2015年10月号 仏法は知りそうもなきひとが知るぞ。

『蓮如上人御一代記聞書167条』より

 自然災害の多い年です。台風が熱帯低気圧にかわったということでヤレヤレと思っておりましたら爆弾低気圧に変化して日本列島を縦断し、沖縄では風速80メートルを記録したと報じられました。こんな強風が襲ってきたら安普請の教願寺などひとたまりもなく倒壊してしまうだろうと思っておりましたら、これがやってきました。南砺市を通過したのは真夜中でした。我が教願寺は家鳴り震動して目が覚めてしまいました。さて、どうすれば良いのかとかと思いつつ何も思いつかず寝てしまいました。台風による災害の少ない南砺市ですが、ひとえに白山連峰と立山連峰が屏風になって守ってくれていると思っています。

 今月の言葉は『蓮如上人御一代記聞書』167条(大谷派真宗聖典885p法蔵館真宗聖典900p)からです。
まず全体をご紹介します。
 「蓮如上人、おりおり、仰(おお)せられ候(そうろ)う。「仏法の義(ぎ)をば、能(よ)く能く人にとえ。物をば人によくとい申せ」のよし、仰(おお)せられ候う。誰(たれ)にとい申すべき由(よし)、うかがい申しければ「仏法だにもあらば、上下をいわずとうべし。仏法はしりそうもなきものがしるぞ」と、仰せられ候うと云々
 現在の言葉に なおしてみます。 蓮如上人は、折に触れては仰いました。
「仏法の正しい いただき方については、よくよく人にお尋ねしなさい」と。「どなたにお尋ねすればいいのでしょうか」とおうかがいしたところ「仏法のことについては年上年下とか身分とかに かかわらず尋ねなさい。仏法は、知って
いそうもない人とが、実は心得ているものだぞ」とおっしゃいました。 となるでしょうか。

 108条にも同じことが述べられています。(大谷派真宗聖典875p法蔵館真宗聖典891p)「何としても、人に なおされ候うように、心中を持つべし。わが心中をば、同行の中へうちいでおくべし。下としたる人のいうことをば、必ず用いざれば、腹立するなり。あさましきことなり。ただ、人に なおさるるように、心中を持つべき義に候」

 とありますが、蓮如上人は、信心とは、「自分の信心だ」と自分が抱え込んでおくものではない。自分のものと握りしめずに、本当に如来の仰せを、仰せの通りにいただけているのかを常に法友のまえにさらして、間違ったところがあれば素直に正してもらうべきだと言われます。私の思いで いかに真剣に聞いたつもりでも、そこに「聞き惑(まど)い」(48条)や「意巧(いぎょう)にきく」(120条)「得手(えて)に聞く」(137条)という聞き方をしてしまうことが、『御一代記聞書』のなかで繰り返し指摘されております。私たちが聞法するという行いのなかに「やっかいななこと」が かくれています。私を「訪ねたい」という方をJR福野駅まで迎えに行き教願寺まで案内したとき、その人は「エッ、こんな小さい寺の住職なんですか」とガッカリしたように言われました。「小屋みたいなモノでしょう」と答えたのですが、どうも大きな伽藍に住む住職さんが有り難い人だったようです。このように自分が持っている価値観に捉えられてモノの事実が見えないということがあります。人間を年齢、性、職業、学歴、財産で決めようとする価値観を仏法聴聞の世界にまで持ち込んでしまうのです。蓮如上人は自分の信心を語ろうとするときついつい「わが心に たくみにかんがえて語ろうとするけれど、それは自分のものでは無くて他人様のものでしかない。寒ければ寒い。暑ければ暑いと言うように心のありのままを語れば良いのだ」(203条趣意)言っておられます。「本当に判った人は沈黙する」ということがあります。「知りそうも無い人」とは自分を飾る必要のなくなった人でしょうか。