2015年 5月号 往生は、一人一人のしのぎなり。一人一人に仏法を信じて後生をたすかることなり。

『蓮如上人御一代記聞書172条』より

 4月には今年はいつまでも寒いと愚痴っていたら、いきなり夏日なってしまいました。今年の春の天候は不安定です。老人の身体には、寒い冬から暖かな春を経て、ユックリと夏になってくれたなら季節の変化に除々に慣れていくのでしょうが、あまりに変化が大きいと、とまどってしまいます。しかし、いつでもキチンとした変化で季節が移るわけでも無いし、人生が経過していくわけでも無い事は「無常」という言葉が現してまいりました。

 今月の言葉は『蓮如上人御一代記聞書』172条からです。(大谷派真宗聖典885p 法蔵館真宗聖典901p)全文を読んでみましょう。『「往生は、一人一人のしのぎなり。一人一人に仏法を信じて後生をたすかることなり。余所ごとのように思うこと、且つはわが身をしらぬ事なり」と円如、仰せ候いき。」』現在の言葉になおしますと「往生とは一人ひとりが責任ある生き方をして解決していくものです。一人ひとりが自分の責任で仏法を信じて後生の問題を解決していくことです。それを他人事のように思っていることはわが身の大切なことがなにかを知らないことだ。と円如様が言われました」となるでしょう。

 円如様は(1490-1521)本願寺九世の実如上人の次男つまり蓮如上人の孫です。十二歳の時に兄の照如様が亡くなられたため、法嗣となられたのですが父実如様に先立って31歳で亡くなられたため歴代には数えられていません。五帖の「御文」八十通を編纂された方です。

 この言葉を読んでおりますと「御文」の第二帖目一通の「ことに在家の身は、世路につけ、また子孫なんどのことによそえても、ただ今生にのみふけりて、これほどに、はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三塗八難にしずまん事をば、つゆちりほどもこころにかけずして、いたずらにあかしくらすは、これつねの人のならいなり。あさましというもおろかなり」(大谷派真宗聖典777p 法蔵館真宗聖典801p)という言葉が思い浮かんでまいります。

 私たちは「今生のみにふけりて」つまり目の前のことだけに心が捉えられてしまっていて、このような「あだなる人間界」つまり「実を結ぶことの無い、意味なく過ぎていく人間界」にだけに心が捉えられてしまっており、仏法とは無縁の世界や地獄・餓鬼・畜生の世界に沈んでいくわが身の行く末のことは露や塵ほども気づこうとしないのです。まったく「おどろき・呆れるばかりです」という一節が思いあわされてきます。蓮如上人は私たちの生きざまを「あさましというもおろかなり」と嘆いておられますが、今日の私たちは「あさましい」とか「おろか」と自分を振り返ることの無いままの日暮らしにドップリとひたりきっているのではないでしょうか。「あさまし」とは古語では「驚きあきれるばかりだ」「情けない」という意味です。

 私たちの目に見えているのは私たちが見えていると決めている世界です。変な言い回しですが見えていると思い込んでいる世界、私の目で見えている世界だけが全世界なのです。見えていない世界も実は存在しているのだとは思っていないのです。しかし、人間はふと『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』(画家ゴーギヤン)と問わずにおれないのです。その、問わずにおれない人間の深いところに持っている問いを『往生』と言って良いのでしょう。そしてその問いは一人ひとりが自己責任で問わねばならない問いなのです。