2020年 8月号 念仏は 仏法を凡夫の身につけしめるものである。

金子大栄 『聞思室日記』コマ文庫21p

 この春から「新型コロナウイルス」なるものに自宅に閉じこもることを余儀なくさせられているうちに8月になってしまいました。東京や大阪、名古屋、福岡などの大都市の感染者数を毎日のように知らされていますが、出かけずにおれない、飲まずにおれない、集まって談笑しないではおられない人間の心の中をコロナウイルスに見透かされているのではないかと感じさせられるような大都市での感染者の激増です。
人間が目に見えないウイルスに操られているようではありませんか。

75歳以上の後期高齢者の運転免許更新のため認知機能検査を受けてまいりました。今回も記憶力・判断力に心配の無い者の中に入ることが出来ましたが、次の更新は80歳の時だと考えますと、80歳に現実感が伴わないのですが、えらい年齢になっていることを確認させられたのです。

 大谷学大学に入学した昔のこと「仏教入門」という講義が必修科目でありました。「生老病死」の「四苦」を最初に聞かされました。18歳が「老病死」という苦 を聞かされましても 頭の中の世界 でしたが、78歳になりますと、これが身の現実そのものなのです。死は未だ経験しておりませんが、同級生が何人も亡くなっています。それどころか後輩の訃報まで聞くようになってしまいました。「死」も一般論から次第に私のリアルなもの となってきております。そのような「老病」の現実から改めて「往生浄土」という 長らく聞かせていただいてきた言葉なのですが、頭の中で「往生」とは「浄土」とは どのようなことか?と・・お聖教を開いてきたこれまで とは 異なる響き が聞こえてくるようになりました。親鸞聖人の「目もみえず候(そうろ)う。なにごともみなわすれて候(そうろ)ううえに、ひと などに あきらかに もうすべき身にもあらず候(そうろ)う」(『末燈鈔(まっとうしょう)』真宗聖典605p)という お言葉が、耳が聞こえにくくなり、目が見えにくくなり、記憶ということが曖昧になってきた身になって、あらためて 親しい言葉 として聞こえてくるようになりました。鈴木章子さんに「仏様の おことば が わかる 今の生(せい)いただきまして ありがとうございました 仏法を お聴かせいただく身に させていただきまして ありがとうございました。」という言葉があります。(「癌告知のあとで」探求社190p)また「お経とは 私が称える と思っていましたら 南無阿弥陀仏の諸(しょ)仏陀(ぶつだ) が 私に称えてくださっていることに 気づきました。」(同前179p)と書いておられます。鈴木さんは乳がんが、肺ガンに転移していく苦しみの中で「人が 死に対面したら 死を自覚したとき ハッと目覚めさせられるもの」(90p)と「宗教的感性」(仏性(ぶっしょう))と言い表しておられます。運転免許証の更新に手間暇かかる後期高齢者には「ハッと目覚めさせられる」ことが有って当然なのではないのでしょうか。金子先生は「念仏は仏法を凡夫の身につけしめるものである」(昭和50年発行『聞思室日記』コマ文庫)と教えてくださっております。「念仏は仏様のはたらき」だと教えてくださっているのでしょう。
 「念仏」という言葉を、私が仏法(仏教)を信じられるようになってから南無阿弥陀仏と称えることだと思っていないでしょうか。それは 私の力で仏様の教えを理解してから信じることができる という思いです。鈴木さんは「仏様の おことば が わかる 今の生(せい)いただきまして ありがとうございました」と言っておられます。
 私流ですが「信心」とは「仏様の願い」に気づけたこと。仏様の呼びかけが聞こえてきたこと。だと気づかせていただいております。念仏 とは 仏様に念じていただいていること に 目が覚めたこと ではないでしょうか。