『曽我量深集』上 大谷派出版部 より
2014年もいよいよ最後の月になりました。過ぎ去った1年間に何をしてきたでしょうか。まさになすことも無くすごしてまいりました。『蓮如上人御一代記聞書』の66「慶聞坊のいわれ候う。「信はなくてまぎれまわると、日に日に地獄がちかくなる。まぎれまわるあらわれは、地獄がちかくなるなり。うちみは、信不信みえずそうろう。とおく、いのちをもたずして、今日ばかりと、おもえ」と、ふるきこころざしのひと、もうされそうろう」(聖典867p)という言葉が浮かんできます。
現在の言葉になおすと「慶聞坊が言われました。信心もないのに有るような顔をしてごまかしの日々をすごしていると日に日に地獄が近くなっているのだよ。毎日が忙しいのだと信心に心を向けようともしない日暮らしは地獄が近づいているのだ。ちょっと見たぶんには信心の有る無しはわからないけれども、いつまでも生きていることができるとは思わずに、今日一日だけのいのちかも知れないと思いなさい。と昔の聞法者のかたがいわれました」となるのでしょうか。そうか。わが身が一番可愛いと思いながら、わが身が地獄に向かっていることを放置しているのがわが身なのかとフト思うのです。
私たちは「日に日に地獄がちかくなる」という日々をやり過ごしていますが、やり直すことも、繰り返すことも出来ない今日一日であるという厳粛(げんしゅく)さに気がつくことがありません。そんな生活を私たちは「迷っている」という言葉で表現してきました。迷っているのですから行き先が判らない、現在居る場所がどこなのか判らないということでしょう。したがってウロウロするばかりです。その様な生活を続けて、そのまま真っ直ぐに地獄に向かって行ってくれるなという願いがかけられているのが私たち衆生なのでしょう。その願いをかけておられるのが如来、南無阿弥陀仏なのでしょう。
すこし難しいと思われるかも解りませんが曽我先生の言葉を味わっていきます。
「いったい阿弥陀仏という仏はどこからでてきたかと申すと、これは第十一願、真実証がもとである」『曽我量深集 上』2p。(中略)「じつは阿弥陀仏は真実証から本願をおこしたのである。阿弥陀仏は真実証からでてきたのである。」(同前)とあります。つまり阿弥陀仏とは悟りに向かっている仏様ではなくて真実の悟りの世界から出てこられた仏様だと言っておられるのです。それをこのようにいっておられます「一如の境涯、仏も衆生も平等の世界、一如とは真実、真実は真如、真如は一如、一如とはまこと。如とは常住、真実常住、一如には、悟れる仏でも迷える衆生でも同じことである。「まこと」に仏も衆生もかわりはない。如来にあっても衆生にあってもかわらぬものを一如という。(中略)「まこと」は仏でも衆生でも同じことである。(中略)さらに「南無阿弥陀仏と言うことは仏も南無阿弥陀仏、我われも南無阿弥陀仏ということである。(同前)「迷える者も悟れるものも南無阿弥陀仏、諸仏も衆生も南無阿弥陀仏である。(3p)
「仏には南無はあるまいというがそうではない。仏にあっても南無阿弥陀仏という行、南無阿弥陀仏という証である。我らの信心も行としてあらわせば南無阿弥陀仏である。迷える人間は信。悟れる仏は証。信と証は位は違うが、一つの如である。これを真如という」(同前)。
私たちが御内仏でお念仏するとき、仏様もまた念仏していてくださるのです。曽我先生は「如来に信ぜられ 如来に敬せられ 如来に愛せれる かくて我らハ 如来を信ずるを得」とも教えて下さっています。
※ 十一願とは「たとい我、仏を得んに、国の中の人天定聚(じょうじゅ)に住し必ず滅度(めつど)に至らずんば、正覚をとらじ」(聖典17p)=願名は「必至滅度」・「証大涅槃」・「往相証果」・「住正定聚」と言います。