⦅曽我量深⦆『念仏のこころ』東本願寺出版部より
豪雨と猛暑の今年の夏でした。規則正しかった四季の変化に異常が生じてきていることが身をもって感じさせられた今年の夏でした。その原因は人間が作り出しているという指摘があるにもかかわらず反省の無いままに、今まで通りに経済と利便性を優先させてエネルギーを消費つづけようとする動きは止まることなく日本列島に充満しております。止まっていた原発を再稼働させようとする動きが安倍政権の元で活発になり、人間の力ではどうすることも出来ない使用済み核燃料を後世に残すことに何の躊躇もしないまま札束攻勢でことを進めようとされています。
8月の初めごろでしたがテレビを見ていて民放もNHKもお笑い芸人の芸とも思えないはしゃぎぶりに嫌気がさして教育テレビにチャンネルを切り替えたところ「みとりの里」という文字が目にとまりました。時間的に番組の途中からだったのですが、ガンのお爺さんが孫と一緒にいたいからと自宅で療養しているというナレーションがあり二人の会話の場面がありました。「今日学校でマラソン大会があったんだよ。何位だと思う?」「一位か?」「そんなわけないだろう」というものでした。そのごお爺さんは亡くなるのですが孫は「お祖父ちゃんからとっても大切なことを教えてもらった」といいます。お祖父ちゃんは絵を画くことが上手だったのですが、画いているのはすべて村の山や川の自然の美しい風景でした。それを見ていて、人間は必ず死んでいくのだけれど愛しい孫に人間にとって何が大切なことかを伝えることができる人たちのいることを知らされました。その番組では「いのちのバトンタッチ」ということを描こうとしていましたが、死んでいく人のこころの内面に「人間にとって大切なことがなにか」がしっかりと見つめられているからこそ、手渡しするということが可能になるということが受け取れてきました。最初から見れば良かったと悔やまれましたが幸いにも再放送が有り、後日全体を見ることが出来ました。
さて、必ず死んでいく私たちですが、可愛いい孫や曾孫にバトンタッチしていけるものが見つかっているでしょうか。渡すべきこれが見つかっているでしょうか。夏休みに来てくれていた小学一年生の孫がお御堂で念珠を手に持って一人で勤行本を開いて『正信偈』を揚げていました。一年生になって、ひらかなが読めるようになったからだったのでしょう。涙が出るほど嬉しい姿でした。「ジイちゃんと一緒に読もうね」と二人でお勤めをすることができました。そのうち4歳の下の子も加わってくれて暑さを忘れてしばらく時間を過ごしました。このまま、生活の中で仏様の前に座る、合掌する、念仏し、朝夕にお勤めをするということができる、そして仏様の言葉にふれることを喜ぶことのできる人になって欲しいと思いながら二人の可愛い声に聞き入っておりました。
曽我先生は「往生とは生活だ」と教えていてくださいます。「生活という語は西洋の翻訳後でしょうが、われわれの教えでは生死すると言います。」「生活は生も死も合わせていうのです。往生は生活です。その生活とは生死の中にあって、生死に支配されないということです。」「生死の支配をうけている人間が、浄土という広い世界に生活することができるようになれば、自由に生きることも死ぬこともできる。」165pまた、「生きているということは、この娑婆にご縁があるということです。しかし、ただたんに娑婆にいるということではありません。浄土というものをあたえられたことによってわれわれは広い心でもって、広い世界に生かせていただくのです」160pと教えていてくださいます。小さな人間の思いだけにしばられない人間として生きる自由さがあたえられるのです。