生死(しょうじ)甚(はなは)だ厭(いと)いがたく、 仏法(ぶっぽう)また欣(ねが)いがたし
生死(しょうじ)甚(じん)難(なん)厭(えん) 仏法(ぶっぽう)復(ぶ)難(なん)欣(ごん)
⦅善導大師⦆『帰三宝偈』より
とうとう今年1年の半分が終わってしまいました。皆さんの2014年、平成26年の前半部分は意義深い6ヶ月でしたでしょうか。私事ですが、まぎれもなく老年期を歩んでいるのだと実感させられますのは公共施設の入場料が運転免許証の年齢確認で金沢の兼六園でも福井の朝倉遺跡でも「70歳以上は無料です」と言われました。各地の美術館や博物館なども割引対象です。72歳は高齢者、老人と世間に認知されているのであります。
先日お寺によく通っておられるかたから、男性で有るにもかかわらずお寺の婦人会の日に住職さんから「来てくれ」と電話があったそうです。何故かと言えば女性はお一人しかお参りに来られなかったからなのだそうです。そのお寺の住職さんの気持ちがよく解ります。
今月の言葉はアレどこかで聞いたような気がするが、という方が多いと思います。そうです。真宗のお葬式で聞いておられるのです。善導大師の著されました『観経疏』という本の玄義分にある言葉なのです。(聖典 大谷派146p 本願寺派1385p 法蔵館194p)
長生き社会となっています。長寿の皆さんは長生きできたことを本当に喜んでおられるかというと、これから後どうなるのだろうという明日以降への不安があります。長寿まっただ中の訴えを聞かせてもらうことがしばしばあります。それは身体機能の衰えからくる日常生活の不自由、認知症になったらどうしょうという身にまとわり付いている不安です。耳が聞こえなくなって他の人とのコミュニケーションが取れなくなります。連れ合い、友人が居なくなり、対話の相手の居ない孤独な中で暮らさねばならず。テレビも画面を眺めるだけなのです。愚痴の末に出てくるのは「なんのために長生きしたのだろう」という悲しみのことばです。そこでは長生きはメデタイいのち、つまり寿命ではなく悲しい命、悲命になってしまったのです。
この悲命は非命であり悲鳴なのではないでしょうか。生きて来たことが悲しい今になっているという現実は「いのち」そのものが悲しんでいるのではないでしょうか。昨年から各所で話を聞いてくださる方にお訊ねしています。「私は私の力で生きていると思って居られる方は手を挙げてみてください」と。すると皆さんは用心して手を挙げられません。事実は心臓が動いていてくれているので有り、自分の力で心臓を動かしている人はだれもおりません。心臓は動いていてくれるのです。生きていることが自分の力で無いとすると、私を生かそうとしている働きからの「問いかけ」があるのではないでしょうか。「呼びかけ」と言っても良いでしょう。それが高齢と呼ばれる身の日々に感じて居る「寂しさ」であり「悲しさ」ではないでしょうか。かって「ご催促」ということばがありました。仏法を聞けという催促として受け取られていたのですが、それを無視する社会になりました。そんな社会の中で「死にたくない」という気持ちは現実に有るものの、では生きていることの意味は見つかっているかというと見当たらないのです。見当たらないまま老化が加速していく日暮らしです。「仏法欣いがたし」の現社会の実態です。