2015年12月号 ただ、仏法は聴聞にきわまることなり。

『蓮如上人御一代記聞書193条』より

 寒今年のカレンダーも最後の1枚になりました。過ぎてしまった年月を振り返りますと蓮如さんの御文の「ただいたずらにあかし、いたずらにくらして老いの白髪となりはてぬる身のありさまこそかなしけれ」(御文4帖目の4通 真宗聖典817p)という言葉が身にしみてきます。本当にいたずらに過ぎてしまった11ヶ月の年月ですが、それがゴミ箱に消えてしまったカレンダーの一枚一枚です。しかも、それは一年だけではなくて重ねてきた年月のほとんどですから悲しくなります。
 私と同年齢の幼なじみが、自分が70歳を超えてしまったことにふと気づいたときに浮かんできたのが両親の姿だったそうです。「自分の年令の時には、両親はそろってお寺にお参りしていたなー」と思ったとき、全く仏法を聞いたことのない我が身の姿が「大切なことを放置したままでいるなあー」と思えてきたのだそうです。どこか近くのお寺へ行こうかと思い立ったのですが、法話会が開かれているお寺は近くに見当たらなかったそうです。「仏法あいがたし」という言葉がいよいよ具体的になってきた今日の時代です。末法という時代には、仏法は竜宮に入ってしまうと説かれていますが、老病死していく人間の根本的な有り様は釈尊の時代と全く変わっていないのに、人間が生きるということの深いところからわき出してくるような問いは、問いを深めていく場を失ってしまつた時代になっているのです。
 清沢満之先生は「人心の至奥より出ずる至盛の要求の為に宗教あるなり」(御進講覚書)と宗教を定義しておられますが「人心の至奥より出ずる至盛の要求」が私たちの上に起こってきても、この体の持っていき場所が無くなってきているのが21世紀の日本の現実のようです。もちろん、私たちの煩悩が要求していることを、「うちの宗教は満足させてあげますよ」というような宗教はありますが、それは人間の迷いの心を満足させるだけのものであって、人間の迷妄をより深めていくだけに過ぎないでしょう。
 今月の言葉の『御一代記聞書』193条の全文を紹介いたします。「いたりてかたきは、石なり。至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、お慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々」(大谷派真宗聖典887p法蔵館真宗聖典904p)
 きわめて堅いものは石です。きわめて柔らかいものと言えば水です。その水が石に穴を開けてしまうのです。心の深いところにある真実を求めずにおれない心に徹するなら、覚りのみちを成就できないということがあろうか。という古いことばもある。どれほど信心が無いというものであろうとも、心の底から聴聞していこうとするならば、そこに仏の慈悲の心が働いてくださるから、やがて信心をいただけるであろう。仏法は聴聞にきわまるのである。と現代語訳することができるでしょうか。
 私たちはネット社会に身を置いております。その検索機能を使用すればたくさんの情報を集めることができます。しかし、その情報の中に無いものがあります。それは仏様の光に照らし出された我が身の事実ということです。我が身の事実に頷くということがないかぎり、仏法も情報の一つになってしまいます。聴聞とは、自分の力では知ることのできない我が身を知らしてくださる仏様の知恵の働きとの出遇いでしょう。また、そこに迷い続けずに我が国に生まれんと思えという呼びかけを聞き続けることでもあるのでしょう。