2015年 1月号 つみけしてたすけたまはんとも、つみけさずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからいなり。

『蓮如上人御一代記聞書38条』より

 新しい年2015年となりました。昨年暮れに『よきひとの言葉 2』を前書と同様に北國新聞の出版局から刊行いたしました。教願寺は名刹でも何でもありません。著者も無名です。にもかかわらず、いつの間にか前書は出版元にも無くなってしまいました。また前書は2013年10月「第五回全国新聞社協議会ふるさと自費出版大賞」の優秀賞をいただきました。第二作の出版はお顔もお名前も存じ上げない方々のお声に励まされてのものです。

 今月の言葉は『蓮如上人御一代記聞書』38(聖典862p)からです。
 まずこの条の全体を味わってみましょう。
一 仰(おお)せに、「一念発起(いちねんほっき)の時、往生は決定(けっじょう)なり。つみけしてたすけたまはんとも、つみけさずしてたすけたまはんとも、みだの御はからいなり。つみの沙汰(さた)、無益(むやく)なり。たのむ衆生を本(ほん)にたすけたまうことなり」と仰せ候なり。(聖典863p)『蓮如上人御一代記聞書』38

 冒頭の「今月の言葉」に引用いたしました部分を見ますと私たちにはスンナリとは理解しにくいものがあるのではないでしょうか。私たちが「宗教」とか「信心」と言う言葉から心に思い浮かべるのは、自分の罪を消してもらい浄土に相応(ふさわ)しい人間になっていくということがあるのではないでしょうか。つまり、浄土に相応しい人間になることが信心とか信仰とか宗教という言葉から私たちが思い浮かべることではないでしょうか。ところがこの心には隠れていてなかなか気がつけないやっかいなモノが有るのです。それは自分を立てるこころです。むつかしく言えば「自(じ)是(ぜ)他(た)非(ひ)」でしょう。他を非とする心は、なんと仏様のこころさえも自分を立ててしか受け取ろうとしないことでもあるのです。「仏様を信ずる」と言いつつもそこには自分の物差しで仏様を計っているということがあるのです。三八条の原文では「仰せに」とありますから蓮如上人がおっしゃっているということです。そこには「一念発起の時、往生は決定なり」とあります。これは『歎異抄』のことばで言えば「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(1章)とひとつでしょう。したがって仏様のはたらきで私たちがお念仏もうそうという心にしていただいているのだからそれは往生を定めていただいたということなのだ。私たち凡夫が浄土に往生させていただくことは如来によって決定されていることなのですが、私たちの心のなかの執心(しゅうしん)は「つみの沙汰」をするのです。「つみの沙汰とは」こんなことでは助からぬ。そんなことでは助からぬという人間の心にとらわれた議論です。しかし、その沙汰は「無益(むやく)」なり。とされています。「沙汰」とは「ああでもない。こうでもないと論議をすること」です。「無益」とは「役に立たないこと」、「むだなこと」という意味です。「つみをけしてたすけたまわんとも、つみけさずしてたすけたまわんとも、弥陀如来の御はからいなり」とは私たちの煩悩が作り出す助かる論理、つまり良い者に成ってこそ助かるのだという人間の心が作り出す往生の論理を、それは煩悩が作り出している世界に過ぎないと教えていて下さっております。