2015年 6月号 仏法のこと、わがこころにまかせず、たしなめ。

『蓮如上人御一代記聞書54条』より

 暑い5月でした。春と言うより夏の気温にいきなり変わってしまったので体調を崩された方も多かったのではないでしょうか。鹿児島県の口永良部島の噴火があり、日本列島47県がすべてが揺(ゆ)れたという地震もありました。また戦後70年という年月の流れが向きを変えて、国の方向が逆方向に舵が切られてしまいました。国会で審議する前にアメリカ議会でこう決めますということを言う首相が現れてしまいました。そんなことを容認する国民無感覚さが、いつのまにか戦前回帰させていくのです。火山が火を噴くのは自然現象ですが、銃が火を噴くのは人間の仕業です。

 今月の言葉は『蓮如上人御一代記聞書』54条(大谷派真宗聖典865p 法蔵館真宗聖典883p)からです。全文を紹介します。「実如上人さいさい仰せられ候う。「仏法のこと、わがこころにまかせず、たしなめ」と御掟(ごじょう)なり。こころにまかせてはさてなり。すなわち、こころにまかせずたしなむ心は、他力なり」

 実如上人(じつにょしょうにん)(1458-1525)は蓮如上人の五男です32歳で本願寺九世を継承されました。
 現代の言葉にすれば「実如上人はさいさい仰(おっしゃ)いました。「『仏法のことは自分のこころのままにまかさないようにこころがけなさい』と、(蓮如上人は仰いました。)自分の心にまかせたなら、そのまま、そこに止まってしまうのです。そんな私たちの心に任せずに私たちの心に仏法を求めたい、聞きたいと思う心がおこってくるのは他力のはたらきなのです。」となるでしょう。
「ご催促(さいそく)」という表現がありました。このままではおれない。何かもとめずにおれない。と私を動かしてくださるはたらきを「私に催促してくださる呼びかけ」と受け取った言葉なのでしょう。身をよじるような苦しみを「ご催促だ」と受け取ることができたとき、その苦しみを転じてくださる「はたらき」を、その身に受け取ることができたのでしょう。それは「他力」の如実のはたらきを自分の身で実感した人々の表現だったのでしょう。

 「わがこころ」で仏法を求めるということはこれまで『御一代記聞書』の言葉として引用してまいりましたが「意巧(いぎょう)に聞く」「得手(えて)に聞く」と指摘されておりました。それは「聞き惑(まど)い」となっていくのです。現在風に言葉をかえますと「頭をさげないで仏法を知識として知ろうとすること」が陥(おちい)る誤りではないのでしょうか。自分好みの仏法の聞き方になります。

 私たちは仏法を聞く時でさえ自分を立てて聞こうといたします。それは、自分好みに仏様の教えを聞こうとするわけですから、ずいぶん本末転倒(ほんまつてんとう)した仏法の聞き方なのですが、いつのまにかそうなってしまいます。仏法を聞こうとしていながら、そこに自分の好みに合う講師の話しか聞かないということがあります。おそらく、そのことに「これで良いのだろうか?」と感じることは少ないと思います。また、大きなお寺の住職さんの話なら聞こうと言う気にはなるのに、檀家ゼロの寺の住職だというと聞く気にはならないということもあります。パッケージが大事なのです。「仏法のこと、わがこころにまかせず、たしなめ」とは短い言葉なのですが仏法を聞いていく上には実に大切な言葉ではないでしょうか。「自分の心にまかせないで仏法を求めなさい」というところには、いつも立てている自分を破ってくださるはたらきに頭が下がったときに、私の身のうえに仏法がはたらきとなってくださり、そのはたらき(他力)が仏法に遇わせてくださったという事実なのでしょう。