8 無対 光炎王 清浄 歓喜 智慧光

↑ 練習した音源(約27 分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


《 原文 》
普(ふ)放(ほう)無量無辺光 無碍無対光炎王(こうえんのう) 清浄歓喜(かんぎ)智慧光 不断難思無称光 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

《 書き下し文 》
あまねく、無量・無辺光・無碍、無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断、難思・無称光、超日月光を放って、塵刹(じんせつ)を照らす。一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。

《 意訳 》
阿弥陀様は、十二種類の光を放って、どんなに細かい所でも、無数の世界を どこまで でも、照らし尽し、一切の衆生は、この光の輝きを 常に身に受けているのです。

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十二種類の光の分類
「無量光(無量)」「無辺光」「無碍光(無碍)」は、仲間
 ↓
 この三光が十二光を代表している。
 「いつでも(無量光)、どこでも(無辺光)、どんな出来事の中でも(無碍光)」。
 この三光で「阿弥陀様の光明の ほとんど」が言い尽くされている。
 あとの「九光」は、大事な点を さらに詳しく おさえている。
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「無対光(無対)」「炎王光(光炎王)」は、仲間
「清浄光(清浄)」「歓喜光(歓喜)」「智慧光」は、仲間
「不断光(不断)」は、単独
「難思光(難思)」「無称光」は、仲間
「超日月光」は、光全体を表現している お言葉
 ↓

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《 無対光 》→ 菩薩に対して 《 炎王光 》→ 諸仏に対して
・「無対」は、「比べるものがない、比較できるものがない」ということ
・「光」は、「智慧」を喩えたもの

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「阿弥陀様の智慧」は、観世音菩薩・勢至菩薩・文殊菩薩などの菩薩方の智慧とは、比べること が できないほど優れている。
「阿弥陀様の智慧の光」を いただけば、菩薩方からは得ることのできない「最も優れた智慧の世界」が開かれてくる。

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「大乗の仏教」では、「智慧が開かれた者」を「菩薩」という。
(仏教では、「智慧」と「知恵」とを使い分けている。
 「智慧」‐ 仏様の所にある
 「知恵」‐ 人間の考え)
「菩薩」→ 智慧が開かれている者 
「凡夫」→ 智慧がない者
  ↓
 『一念多念文意』親鸞聖人 著 より
 「凡夫」は、その生身の体に無明煩悩が満ちみちていて、欲望も多く、怒り・腹立ち・そねみ・ねたみの心ばかりが絶え間なく起る。
 その心は、まさに命が終ろうとする その時まで、止まることも、消えることも、絶えることもない。

 ↓
お念仏を称えて、「阿弥陀様の智慧の光」をいただけば、凡夫では なくなる。
大乗の仏道(自分だけの救い ではなく、すべての救いを求める)
を歩む「菩薩」になる。
 ↓

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《 無対光(清浄光)》の ご和讃
清浄光明ならびなし  遇斯光(ぐしこう)のゆえなれば 一切の業繋(ごうけ)も のぞこりぬ  畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ

〈 言葉の意味 〉
遇斯光(ぐしこう) ‐ この光明に遇う → 光となって遇いに来てくださる阿弥陀様
業繋(ごうけ) ‐「罪業」に束縛されること
        ↓
       「罪業」- 苦しみを味わう のは、自分の「身体・言葉・心」によって作られた悪い行い が原因となっている、ということ
畢竟依(ひっきょうえ) ‐ 究極の帰依処。最後の依りどころ。

〈 意訳 〉
貪欲の罪を消し去る 清らか で 透き通る阿弥陀様の光明は、他に並ぶものがなく、この光明に出会えた ならば、すべての束縛から離れることができる。
この究極の依り処となる阿弥陀様の光を頼りとして、本来の命の姿に戻るべきである。

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《 炎王光 》→ 諸仏に対して
(正信偈 や ご和讃では「光炎王(こうえんのう)」とあるが、『無量寿経』では「炎王光」。
 正信偈 や ご和讃は 「歌」なので、歌いやすい「光炎王」にしたのでは?)
「炎王(えんおう)」とは「光の王」のこと。
「阿弥陀様の光」は、いかなる仏方の光よりも優れている。
その光は 光の中の王様! これ以上の光はない!


