2015年 3月号 「極楽はたのしむ」と聞きて「参らん」と願い望む人は仏にならず。

『蓮如上人御一代記聞書123条』より

 暦の上の春の三月となりました。しかし越中路はまだまだ寒い日が続いており、冬の気配が残っております。氷が張ったり、雪が舞う日があります。梅のつぼみも固いままです。3日と4日に新潟の東三条に行っておりました。今回がJR北陸線の北越号利用の最後の旅だったのですが往路は定刻で行くことが出来ましたが、帰りは予定の列車は強風のため運休となってしまいました。次の列車と言っても三時間後が運行したのですが高岡着は定刻より一時間遅れと成り自宅に着いたのは23時30分でした。次回からの新潟行きは北陸新幹線を利用になります。

 今月の言葉は『蓮如上人御一代記聞書』123条(聖典877p)からです。この条の全文を読んでみましょう。「前々住上人、仰せられ候。「聴聞、心に入れて申さん」と思う人はあり、「信をとらんずる」と、思う人なし。されば、「極楽はたのしむ」と、聞きて「参らん」と願いのぞむ人は、仏にならず。弥陀をたのむ人は、仏になる」と仰せられ候う。」現代語に直してみます。
 「蓮如上人が仰せられました。「身を入れて聴聞しようとする人はあるが、信をいただこうと思う人はいない。だから「極楽は楽しいぞと聞いて、行きたいと願い望む人はいるけれど、それでは仏にはなれない。弥陀を頼む人だけが仏になることが出来る」とおっしゃいました。」と、なるでしょうか。

 「極楽」は「楽の極(きわ)まり」と書かれています。ところで、私たちが日常生活の中で考えることのできる「楽」とはどんなことでしょうか。何もしなくても良いでしょうか。それは、考えてみると実は楽ではないでしょうね。何もしなくてもお金がドンドン入ってくることでしょうか。しかし、死んでから後にお金が意味を持つのでしょうか。温泉にも3日も居たら飽きるのではないでしょうか。「楽」と言うことをイメージしてみてもよく解りません。今朝のテレビで千葉県のある名刹の護摩祈祷が放映されていました。たくさんの人が参詣していました。バックや財布を護摩の火や煙にかざしてもらうということをやっておりました。どうやら豊かな生活をしたいという願望が叶えば幸せということのようです。しかし、人間が生きるということは老病死していくことですから、豊かな生活が幸せだと思えるのはごく限られた時間内なのではないでしょうか。

 親鸞聖人は『教行信証』の「信の巻」に次のような曇鸞(どんらん)大師の言葉を引いておられます(聖典237p)「もし人、無常菩提心(むじょうぼだいしん)を発(おこ)せずして、ただかの国土の受楽(じゅらく)間(ひま)なきを聞きて、楽のためのゆえに生まれんと願ぜん、また当(まさ)に往生を得ざるべきなり」=もし人が菩提心を起こすこともなく仏さまの国が楽を受け続けることができると言うことを聞いて、彼の国に生まれたいと願っても、それは無理で有る」という意味ですが、仏様の国は人間の欲望、つまり煩悩が求める世界とは異質であります。次元が違うと言っても良いでしょうか。考えてみれば煩悩が満足するといえるのは煩悩の世界においてだけなのでしょう。しかし、それは煩悩の世界限定の成就であって、迷いの世界で迷いの姿が変化したに過ぎないのでしょう。「極楽の世界」と思っていても実は迷いの世界の変形にすぎないのでしょう。仏法を聞くとか、聴聞とか、求道といっても、それが人間の意識が作り出した世界であるかぎり、人間の思い、つまり煩悩が作り出す世界で終わっていきます。蓮如上人が「信」という言葉で示して居る世界は仏様の開いた世界に目覚めることのできたこころが願う世界、仏様からたまわった心に開かれる世界が仏国土つまり浄土だと教えてくださるのでしょう。