木村無相
早くも10月になってしまいました。コロナの感染者の数ばかり数えていて9ケ月がすぎてしまいました。富山県で感染者数が急増した8月末から9月末まで教願寺の月2回の定例と婦人会はお休みにさせてもらっていました。9月末から どういうわけか全国的に感染者数は減り始めてきました。定例法座と婦人会の再開をまっていてくださる方がおられますから10月から再開させていただきます。しかし、いつリバウンドがあるかわからないという一面もあります。
今月の言葉は木村無相(むそう)さんの『念仏詩抄』永田文昌堂 昭和60年刊 からです。フェイスブックというネット上の情報交換のシステムがあります。FBとも書きます。世界で25億人が利用しているそうです。実は先日、金沢にいる義妹のFB友達が、東京のお寺の掲示板の写真を撮って、そこにある木村無相さんの「愚かな愚かな わたしです それさえしらぬ わたしです」という言葉に対して「イマイチ ゆうめいなひと」という書き込みをしていたら、すぐにその人の友達が「卑下もすぎると いやみになる」と書き込みしていると、メールで知らせてくれました。
義妹としては、
「北陸の人間には違和感のない木村さんのことばだ。「ナンマンダブツ」と お念仏する人がいるところで育っているとスーッと入ってくる言葉だけれど、実際には会ったこともないネット上だけの友達だから反論も しにくい。この書き込みをした人は読書が趣味だけれど その本には自分には興味をもてない本ばかりだ。」と書いていました。
それで、私は、
「こんなひとは実はイッパイいるよ。自分は なんでもわかる賢い人間だと思っているが、自分自身というものが わかっていない人たちだ と思う。木村さんは有名になることを拒否した人であるけれど、大谷派では よく知られた念仏詩人だ」と返信しておきました。
書きながら、いわゆる有名な人たちの言葉の 中身の無さ、浅さ を思っておりました。
木村さんの言葉が読めない二人のご婦人の年齢は60歳を超えているようですが、情報というものはイッパイ集めて持っているのでしょう。しかし自分自身を省みることはできない人のようです。仏法に出会えないタイプの人間として「世智弁聡(せちべんそう)」が八難(はちなん)の一つとされています。世間のことに聡(さと)い人ですが仏法には出遇うことができない という賢さです。賢いつもりですが その賢さの正体は邪見なのです。木村さんの悲しみを笑っているし、理解できないまま「卑下」だ としか受け止められず「嫌(いや)みになる」と言っていますが、私とは これだけのモノでしか有りません と自己告白しているのでしょう。この お二人は、今月の言葉の「偶然の生 ありがたき 必然の死 ありがたき」は 理解の範疇(はんちゅう)にない言葉でないでしょうか。
あらためて親鸞聖人の「悲しきかな、愚禿(ぐとく)鸞(らん)、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と」(信巻(しんのまき))の文を思います。鋭い刃物で抉(えぐ)り出したような告白です。これは仏智によって見定められた人間の姿なのでしよう。ですから本当に確かな仏様の智慧に出遇えた という告白でもあるのです。確かな智慧に出遇えないと人間は迷うのですね。