2014年 2月号 どんな人の胸をたたいてもそこからは一粒の涙が流れてくる。そうであればこそ、一人ひとりに佛がましますということです。

⦅幡谷 明⦆

 富山県の1月の寒さは例年よりは厳しかったのですがは雪の方は少なくて助かりました。しかし、まだ2月ですから油断は出来ません。お隣の新潟県以外は例年よりも雪が多いようです。わずかな距離の違いが違った降雪量になっているのですから自然は不思議です。
 私たち町の住人には雪の少ないことは嬉しいことですが農家の人は「こんな年は田んぼの虫が多い」と言って心配しておられます。人間は自分の世界からしかモノが見えないと言うことを知らされます。モノを見るということは、自分の境涯からしか世界を見ていないことになります。最近の中国・韓国と日本の国際関係がギクシャクしているのも、それぞれが自国の都合だけでしか見えないメガネで見て、オレの言い分、これが正当だと主張しているのでしょう。厚顔無恥であることが素晴らしいことであるかのようなヘンテコな世界が出現しております。どれだけお金をつぎ込んでも福島の原子力発電所の事故は自然環境を修復できないことが次第に明らかになってきています。にもかかわらず原発再稼働を言い立てる人間の精神構造はどうなっているのでしょうか。

 今月の言葉は幡谷明先生の最近の御著書である『大乗至極の真宗』―無住処涅槃と還相回向― 京都市 方丈堂出版 からいただいております。先生の傘寿のお祝いに記念出版されたものです。

 「いのち尽きはてるところまで人間は背負いきれない業を背負い、あるいは業にひきずられながら、業をはたし尽くし得ないままに生きていくというそういう現実がございます。しかも人間は、仏教で「衆生」という言葉で表されるように、自然環境をも含め、多くのいのちあるもの、生きとし生けるものとの深いご縁のなかで、衆多の生死、迷いの世界を経めぐりながらいきていくものだということです。決して私一人で生きていくということはありえない。多くのものとのご縁に養われ育てられながら生きていく」3p

 それが人間の生きるという現実だとしておられます。さらに言葉を続けておられます。

「しかしそんなきれいごとだけではけっしてありえません。多くの人を憎み、多くの人を傷つけなければ生きていけないという、まさに愛憎善悪が違順し合っていく、そういう業縁世界を生きながら、しかもその業縁が、本当の意味で、ありがたい尊い縁としてなかなか成就しない、それが受け取れないで、多くの場合、それは「腐れ縁」「なんの因果で」というようなところで終わっていくことです」 4p
 
 「そういう自他の関係性における悲しみ、悼み、それが娑婆を厭うていくという心情をうみだしてくるわけで、それが教えに出遇っていくのでしょう。人に迷惑をかけずしては生きてはいけないということを、骨身に染みて知らされる者にとりましては、やはり、そういう世界を越えていける道に出遇いたいという願いがある。 」4p 以上第1章「如来回向の感性と叡智」より

 八十歳を越えられていくつもの病をかかえられ、すでに奥様に先立たれておられる先生が身の事実を述べられた言葉です。「どんな人の胸をたたいても、そこからは一粒の涙が流れてくる。そうであればこそ、一人ひとりに仏ましますということです」 181p 親鸞聖人が「浄土真宗とは二種の回向だ」(教巻)と端的に示してくださいました。凡夫の生を生きる私たち一人ひとりの胸の中にまで入ってきてくださる「諸仏」がいてくださるのです。「無有代者」の生を生きる私たちのために、諸仏がご苦労くださっているのです。