2015年 9月号 聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくば、いたずらごとなり。

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『蓮如上人御一代記聞書11条』より

 秋雨前線が居座っており、雨の日続きです。地元農家の運営している野菜売り場からキュウリやトマトの姿が消えているのは長雨の影響なのでしょうか。8月から日本に影響をもたらした いくつか台風は、超大型といわれ風速も雨量も観測史上はじめてというものでした。人間の生活から はき出された二酸化炭素が天候不順の原因なのでしょうか。そうだと素直に認めない政治家や経済界、御用学者が生活水準の維持が大事だ。と言っていますが、彼ら自身の家が水に流され、風に打ち壊されなければ考え直すことができないのでしょうね。九州で原発が動き出しました。ここから産まれる使用済みの核燃料はどうするつもりなのでしょうか。経済から、つまりお金からしか人生を考えることしか出来ない生き方だけのモノを餓鬼(がき)というのでしょう。彼らの視野には負の遺産を押しつけられた未来社会で生きなければならない子孫の姿は無く、そんな世界を考える思考力や想像力は持ち合わせていないようです。根欠といいます。

 さて「今月の言葉」ですが、信心と聖教は不即不離のものでしょう。信心を確かなものとすることのできる言葉の数々が聖教でしょう。したがって聖教を持たない信心は独善に陥ります。しかし、聖教の言葉をどれだけ知っていても、精神的なはたらきが欠けていると単なる物知りに終わってしまいます。あらためて この条の全文を読んでみましょう。「聖教(しょうぎょう)をよくおぼえたりとも、他力(たりき)の安心(あんじん)をしかと決定(けつじょう)なくば、いたずらごとなり。弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、ふたごころなく臨終までとおりそうらわば、往生すべきなり。」(大谷派真宗聖典856p法蔵館真宗聖典875p)現在の言葉に直してみましょう。「どれだけ聖教の言葉を覚えていても、知っていても、それは記憶されている言葉の数々に過ぎません。仏様の教えを本当に受け取り、身につけ、人生を歩んでいくということがないならば、自分の思いとしての懸命の努力も無駄なことにすぎません。人間の思いの中で描く信心の姿の限界に気付き、人間の力の限界をはるかに超えたところで はたらいてくださっている如来のはたらきに出遇い続けていくような命の歩みに私たちの一生がなり得たとき、仏様の世界に往生するのである」となるでしょうか。

 信心の世界の足下には、「これで私は確かな信心を得ることが出来た」と思い込んでしまう世界が横たわっています。また、熱心に信心を求めるということは、熱心に聖教を学ぶと言うことでもあります。人間とは困ったものでも有ります。いつのまにか「ものしりがお」という世界に落ち込んでしまうのです。
 地元の人たちが銭湯代わりにしているような山間(やまあい)の温泉があります。入湯料が安いのと気楽なので時々出かけるのですが、ある日、顔見知りのお爺さんと湯船で出会いました。文字通り裸の付き合いになりました。このお爺さんは、お寺さんの説教が「中身が無いのに、しかも長い」と、また「勉強もしていなくて知らないくせに知ったかぶりをする」というものです。ところがこのお爺さんが「あのお寺さんは違う」とほめるのですが、そのお寺さんとは、知らないことは「知らないので、次までに調べてきます」と言える人だそうです。「信頼できるお寺さんだ」と言われました。「知らないこと」を「知らない」と言える。これは学ぶということの最も大切な基本姿勢なのだと思います。記憶したことが邪魔をして、私にかけられている如来の願いに感動することがないならば、これは本末転倒なのでしょう。