源信 『教行信証』 『往生要集』からの引文
10月の1日から3日まで井波別院の報恩講に御縁をいただきました。昨年 は 広い本堂に流れてきた寒気に参詣の皆さんは ひざ掛けをかけ、中にはコートを着て さらに背中にひざ掛けを羽織る方がおられたのですが、今年 は 台風17号の影響で、打って変わってジッとしていても汗ばんでくる暑さで、半袖姿の方が多い報恩講でした。「扇風機がほしい、団扇(うちわ)が欲しい」と思った報恩講 は 初めての経験でした。
ここ数年間の私の課題になっている言葉が有ります。『教行信証』の中で4カ所に「帰去来(いざいなん)」という言葉が使用されているのです。そのうち「証(しょう)の巻(まき)」(真宗聖典284p) 「真仏土(しんぶつど)の巻(まき)」」(真宗聖典321p)「化身土(けしんど)の巻(まき)」」(真宗聖典355p)の三カ所の引文(いんもん)に心(こころ)引(ひ)かれています。引文(いんもん)とは 親鸞聖人が引用された文章 ということです。
証(しょう)の巻(まき)は「帰去来(いざいなん)、魔境(まきょう)には停(とど)まるべからず。曠劫(こうごう)より このかた 六道(ろくどう)に流転(るてん)して、尽(ことごと)くみな径(へ)たり。いたるところに余(よ)の楽(らく)なし、ただ秋嘆(しゅうたん)の声を聞く。この生平(しょうひょう)を畢(お)えて後(のち)、かの涅槃(ねはん)の城(みやこ)に入(い)らん」とあります。 ここでは 私達が止(とど)まりつづけたい と執着している この世界 を「魔境(まきょう)」と表現され ています。辞書をひきますと「魔」とは「梵語 māra´すなわち悪鬼・外道の音訳語として作られた。唐以後の文献にみえる。1 おに 2外道 3心が迷い込む」とあります。「字通(じつう)」また「大言海(だいげんかい)」には「人命を害(そこな)い、人の善事を障碍するもの」とあり、「 魔羅(まら) を見よ。」とありますから「魔羅(まら)」を引きます と「智慧の命を奪う因縁となる故に能奪命(のうだつみょう)と訳す。能(よ)く修道(しゅうどう)の障碍をなすゆえに破戒善者(はかいぜんしゃ)とも訳す。」とあります。そうしますと「魔境(まきょう)」とは、人間の心を迷わせ、命を害(そこな)い、人で有ることを妨げ損(そこ)なう世界 ということになります。「真仏土(しんぶつど)の巻(まき)」の引文は「証(しょう)の巻(まき)」と同文です。「化身土(けしんど)の巻(まき)」の引文は少し違 っています。「帰去来(いざいなん)、他郷(たきょう)には停(とど)まるべからず。仏(ぶつ)に従(したが)いて本家(ほんけ)に帰(き)せよ。本国(ほんごく)に還(かえ)りぬれば、一切の行願(ぎょうがん)自然(じねん)に成(じょう)ず。悲喜交(まじ)わり流(なが)る。深く自(みずか)ら度(はか)るに、釈迦仏(しゃかぶつ)の開悟(かいご)に因(よ)らずは、弥陀の名願(みょうがん)いずれの時にか聞かん。」とあります。
ここでは他郷(たきょう)とあります。郷とは故郷です。私達の心が本当に落ち着くところです。あるいは私達の心身が 還りたい と願っているところです。そういたしますと「化身土(けしんど)の巻(まき)」の「いざいなん」つまり「さあ いこうよ」という呼びかけは、「ここにいても落ち着くことが出来ない場所 心身が安らぐことのない世界 を もう離れて、本当に落ち着くことの出来るところ 本当の魂の本国 故郷 に 帰ろうよ。」という 呼びかけ です。そして、その呼びかけ が 聞こえない私達の日常生活 が あるように思います。呼びかけ は 仏(ぶつ) からです。
今月の言葉の「魔(ま)は煩悩に依(よ)って菩提(ぼだい)を妨(さまた)ぐるなり。鬼(き)は病悪(びょうあく)を起こす、命根(みょうこん)を奪(うば)う」源信(真宗聖典398 p)には「魔(ま)とは煩悩に依(よ)って菩提(ぼだい)を妨(さまた)げる」働きであると定義し、「鬼(き)とは病悪(びょうあく)を起こす、命の根っこを奪う」働きである としておられます。私達の煩悩の火を焚(た)きつけて燃え上がらせ、菩提心(ぼだいしん)を妨げてしまう働きを魔という。命の根っこを病気にさせて、人間が本当に生きるということを奪ってしまうもの。それが鬼である としてしめしてくださっています。煩悩が作り上げている幸福感に振り回されて生きる時、それは、命の根っこを奪われて生きているということだ と 現代社会の苦悩が言い当てられているように思います。