2014年 5月号 南無阿弥陀仏というのは、仏様の本願によって成就なされたところのつまり言葉である。

⦅曽我量深⦆『曽我量深先生講話集第4巻』より

 待ち遠しかった春でしたが、桜も散りチューリップも散りハナミズキも散り始めました。季節が変わって行きますが、これは「お迎え」が刻々と近づいているのであります。ところが現代人はその事実から目をそらすことで安心を得ようという姑息な方法をとるようになりました。どんなに目をそらしていても個人の持ち時間は秒針の動きと共に過ぎていきます。これは我々の身体の上に老化という変化を刻み込んでいます。しかし健康食品と病院巡りとウオーキングで健康なるものを保ち、デイサービスで楽しく一日を過ごそうと頭は働きますが、仏様の前に身体を運ぶということには身は働かないようです。

 それぞれの身に起こってくる老化が教えてくれているのは、終わり有る「わが身」の事実ということなのでしょう。この人生の中で集めたものは何も持てないまま旅立たねばならないのが身の事実であります。わが身というこの身体さえも置いていかなければならないのです。そんな事実に気づいたときにこれまで持ってきた人生観や価値観がひっくり返されるという体験をして、違う世界に目が開かれるということが、老(おい)を生きるということでなかったのでしょうか。そのような身の変化に正直だったのが、年をとったら寺に足をはこびお説教に耳を傾けるようになるということが真宗門徒の歴史として有ったように思います。そこには私たちの人生は南無阿弥陀仏に出遇(であう)というところに本当の意味があったのだという頷きが有ったのでしょう。

 「南無阿弥陀仏」に出遇(であう)とは、死んだ後にいいところに生まれさせてもらえる効果のある呪文を見つけたということではないでしょう。蓮如上人は「南無阿弥陀仏の六字のいわれをよくこころえわけたるをもって信心決定の体とす」(御文3-7)と教えてくださっております。「いわれ」を「よくこころえわけたる」ということが南無阿弥陀仏に出遇ということになります。

 「私どもの心の深いところに、阿弥陀如来はちゃんとおいでになる。それだから、それを南無阿弥陀仏という。南無阿弥陀仏と念ずるというと、なにか私どもの心の深い中に響くものがある。響いて応えるものがありますね。南無阿弥陀仏とは如来の喚び声である、と。そうすると私どもはまた返事をしたくなる。それは、私は返事しておりませんなんてことは言えません。返事しておりますということも言われませんが、返事しておりませんとも言い切ることは出来ません。そういうように決めることができないものがある。それを「聞其名号、信心歓喜」というのであります。それを聞くというと “はいはい、なるほどなるほど”とうなずくものがある。(『曽我量深講話集』4巻14p 昭和44年 月愛苑 発行)と曽我先生が教えて下さっております。

 「ただわれわれが、心の深いところで求めておるもの、本当に求めておるもの、それが南無阿弥陀仏である。こういうのが浄土真宗の教えであります」(同前13p)そして「名号は、南無阿弥陀仏というのは、仏様の本願によって成就なされたところのつまり言葉である。こういうように申すのであります。しかし、仏様の言葉だというよりも、言葉の仏である。南無阿弥陀仏という言葉そのものが仏である。南無阿弥陀仏というのは生きた言葉で有りましょう」(同前)「南無阿弥陀仏」とは何かを教えてくださる心に響いてくる曽我先生のお言葉です。