《 炎王光 》の ご和讃
仏光(ぶっこう)照曜(しょうよう)最大一 光炎王仏(こうえんのうぶつ)となづけたり 三途(さんず)の黒闇(こくあん)ひらくなり 大応供(だいおうぐ)を帰命せよ

〈 言葉の意味 〉
照曜(しょうよう) ‐ 照らし、輝くこと
三塗(さんず) ‐ 火(か)塗(ず)・刀(とう)塗(ず)・血(けち)塗(ず)(地獄・餓鬼・畜生)
大応供(だいおうぐ) ‐ 生きとし生けるもの に 心から敬われる仏様。弥陀の別号。

〈 意訳 〉
この仏様の光の輝きは、第一に勝れているので、光炎王仏と名づけられる。
この仏様の光は、他の諸仏の光が届かない「地獄・餓鬼・畜生」の暗い闇を、
明るく照らしてくださっている。
この本当に敬うべき阿弥陀様を頼りとして、本来の命の姿に戻るべきである。
 ↓
阿弥陀様の光明だけが、地獄・餓鬼・畜生にまで光が届く。
他の諸仏の光は、届かない。

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《 無対光 炎王光(智慧光) 》の ご和讃
無明の闇(あん)を破するゆえ 智慧光仏と なづけたり
(一切の諸仏の智慧を集めたまえるゆえに智慧光と もうす 一切諸仏の仏に なりたもうことは この阿弥陀の智慧にて なりたもうなり)
一切諸仏三乗衆(さんじょうしゅう) ともに嘆誉(たんよ)したまえり

〈 言葉の意味 〉
無明 ‐ 智慧の明るさ が無い 煩悩業障(ごっしょう)。今は、特に疑惑(真偽や正・不正についての疑い)を指す。
智慧光仏(ちえこうぶつ) ‐ 曇りなき智慧から現れる光明の仏様
三乗衆(さんじょうしゅう) ‐ 声聞(しょうもん)(仏の教えを聞いて悟る人)・縁覚(えんがく)(独(ひと)りで覚る人)・菩薩 (自利(じり)利他(りた)の大道を歩む人)、いずれも「仏の悟り」を 目指して精進している人
嘆誉(たんよ)‐ほめたたえる

〈 意訳 〉
智慧の明るさ の無い人々の「疑いの暗闇」を破るので、智慧光仏と呼ばれるのです。
また、智慧光仏とは「一切の諸仏の智慧を集めた」という お名前でも あり、一切の諸仏の智慧を集めたことによって、阿弥陀様は「すべての諸仏の師」と なられたのです。
この阿弥陀様を、諸仏や三乗達が、共に ほめたたえておられます。

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《 清浄光 歓喜光 智慧光 》
三毒の煩悩(貪欲、瞋恚、愚痴)に対して、現れる三つの光
「貪欲」→「清浄光」 「瞋恚」→「歓喜光」 「愚痴」→「智慧光」
  ↓

《 清浄光 》
「貪欲」‐ 貪りの心 → 人間をいやしく、汚くする
 ↓↑「清浄光」が「貪欲」を照らし、「貪欲」が「清浄」へと変わる
「清浄」
欲を起こす必要がなかった、「すべてが いただきもの で あった」という
「他力」の中を生きていることを知らせてくださる。


《 清浄光 》の ご和讃
道光(どうこう)明朗(みょうろう)超絶(ちょうぜつ)せり 清浄光仏と もうすなり ひとたび光照(こうしょう)かぶるもの 業垢(ごうく)を のぞき解脱(げだつ)をう

