親鸞 『一念多念文意』
この言葉に ふれるたびに、なんと みごとに「凡夫」を言い尽くしていることだろうと感動してしまいます。出典は『一念多念文意』(真宗聖典545p)です。大谷派本願寺に真蹟本が保存されていますが、それには「康元二歳二月十七日愚禿親鸞八十五才」の奥書があります。少し説明が必要なのですが 親鸞聖人が京都に戻られて月日が流れていくと関東の門侶の間に信心の相違を争うようなことが おこってきました。その争いを収めるために高齢の親鸞聖人は動くことは出来ませんから長男の善鸞さんを関東に赴かせたのですが、かえって義絶事件ということが おこってしまいました。親鸞聖人が京都に戻ってから20年という月日が経ってきますと、様々な「まったく おおせにてもなきことをも おおせ とのみ もうすこと、あさましく、なげき存じそうろうなり。」(『歎異抄』後序)と記されておりますが、直接に聖人の謦咳(けいがい)に接することの出来た人達が亡くなっていく状況ですから、そこにさまざまな異義が生まれてきます。『歎異抄』の2条の命がけで上洛した「おのおの十余か国のさかいをこえて身命をかえりみずして」上洛した人々にも、また、親鸞聖人から直接に声で教えを聞いて、感動して念仏していた人々の中にも信心の惑いがおこっていたのです。そのような中で聖人は手紙をしたためられ、聖教を写して送り届けることをしておられます。『御消息集』(広本) 真宗聖典575p に「ちからをつくして、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』の文のこころども、『二河の譬喩』など かきて、かたがたへ、ひとびとに くだしそうろうとも、みなそらごとになりてそうろうと きこえそうろう」と記されているような状態になっていたのです。先にふれました善鸞義絶事件も長男として関東の念仏者が自説を主張し、乱れている関東教団の中に入って聖人の正しい教えを伝えて行く役割を果たすはずだったその人 が混乱をひきおこしてしまうのです
そのなかで『一念多念文意』と『唯信鈔文意』には聖人自身の奥書がそえられています。「いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき、ぐちきわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、とりかえし とりかえし かきつけたり。こころあらんひとは、おかしくおもうべし。あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかえりみず、ひとすじに おろかなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。康元二歳丁巳二月十七日 愚禿親鸞 八十五歳 書之」というものです。
このような状況の中で自らの力の限界を深く思い知った聖人は「康元二歳丁巳二月九日の夜 虎の時に夢の告げに云わく」として「弥陀の本願信ずべし、本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり。」という正像末和讃の巻頭の一首を聞き取られます。
このような高齢の中で体験させられた肉親もが その苦の因になっている という悲しみの中で 聖人ご自身が本当に頷いた 凡夫 という身の事実を顕しているのが巻頭の言葉ではないでしょうか。