正親含英 『流水に描く』法蔵館220p
今年は例年より早く、三月の終わりに桜の花が咲く準備をはじめました。と 思っていたら四月一日の朝は屋根が白くなっていました。自然のいとなみ は 人間の計算どおりにはならないものです。もっとも、こうなるという天気予報の方はあたっておりました。
今月の言葉は正親含英先生の『流水に描く』法蔵館 昭和56年刊 からです。正親先生 の言葉は論理的にも響く力があるのですが、むしろ胸に響いてくる力を感じさせられます。どの著書を開いても、知識や知恵によって真宗の教えの理解をしていこうとするあり方に たいして、「決してそうではないのだ、学問や知識 つまり頭脳で分析や解釈することではないのだ。」と説いておられます。浄土真宗が生きてきたのは知者の世界ではなく、人間が人間であるかぎり持っている感性、あるいは魂の世界であったことが御著書の どの頁からも、どの行間からも聞こえてまいります。
※ 智慧の字は仏様、知恵の字は人間のものと区別されます。
今月の言葉として紹介している文章の数行前に「仏教は智慧の教えであり、信心は智慧であります。それは知識ではありませぬ。仏教の知識 と その智慧 とは異なり 真宗の知識 と 信心 とは異なります。世間の言(ことば)でも、知識のある人がいう のと 智慧のある人がいう のとは異なっています。いかに知識があり、何でも知っていても、世の中の少しもわからぬ人があり、新聞の読めぬ人でも物事のわかり、世の中のことのわかる人があります。」(中略)「年とともに世の中のこと、人の心がわからなくなってきます。わからなくなるほど世間がわかってきたのであります。これが智慧というものであります。そこに年の味、苦労の味があります。」(220p)
私自身が77年という長い人生を歩ませていただいて、うすうす ですが「長生きは大事なものだ」という感をいだくようになってきました。幼児期は病弱でした。両親はお医者さんから「この子は あきらめなさい」と何度か いわれたそうです。私の幼児期の記憶に寝ている布団が ぐるぐる回り、その布団ごと沈んでいく という感覚が残っています。多分、そんな時は、「この子は もうダメだろう」と医学的には見えていたのでしょう。しかし、その後 長生きさせてもらえました。しかも無檀家の小さな寺の住職というある意味で 自由な時間ばかり という幸せな境遇をいただきました。無檀家は他の多くの住職さんのような仕事はありません。まことに真宗を学ぶということには恵まれた環境なのです。欠点は生活の保障はありません。しかし、貧と持病は「わが命」ということと向き合わせてくださる大事な御縁でした。そんなことをわからせて
くださる世界を正親先生は「仏法は、この智慧の法であって、知識の法ではない。ゆえに、知識でもって仏法は聞くものではない。おのれを虚(むな)しうして 素朴なむね もて うなずくべきものであります。(221p) と語られます。そして、まさに現在の世相にピッタリなのですが「仏法の聞きがたい八難のなかの一つは世智弁聡(せちべんそう)である」(同前)としておられます。世間的な賢さが仏法を聞こうともさせない、それは本当の智慧にふれることの出来ない難=「わざわい」だとされています。