⦅河合隼雄⦆「対話する生と死」潮出版社 より
五月末から一気に夏の暑さに突入してしまい身体が突然やってきた真夏日の暑さに付いていけない今年の6月です。4月中旬にひいたカゼをこじらせてしまい、二ヶ月間というもの咳に苦しみました。老人がコンコンと咳き込みながらしている話を聞いていただくことは実にご迷惑だったことだろうと思います。お詫び申し上げます。
「寺離れ」と言う言葉が聞かれはじめてかなりの時が流れました。最近「直葬(ちょくそう)」という言葉がよく聞かれるようになりました。現在の東京では葬儀の五件に一件は直葬になっているそうです。「直葬」の「直」とは通夜、葬儀は行わず遺体は病院から火葬場に直行するという意味です。葬儀費用が平均18万円程度と安価で、時間も通夜や葬儀、七日の法事をしないわけですから大幅に短縮できるわけです。しかし葬儀というある意味で「別れの時間」が取れなかった人や死去を知らされなかった人たちから苦情や反感を招くという人間関係のうえでのリスクもあるようです。平成10年頃から東京で始まり、NHKが2013年に行った調査によると、地域別では関東地方が特に多く、葬儀全体の5件に1件を占めているということです。葬儀は行われないのですから当然読経は無いわけです。したがってお坊さんは呼ばれません。私のように檀家が無い寺の住職としましては葬儀が無いのは当然ですから、寺の経済問題としてこのことを取り上げる気はありません。気になるのは人間の意識の上から亡くなった人と「別れる」とか「送る・見送る」ということが無くなってしまって良いのだろうかということです。両親や祖父母が亡くなったときに別れに際して心に浮かんでくるのは「育ててもらった」という感情ではないでしょうか。言葉を変えますと「恩」ということです。「子を持って知る親の恩」と言われますが一方で「亡くなって(失って)知る親の恩」でもあります。直葬は人間にとって大切な命の事実に深くふれる機会を失うということではないのかと思います。もう一つは悲しみを深く体験するということは人間が生きる上で大切なことだと思うのですが、人間の都合優先で悲しみと出会わない人生でいいのだろうかと思います。
河合隼雄さんは「われわれが考えねばならないのは「死」一般についてのことではなく、「私の死」ではないだろうか」(「対話する生と死」潮出版社179p1992年)と書いていますが直葬は他人の死も考えないばかりか、自分の死考えようとはしない結果となるのではないでしょうか。引用の言葉に続けて河合氏は「最愛の人を交通事故で失った人が「なぜ死んだのか」と問いかけてくるとき、「出血多量です」などと科学の知によって答えても無意味である。その人は「わたしにとってかけがいのない人がなぜ 死んだのか」を問うているのだ。それでは、「私にとってかけがえのない私」の死をどう考えるのか。これに対して科学は答えてくれない」と続けています。
現在の日本は科学万能という信仰に陥っているのではないでしょうか。ただし、それは誤解であり迷信なのでしょう。なぜなら科学は老病死していかねばならない人生の苦しみには何の答えを出すことが出来ないはずです。それにもかかわらず科学が答えてくれるとどこかで勘違いしているのが現在の日本社会でしょう。科学が答えてくれるのは「解らない」だけです。