『蓮如上人御一代記聞書95条』より
季節は巡って梅が咲き、桜が咲いています。あと何回出遇うことができる春なのでしょうか。そんなことを思うと公園の桜の花も、白い木蓮の蕾(つぼみ)も愛おしくなります。春も一期一会(いちごいちえ)です。
今月の言葉は『蓮如上人御一代記聞書』95条(大谷派真宗聖典872p 法蔵館真宗聖典889p)からです。まず、この条の全文を読んでみましょう。「蓮如上人、仰せられ候う、聖教よみの聖教よまずあり、聖教読まずの聖教よみあり。一文字もしらぬとも、人に聖教をよませ、聴聞させて、信をとらすは、聖教読まずの聖教よみなり。聖教をばよめども、真実によみもせず、法義もなきは、聖教よみの聖教よまずなり」と仰せられ候う。「自信教人信(じしんきょうにんしん)」の道理なりと仰せられ候う事。(大谷派真宗聖典873p 法蔵館真宗聖典889p)
まず、最初にある「聖教よみ」という言葉は、この時代に法座で集まった人々に聖教を読み聞かせるということがありました。その読み手のことをいいます。当時は現在とは違ってすべての人が文字を読めるということではありませんでした。それで、だれか文字を読める人が聖教を皆に読み聞かせて、それを聴聞して信心を確かなものにしていこうということが行われていたのです。その代表的な例が蓮如上人の「御文」を読むことでしょう。親鸞聖人のお手紙にも「ふみかきてまいらせそうろう。このふみを、ひとびとにもよみてきかせたまうべし」(御消息集10○大573p)という言葉があります。道場で読みあげられる大切な言葉に耳を傾ける「一文字もしらぬ」人々のすがたがあったのでしょう。ところで文字が読める人、つまり「聖教よみ」に聖教を「真実によむ」という心が欠けていたなら聖教を読み聞かせたことにならないぞ。と言われています。これは次条の96条「聖教よみの、仏法をもうしたてらるることはなく候う。尼入道のたぐいの、『とうとやありがたや』と、申され候うをききては、人が信をとる」(中略)「尼入道などのよろこばるるをききては、人、信をとるなり。聖教をよめども、名聞がさきにたちて、こころには法なき故に、人の信用なきなり。」(大谷派真宗聖典873p)と重なっています。本当に「聖教を読む」とはどのようなことなのかを、私たちは問いかけられています。現在はほとんどの人は文字を読むことが出来ます。したがって、それぞれ一人ひとりが「聖教読み」なのです。文字を読むということはできるのですが、本当の意味で聖教を読むことができるのでしょうか。聖教を読むということは聖教に対する尊敬の念、そして信頼の心がまずなくてはならないでしょう。『とうとやありがたや』という言葉がそれを意味しています。聖教を読むということは、けっして聖教から知識を得ることではないのです。聖教を読むということは聞法なのです。私たちが本を読むときは、私が私の思いで読むことになります。聖教を読むとはそのようなことではないのでしょう「聖教は句面(くめん)のごとくこころうべし」(中略)私にして会釈(えしゃく)する、しかるべからざる事なり(90条 大谷派真宗聖典872p 法蔵館真宗聖典888p)とありますが、聖教は文面の通りに正確に読まなければいけない。自分の勝手な思いで読んではいけないと指摘されています。私たちは聞法と言うことさえも自分の思いに従ってしようとするのです。
「聴聞を申すも、大略、我がためとおもわず、ややもすれば、法文の一つおもききおぼえて、ひとにうりごころある」との仰せごとにて候う(83条 大谷派真宗聖典870p) とあります。仏法を聴聞すると言うところにさえも他人に対しての名聞利用という世間の心が入り込んでしまうのだぞと言われています。他人の評価や世間体を気にするというのでは仏法を聴聞することが、「振る舞い」ということ、つまりポーズをつくることに終わってしまうのです。格好だけの念仏者のように振る舞うことでで終わるな。と聞こえてくる蓮如上人の厳しいご指摘です。