正親含英
今年のカレンダーも残すところ2枚となってしまいました。これまでに感じたことのないような早さで10ヶ月が過ぎてしまったように思います。2020年は「新型コロナウイルス」という耳なれない言葉に振り回された年でした。「感染防止対策」という言葉が まるで水戸黄門の印籠のように人々を従わせる力を発揮したのではなかったでしょうか。マスクと手洗いが国民生活の中で定着してしまったようです。そればかりではなくコロナは人間が集まることを制限する力を発揮して様々の集まりが中止され、また従来に なかったような形 に変化させられてしまいました。「リモート」という言葉が私たちの日常生活に入り込んできました。身近なところでは「感染対策」が葬儀にも変化を もたらしましたが、法座とか法話会という浄土真宗の伝統のなかで大切にしてきた集まりが開かれなくなりました。お寺に人が集まれないのです。今年の報恩講は従来とは違う形になってしまいました。コロナは、すぐには明らかになることがないのですが浄土真宗の門徒の間で750年以上も保たれてきた精神生活に変化をもたらしていくのではないかと感じています。
今月の言葉は正親(おおぎ)含英(がんえい)先生の『真宗読本』-正親含英文集1- 法蔵館 からいただいています。
「念仏」と題された章で「念仏成仏これ真宗」という一節があります。「念仏してこの人生をゆき、浄土に至りて仏となるというのが、浄土真宗の教えであります。念仏というのは、心で仏を念ずるのも念仏であるが、今は口に、南無阿弥陀仏と仏の名号を称えることであります。日本の浄土の教えにあっては、皆 念仏を称えるのであります。ところが、今の人は、念仏なんか称えても何もならないと思ったり、念仏は何か呪文のように考えたり、ともかく念仏が称えられなくなりました。本願の思想を語る文化人、知識人も、念仏なんか称えない と いわれる人もあるのです。しかし、念仏がない浄土真宗もなければ、念仏にならない本願もないのであります。念仏は、本願の念仏であり、本願は「南無阿弥陀仏という本願」なのであります。(36頁)つづいて「帰依のことば」という一節で「南無阿弥陀仏というのは、合掌し礼拝する心の姿勢を言葉で表わしたのであります。「おはよう」とか「おやすみ」とか いっても いわなくても同じでしょうか。朝夕の人に対する心の態度がそうした挨拶の言葉になっているのでしょう。何もならないというが、柔和な心から出る それらの言葉によって、聞く人の心も和らぐのではありませんか。言葉というものは、こころの態度が声となってあらわれ、それによって われ と 人 との 感じ も 通じ、それによって すくわれるのではありませんか。暑ければ 暑い といい、寒ければ 寒い というのです。それによって暑さの温度が下がりはしないが、お互いが暑さの中を凌(しの)いでゆくのでありましょう。とすれば合掌礼拝には合掌礼拝の言葉がある。それが南無阿弥陀仏であります。」(37頁)
少し長い引用になりました。コロナ自粛なるもので お寺が法座を中止している中でこの数ヶ月間、私の課題がありました。それは「浄土真宗」とは どのような意味なのかということを問い直すということでした。『教行信証』では「念仏成仏これ真宗」と法照禅師(ほうしょうぜんじ)の言葉が引用され、善導大師の「真宗遇(あ)いがたし」が対句になって使用されています。(真宗聖典行巻(ぎょうのまき)179p)数ヶ月間そのことを課題にしているのですが、コロナがくれた課題であります。