大井 玄 『人間の往生』より
6月を迎えました。コロナ騒動の3ヶ月がすぎてしまいました。政治的な配慮で「緊急事態宣言」なるものは解除されましたが政治的な配慮ですからコロナの感染が終息したわけではありません。緊急事態宣言のなかで 私たちは 外出を控えて 家にいたわけですから、忙しい、忙しい という普段の生活では持つことが出来なかった意味ある時間をこの2ヶ月間は持つことができたのでは無いでしょうか?。私は残念ながら 持てた とは 言えません。また5月30日の土曜日は「待ちに待っていた」と 嬉しそうに街に繰り出した人たち がしていることは、美味しい物を食べるとか、営業停止していたデパートなどに入るということでした。その映像をみながら、これでは、すぐに2波が始まるのではないかと感じたのでした。
今月の言葉は、2ヶ月間も外に出ることが出来なかったのだから、このような事実に沢山の人が気づいただろうかな?と思いつつ 東大医学部教授などをつとめられた大井玄(げん)先生の『人間の往生』新潮新書(2011年1月発行)からです。
(1935年生まれ 東大医学部教授 国立環境研究所所長などを歴任)
清沢満之先生の言葉に「宗教は人心をして其(その)根帶(こんたい)を自覚せしむるものなり、信仰は即(すなわ)ち其(その)の自覚なり」(岩波清沢満之全集6巻339p)があります。根帶(こんたい)の帶(たい)とは「へた」という意味で『字通』によりますと「瓜(うり)がツタにつらなるところ」とあります。今月の言葉は 清沢先生の この言葉 を 現在の言葉 で言い表してくれていると思うのです。20世紀後半に入って 個人 ということが 大切だ と言われるようになりました。しかし、そこで見失われたのが 命の繋がり ではなかったでしょうか。個の尊厳 を主張しながら、 他という個の尊厳 は軽視するということになっていないでしょうか。個の尊厳が自己主張を主張するだけ、つまりは ワガママ社会 になってしまいました。ワガママですから自是他非(じぜたひ)です。争うだけの世界 になってきました。しかし、その世界は人間には 心安らかに過ごせる社会 ではありません。人間にとって居心地悪く住みにくい社会 が出来てしまいました。
蓮如上人は「人のわろき事は、能(よ)く能(よ)く みゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。」(『御一代記聞書』195)といわれました。私たちの目の働きを端的に教えてくださる言葉です。外に出ることができず家の中に籠もっていてイライラするばかりだった2ヶ月 で終わったとしたら、もったいない2ヶ月です。街に出て気晴らしすることが出来ないストレス で 家庭内の喧嘩 が始まっているようなことだけで終わるのでしょうか。大井先生の言葉をその前後を加えて紹介します。「判(わか)りきったことですが、私たちは、空気、水、食べ物、その食べ物が作られる自然条件、父母、祖先その他無数のつながりによって いかされています。すこし考えると それは理解できるのに、日々その事実を忘れて生活するのが私たち凡人です。」とあります。蓮如上人の言葉 と重ね合わせて考えてみてください。人の悪きことしか見えない目 では 判(わか)りきったこと が見えないのです。目に見えないコロナが問うていること が 私たちが身を置いている世界の真の姿、根帶でつながっている世界 に この身を置かせてもらっている事実 に目覚めよ という呼びかけ と聞こえませんか?