2019年 6月号 本願を信じ念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。

『歎異抄』12条

 浄土真宗の信心とは どのようなことか を わずか数語で言い尽くしているのが、『歎異抄』12条の この言葉でしょう。ところで、この言葉が歎異(なげき批判)していることがら とは この条の冒頭にある「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条すこぶる不足言の義といいつべし」というところに示されています。「念仏していても、経典や高僧方の書かれた論釈を学問しなければ往生できるかどうかわからない」というものです。
 これは比叡山で 20 年間ものあいだの伝統的な仏道修行から一転して山を下り、京の町中の法然上人の門に入るということによって、生きるために悪戦苦闘しなければならない庶民生活のただ中に 仏弟子として歩む道がある ことを見いだしたのが「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀に たすけられまいらすべし と、よきひとのおおせをかぶいて、信ずるほかに別の子細なきなり」(2 条)と言い切っている親鸞聖人の信心なのですが、異義者たちは「学問しなければ」信心は得ることが出来ない という学問に対する幻想から離れることが出来ないような信心に執われている人々です。

 現在の私たちが日常意識の中で 真宗を学ぶ ということを思うときには、必ず何かの聖教をテキストにして、色々な先生の講義、講演録、解説を読もうといたします。そして、あの先生はこう言っている。この先生はこう言っている。A書にはこう、B書にはこうあると知ることが 真宗の学びだ と思っております。そこから離れることの出来ないような固定された思い込みがあります。ところが12条の終わりの部分に このような言葉があります。「なにごごろもなく、本願に相応して念仏する人をも、学文してこそなんど と いいおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。」という きつい言葉です。どうして「法の魔障なり、仏の怨敵なり」なのでしょうか。

 この条の最初に戻って読み直してみましょう。「本願を信じ念仏もうさば仏になる」ということを本当に頷くことの出来ない人の有り様を「経釈をよみ 学すといえども、聖教の本意をこころえざる条 もっとも、不便のことなり」という言葉が指摘しております。経釈を読んでいるのですから、仏法を学んでいるのです。そのつもりなのです。しかしそのありようは「聖教の本意をこころえ」ていない という厳しい指摘なのです。さらに「学問をむねとするは、聖道門なり。難行となづく」とあります。真宗の教えを聞いていこうとするにもかかわらず、それが聖道門の心に立っているというのです。浄土門とは「一文不通にして、経釈のゆくじ も しらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに易行という」という念仏に立っていたはずだったのに いつのまにか、「経釈をよみ 学す」という「難行となづく」ところに立ってしまっているのです。「あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと」という言葉があきらかにしているのは、私たちの聞法するという世界にも「名聞利養のおもい」がひそんでいて、それが真面目に教えを聞いていこうとするところにも、いつのまにか 真面目に という顔をして鎌首をもちあげてくるのです。その鎌首どうし が批判し合うことを「浄論のところには もろもろの煩悩おこる」という言葉で煩悩が仏法聴聞の私たちの心中にひそんでいることを明らかにしています。
 「本願を信じ念仏もうす」という念仏生活を難しくしているものの正体が なんであるのか は 私たち自身の深いところにある「名聞利養のおもい」が顔を出してくることなのでした。

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