2015年 2月号 一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。

『蓮如上人御一代記聞書137条』より

 一年間で最も寒い月の2月となりました。2月4日が立春ですが、まだまだ寒い日が続きます。京都に住んでいたころ、大寒に入ると「ホー」(法)と言う声と共に素足に草鞋履き、笠を被って京都の古い町並みを通り抜けていく寒修行の禅僧さんの姿がありました。なまくらモノは恥ずかしい思いでいたものです。また、厳しい寒さの中でも梅や猫柳等の植物は芽を膨らませています。
 今月の言葉は『蓮如上人御一代記聞書』 137(聖典879p)からです。
 まずこの条の全文を味わってみましょう。
 一 「一句(いっく)一言(いちごん)を聴聞(ちょうもん)するとも、ただ、得手(えて)に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中(しんじゅう)のとおり、同行(どうぎょう)にあい談合(だんごう)すべきことなり」と云々
 現在の言葉になおしますと「わずか一句の御教化(ごきょうけ)、一言の御言葉を聴聞するにも、とかく人はただ自分に都合のよいように聞くものである。それゆえ、いちずによく聞き、聞いて心に受け取ったままを申し述べて、仲間と互いに話し合うべきである」(現代の聖典「蓮如上人御一代記聞書」法蔵館178p)となります。この条と同じ内容のことが120条にあります。前々住上人、御法談(ごほうだん)已後(いご)、仰(おお)せられ候う。四五人のご兄弟へ仰せられ候う。「四五人の衆、寄り合い談合(だんごう)せよ、必ず、五人は五人ながら、意巧(いぎょう)にきく物なり。能(よ)く能く談合すべき」の由、仰(おお)せられ候。聖典877p

 私たちが仏法を聞こうという心を起こして、身を法座に運ぼうとするときに陥ってしまう閉ざされた世界があります。これは、自分では自覚しないまま陥ってしまう世界です。心では殊勝にも仏法を聞こうと思い立っているのですが、その同じ心の中から、仏法に背く世界に落ち込んでいくのです。「得手に法をきくなり」の「得手」とは「得手勝手」の略と「広辞苑(こうじえん)」(辞書の名です)に有ります。別の言葉で言えば「手前勝手(てまえがって)」ということでしょう。自分の都合の良いように仏法を聞くということになります。120条では「意巧にきく」と言われています。つまり意(こころ)が巧(たく)みに聞くのです。

 このことを、48条では「山科(やましな)にて御法談の御座候うとき、あまりにありがたき御掟どもなりとて、これをわすれもうしてはと存じ、御座敷をたち、御堂へ六人よりて談合そうらえば、面々にききかえられそうろう。そのうちの四人はちがいそうろう。大事のことにて候うともうすことなり。ききまどいあるものなり。」(聖典864p)座敷で蓮如上人のお話をきいていた中で六人が、あまりに有り難いお話だったから、これを忘れてはならないと場所を御堂に移して談合したところ、それぞれが聞きかえていたというのです。六人のうち四人は、つい先ほど聞いたばかりの蓮如上人のお話と違ったことを、今聞いたつもりになっていた。というのです。聞くと言うことの難しさは仏法にあるのではなくて、実は私たちのほうにあるのです。これを破るものは「談合」、つまり同朋(法を求める仲間)に聞いてもらうことなのだと蓮如上人はいわれます。
 自分好みに「得手に法を聞く」「意巧にきく」という私たちの聴聞ということの中に潜む落とし穴があり、そこでは「聞きかえ」るということすらしてしまいます。そのことを、お互いに気付きあう場こそ本当の意味で仏法を聞き、また、自分の法を聞く姿に目覚めることのできる場なのでしょう。