2014年 4月号 人間はどこまでも自然の子である。自然の懐に帰りうるところに人間のあらゆる志願の満足がある。

このエントリーをはてなブックマークに追加

⦅松原祐善⦆『群萌の心』より

 4月に入り桜が咲き始めました。この人生で「あと何回の春を迎えることができてサクラを見ることが出来るのかなー」と感じるようになりました。咲いて、散っていく花にも名残惜しさを感じるのです。この名残惜しさ感は、高齢者なるものになってみて、ようやく周りにあるたくさんの命に出会えるようになってきたということでもあるのでしょうか。自覚というほど立派なものではありませんが、老年期になって少しは私の命の事実に目覚めてきたということなのでしょうか。「私が目覚めた」などと立派なことは申しません。私がたまわった命がようやくいただいている世界に目覚めてきたのでしょう。

 今月の言葉は松原祐善先生の『群萌の心』からです。この本は用紙に越前和紙を使った贅沢な装幀の本です。表紙の絵に高光一也さんが「もろもろの ほとけさまたち」という言葉と合掌された仏様を描いておられます。昭和四十七年発行です。

 松原祐善先生のお側に居らせていただくと感じさせられたのは大地性でした。先生が語られる真宗人とは大地に立ち、大地を拝んで生きられた人々でした。つまり都会人ではなかったのです。この本では「西欧に於ける自然征服観は人間自滅道であっても人間成就のそれとは言えない。自然をわすれたとき人間の物的化(ママ)と死がある。自然を離れ自然に背いて人間はひとり生き得ないのである」(8p)と記されていますが、三年前の東北の大地震の災害から今も立ち直らせない元凶こそ自然征服観が作り出した原発でしょう。人間が征服できると傲慢にも思っていた自然(アトム)は、とても人間の力が及ばないものでした。

 私たちの命には本人自身が目覚めていない要求があります。それを「人間に於ける自然への思慕は人間の理知の心を持って測り得ぬ深き要求であり、人間存在の奥底にその根があることである」。(同前)と松原先生は指摘されています。その「人間存在の奥底」にある「要求」を省みようともしない人間の有り様を「邪見憍慢の悪衆生」というのでしょう。私たちの身近なところで『正信偈』に「弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とあることにハッとさせられます。「邪見憍慢の悪衆生」とはダレなのでしょうか。大地から足が離れて宙に浮いた暮らしをしていながらそのことに気づかない知識だけを頼りにしてしまった現代人の姿なのではないでしょうか。このことを予見するかのように先生は「罪業の事実は自然を忘れ自然に抗し自然を汚濁したのである。人間は自然の光を仰がんとして、もはやその光をきき開く眼を有たないのである」。(9p)と書いておられます。

 前後しますが、この本の中身は昭和十年に創刊された雑誌『開神』に掲載されたものです。としますと七十数年以前に書かれたものなのです。仏教の歴史観は人間は進歩するとは見ていません。次第に悪くなっていくのです。「末法史観」と申しますが末法という時代は「さとりうるもの末法に一人もあらじ」(正像末和讃)という時代なのです。私たちが本当に求めているのは本当に帰りうる世界なのでしょう。認知症が進んでくると「帰りたい・・帰りたいという訴えが有り、生まれ育った処だそうです。実は帰りたいのは「自然の懐」なのでしょうね。