2015年11月号 心にうれしきことは、その儘なるものなり。寒なれば寒、熱なれば熱と。

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『蓮如上人御一代記聞書203条』より

 寒くなってまいりました。北陸では米の収穫が終わった十月から報恩講が始まります。11月中旬以後の報恩講は寒さが強まり、お御堂にはいくつものも石油ストーブが並びます。地方ごと、お寺ごとで異なる報恩講料理をいただくのも楽しみの一つです。大野市の松原祐善先生のお寺、円徳寺さんではブランド化している上庄の里芋のコロ煮を、その年の当番地区のご婦人方が腕をふるわれます。毎年の味の変化を楽しませてもらっております。真宗門徒が年に一度はお寺に足を運び、お斎をいただき、お説教を聞くという特別な日が報恩講だったと思います。ところが、足を運ぶ人の数は年々減っていきます。

 寺には足を運ばない人もデイサービスには足を運びます。ひとつには送迎バスがとても便利です。これにお寺は太刀打ちできません。寺参りの方は家族に送迎してもらわなければならないのですが、お年寄は、若い人に気兼ねしているのです。今の時代は「寺に行って何になる」という考え方が世代を超えて無意識に働いているのではないでしょうか。太宰治の『お伽草紙』に「浦島太郎」があります。浦島に助けられた亀が「恩返しをしたいから背中に乗れ」と言います。浦島は、そんな小さな背中に乗れるものかと断ります。亀はこういいます。「あなたは信じる能力が無いという事です。信じることは下品ですか。信じる事は、邪道ですか。どうも、あなたがた紳士は信じない事を誇りにして生きているのだからしまつが悪いや。それはね、頭のよさぢやないんですよ。もつと卑しいものなんですよ。吝嗇(りんしょく)というものです。損(そん)をしたくないということばかり考えている証拠ですよ」という文がありました。新潮文庫『お伽草紙』(242p)亀の言葉は「寺に行って何になる」という考え方の出所がどこにあるのかを見事に言い当てているように思わされました。さすがに芥川賞作家の又吉直樹が尊敬する作家だけあります。

 さて、今月の言葉の出典をご紹介します。「仏法談合(だんごう)のとき物を申さぬは、信のなきゆえなり。わが心にたくみ案じて申すべきように思えり。よそなる物をたずねいだすようなり。心にうれしきことは、その儘(まま)なるものなり。寒(かん)なれば寒、熱(ねつ)なれば熱と、そのまま心の通りをいうなり。」(大谷派真宗聖典892p法蔵館真宗聖典907p)
 現在の言葉に なおしますと「仏法の話し合いの場で、物を言わないのは信心がないからである。自分の心の中で他の人々からどのように評価されるかばかりを考えて、どう言えば良いのかばかり考えているのだ。自分にはないものを探しているようなものだ。心にうれしいと思っていれば、それは、そのまま外に現れ出るものだ。寒ければ寒い。熱ければ熱いと心に思う事が口にでる様な物のだ」となるでしょうか。

 仏法の話し合いの場でさえも、そこで自分がどう評価されるのかという事ばかり考えて、本当に自分の信心のありのままを率直に語る事のできないものがいつもあります。蓮如上人は仏法の場で自分の信心を語ると言う事は、素直に自分の心をありのままに語る事だと言っておられます。

 仏法の座で自分のいただき様を語るときに、自分をつくろう心が はたらいていれば、それは世間心 つまり自分の心で仏法を計ろうとしているのです。素直に、感じるままに語れと言われています。