2015年 7月号 信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も、仏恩に備わるなり。

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『蓮如上人御一代記聞書180条』より

 今年の六月は九州地方は50年に一度という異常気象だったようです。連日大雨が続いて被害が報じられていました。また、アチラこちらの火山活動が活発に成っていますが、我々の足の下には真っ赤に燃えたマグマがあるのです。しかし、見えない世界であるのため、その存在を感じ取れません。仏教が説いてきた「六界(ろっかい)」、あるいは「六趣(ろくしゅ)」の一つである地獄は我々凡夫の目には見えておりません。そんな地獄なんていう世界は存在しないのだと決めている人間達の足下には、人間の肉眼には見えていないマグマのような世界が存在しているのかもしれません。立山の地獄谷の活動もいささか気になります。静かに休んでいてほしいものです。
 今月の言葉は『蓮如上人御一代記聞書』の180条 (大谷派真宗聖典886p 法蔵館真宗聖典902p)からです。まず全文をご紹介します。「蓮如上人、仰せられ候。「信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も、仏恩に備わるなり。他宗には、親のため、また、何のため、なんどとて、念仏をつかうなり。聖人の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。そのうえの称名は、なにともあれ、仏恩になるものなり。」と仰せられ候云々」現代語に直しますと、「蓮如上人がおっしゃいました。目覚めさせていただいた信心の世界においては、尊くおもって申す念仏も、またフト心が動いてもうす念仏も、どちらも仏恩報謝の念仏になるのである。他宗では親の追善供養のため、あるいはコレコレのためと言って念仏をつかうけれど親鸞聖人の教えをいただく私たちは、弥陀をおたのみする信心が念仏である。そこにたってみればどのような称名も仏恩報謝になるものであると仰せになりました。」でしょうか。

 実は前条179条にはこのようなことばがあります「心より、とうとく、あり難(がた)く、存ずるをば、仏恩とおもい、ただ、念仏の申され候うをば、それほどと思わざること、大きなる誤りなり(傍点筆者)。自ずから念仏の申され候うこそ、仏智の御もよおし、仏恩の称名なれ」(大谷派真宗聖典886p法902p)とあります。「念仏を申すことができることこそ仏の御もよおしであり、したがって、仏恩報謝の念仏なのだ」とあります。私たちが「念仏もうす」ことができたということは、これは、実は「仏智の御もよおし、仏恩の称名」なのだという、この言葉は、『歎異抄』において語られている、信心とは「如来よりたまわりたる信心」(18章)なのだ。という言葉とひとつなのでしょう。

 182条では蓮如上人が「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と、仰せられ候いて、「法敬、この心しりたるか」と仰せられ候。「なにごとも存ぜず」ともうされ候えば、仰せられ候う。「これは、われは御たすけ候、御うれしや、とうとやと申す心よ」と、おおせられ候う」とあります。「南無阿弥陀仏とお念仏申した私の心は、この私をおたすけくださることの「うれしさや、とうとさやと申す心である」とおっしゃられたとされています。
 蓮如上人は、当流つまり親鸞聖人が見いだしてくださった浄土真宗の「念仏」とはどのようにいただくべきかということを「仏恩の称名」と「御うれしや、とうとやと申す心」という言葉で現しておられます。このことは「仏智」の「仏恩」の具体的な現れこそが、この私が念仏している姿なのだ。わたしたちがふと念仏もうすそのことが仏のはたらきそのものなのだと教えられています。