお釈迦様・善き人・善知識の声がある(お経・お勤め など)
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〈 二尊教(にそんぎょう) 〉
「阿弥陀様(救いの主)・お釈迦様(教えの主・善き人・善知識)の声」が、私達の内と外から聞こえてくるので、誰にでも信心が開けてくる

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私達が、「人間の根性」の深い所にある「如来の慈悲のお心」に、目覚めるならば、生活のすべて 何もかもが 生き生きとしてくる。
「無駄なこと なんて 一つも無かった」と言えるようになる。

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〈 高僧和讃(曇鸞大師)〉
罪障(ざいしょう)功徳の体(たい)となる  こおり と みず の ごとくにて こおり おおきに みず おおし  さわり おおきに 徳おおし  

 〈 言葉の意味 〉
 罪障‐煩悩によって作る罪業

 〈 意訳 〉
 罪業と功徳の関係は、氷と水のようである。氷が多ければ、水も多い。
 そのように、罪障が多ければ、その罪障が、多くの功徳に変わっていく。

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阿弥陀様は、十二の光をもって、私を覆っているものを照らし出し、明らかにしてくださる。
そこに、「無駄なこと なんて 一つも無い」といえるような「生き生きとした生活」を開いてくださる。

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「阿弥陀様の光に照らされる」

『正信偈』
摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照護(しょうご)(摂取の心光 常に照護したもう)

 〈意訳〉
 阿弥陀様の大慈悲心の光に、照らされ、摂め取られれば、常に阿弥陀様に護られる

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「念仏をする「私たちの心の中」に、「仏の光」が宿る」ということを、「光に摂取される」「阿弥陀様に護られる」と いう

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「仏の光」が、「私たちの心」を「内」から照らし、「間違い」が「間違いであった」、「煩悩」が「煩悩であった」、「迷い」が「迷っていたんだ」と知らせてくださる。

 ↓

煩悩の元である「無明」を破ってくださる

まとめ(「仏性」と「阿弥陀様の光に照らされる」)
 阿弥陀様は、命あるものの「心」となって、世界のすみずみにまで行き渡ってくださっている。それを「仏性」と呼んでいる。そして、「私達の心」の本当に深い所に「如来のお心‐仏性」があり、阿弥陀様は、いつでも「その心」に、如来の命に帰るよう、語りかけ、働きかけてくださっている。
 「阿弥陀様の光に照らされる」と、その「仏の光」が、私の心の中に宿る。そして、「私の心」を内から照らし出し、「間違い」が「間違いであった」、「煩悩」が「煩悩であった」、「迷い」が「迷っていたんだ」と、私の「無明の心」に、「真実」を届けてくださる。

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