2014年10月号 我々は貧乏で苦しむというが、そうでなくて自己自身を苦しむ。

⦅安田理深⦆『言にたまわる信』文明堂 より

 北陸は報恩講の月10月をむかえました。9月27日木曽の御嶽山の突然の爆発で沢山の方が亡くなられました。最後に撮った記念写真では青空を背景に笑っているのに、その直後に起こった爆発で噴石を受けて亡くなられた方がおられました。公開されたその写真を見ながら、あらためて人間の命ということを考えさせられています。数秒先のことが判らないのがわが命の事実なのですが、その事実を事実として見ようとも、受け止めようともしないまま現実から目をそらして日暮らしをしていることをあらためてふり返らされております。

 今月の言葉の「我々は貧乏で苦しむというが、そうではなくて自己自身を苦しむ」は昭和51年京都市の髙野にありました文明堂という小さな本屋さんが出版された『言にたまわる信』からです。小さい本屋さんですが、良い本をたくさん出版されました。長谷川祐寛さんという話し好きの方がお一人で本を出し続けられました。

 私たちは、生まれてから死ぬまでの間は自分の考えで行動していると思っております。いろんなことを学んで、知って、判断して、そして間違いの無い生き方をしていると考えております。なかなか「間違いの無い自分の生き方という思いそのものが間違いだ」などとは考えもしません。まして、それが自分自身の思いへの執着(とらわれ)なのだとは知ることができません。わかるのは、自分を苦しませるのは外から起こってきた苦の原因が有って、それによって私は苦しまなければならないという苦の原因は外にあるという考え方です。

 このことを安田先生は「大体仏教一般について云われている概念で、而も特にその内、縁起ということは普通因縁と申していることであり、これは大乗仏教に限らずすべて大・小乗に一貫して用いられている真理であります。翻訳するひとによって因縁といい、又は縁起と云い、又は縁生と云う。つまり諸法は縁によりて起るというので、諸法縁起又は諸法縁生と申して、仏教の根本命題であります」「仏法と申すことの、その法は何をあらわすかと申しますと、因縁の法である」「それをもって知られるのですが、これは仏法の根幹をなすところの位置をあらわす教説であります」(9p)しかし、現在の私たちは、このように考えて生きております。それを「一般に人間は苦悩からのがれる為に色々の工夫をこらして享受的娯楽を追うたり、儲けてあそぶことを考えたりして苦悩からのがれようとしている。しかし、そういう行為それ自身が苦悩に脅かされているのではないか」(11p)と重ねて指摘してくださっております。

 現代社会つまり私たちが身を置いているこの社会とは、科学こそが真実を顕すのだと信じて疑わなくなった世界ではないでしょうか。そこには大きな闇があります。科学を信じている人間それ自身がある暗さを持っていることが気づかれていないという闇です。現代はこのような暗いままの人間が傲慢にも仏様の教えを聞くことも無いままに無視している人間集団が生きている世界なのでしょう。「無明で掩われた心に縁起してゐる道理を知らぬ心が苦悩をのがれんとして却って苦悩を作るのである」(11p)実は今こそ仏法を本当に聞かねばならない時代なのでしょう。