〈 言葉の意味 〉
道光 ‐ 仏の悟りの道から放たれる光明
明朗 ‐ こだわりがなく、明るく ほがらかなこと
超絶 ‐ 程度が他よりも はるかに飛び抜けて勝れていること
清浄光仏 ‐ 清浄無垢な心から現われる光明の仏様
業垢 ‐ 悪業と煩悩
解脱をう ‐ 悟りを開く

〈 意訳 〉
仏様の悟りの道から放たれる光は、明るく、ほがらかで、こだわりがなく、あきらかに他より勝れているから、清浄光仏と申す。
ひとたび この光明に照らされると、悪業煩悩が除かれ、悟りを開くことができる。(お浄土で)

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《 歓喜光 》
「瞋恚」‐ 怒り、腹立ち
 ↓↑「歓喜光」が「瞋恚」を照らし、「瞋恚」が「歓喜」へと変わる
「歓喜」
 『一念多念文意』親鸞聖人 著
 「歓喜」 というのは、「歓」は 身に よろこび が あふれることであり、「喜」は 心に よろこび が あふれることである。
 すなわち、得なければ ならない浄土往生を、必ず得るであろうと、あらかじめ往生に先立って よろこぶ という意味である。


《 歓喜光(無辺光) 》の ご和讃
慈光(じこう)はるかに かぶらしめ  ひかり の いたるところには 法喜(ほうき)をう とぞ のべたまう 大安慰(だいあんに)を帰命せよ 

〈 言葉の意味 〉
慈光 ‐ 大慈悲から放つ光明によって、その光に照らされた衆生に利益を与える
法喜 ‐ 法を聞いて、非常に喜ぶこと。歓喜光の利益。
大安慰 ‐ 恐怖している衆生を慰め、心静かに落ち着かせ、諭し、喜びを与える

〈 意訳 〉
慈悲の光明が、遠く どこまでも行きわたり、光に照らされた者に、信心を起こさせ、貪欲・瞋恚・愚痴の闇を消し去り、大きな喜びを与えてくださる。
この一切衆生の数多くの嘆き・憂い・悪きことを、皆 失わせて、安らかにしてくださる阿弥陀様を頼りとして、本来の命の姿に戻るべきである。

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 ↓
五怖畏(ごふい)(目に見えないもの に 対する五つの恐れ)
一、不活畏(ふかつい) ‐ 衣食住(衣服、食物、住居)の不安
二、悪名畏(あくみょうい) ‐「周囲から悪く思われていないだろうか」と、絶えず回りを気にしている
三、大衆威徳畏(たいしゅういとくい) ‐「仲間外れ」にされることを恐れ、実体のない「世間」に怯える
四、命終畏(みょうじゅうい) ‐「死んだら どうなるのだろう」という不安
五、悪趣畏(あくしゅい) ‐ 悪趣とは三悪趣「地獄・餓鬼・畜生」。「そのような苦しみの世界に、落ちたりしないだろうか」という不安。
 ↓

「死を恐れる生活」が「浄土へ生まれて行く者へ」と変わっていく
 
 ↓

「瞋恚」が「歓喜」へと変わる

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《 智慧光 》
「愚痴」‐ 自分の愚かさを知らない → 賢い つもりでいる
 ↓↑「智慧光」が「愚痴」を照らし、「愚痴」が「智慧」へと変わる
「間違い」を「間違い」と知らせてくださる。
 智慧の無い者は、自分の愚かさ が わからない。


《 智慧光 》の ご和讃
智慧の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく 光暁(こうきょう)かぶらぬもの は なし 真実明(しんじつみょう)に帰命せよ

〈 言葉の意味 〉
有量(うりょう)の諸相(しょそう) ‐ すべての限りのある衆生
光暁(こうきょう) ‐ 光明は衆生の闇を除くので暁(あかつき)に譬える
真実明(しんじつみょう) ‐ 真実の智慧の光明

〈 意訳 〉
私達が計り知ることのできない阿弥陀様の無量の光が、
すべての人々を照らしてくださっている。
この阿弥陀様の真実の光によって、本来の命の姿に戻るべきである。

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